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明治に入って以降、元々武家の家柄だった者は教職や公務員など、勉学で身を立てる人が多かったと聞きました。
これって何故その様な志向になったのでしょうか?
武闘派で剣術や馬術などを日々鍛錬していた一族が、急遽知識階級へと遷移するのはいささか疑問です。 
私の家も亡き祖父やその兄弟が全員公務員や教職というやや特殊で、遡ったらそれだったのですごく気になりました。

A 回答 (7件)

武士は支配階層です。

原理主義的意味での武士というのは武装した下級貴族です。発生当時の武士は、武芸を家芸とした下級貴族と地方豪族であり、支配階層なのです。
鎌倉時代から、武士の素養として文書作成能力や司法行政能力が長けていなければ、下々を支配することも幕府の役職に就くことも出来ず、近隣の武士から所領を横領されたうえに裁判でも負けて、あっという間に没落しました。
戦が無い江戸時代になるとそれは顕著で、武士は番方と役方に二分されます。番方はあなたが想像するような武闘派の家で、仕事はほほ警護役しかない閑職です。時代を経るに従い少なくなる傾向があります。もう一つは役方で、こちらは行政官として徴税や下々の支配、司法や主家の家政など事務仕事をこなす出世コースです。江戸時代の多くの武士はこちらに就いていました。
維新後、番方は軍人や警察官、はたまた車夫といった仕事に就く者が多かったのに対し、役方は経験を生かしてそのまま公務員として採用されたり、教師に転向したりするのが多かったのです。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。
仰る通り、支配と統治には暴力だけではなく法律を定める必要がありそこに文書作成力や司法行政力は支配者たる武士として必須の術だった訳ですね。
とても面白い知見をありがとうございました。

お礼日時:2024/04/03 22:23

武闘派の方々は、警官、馬車での郵便配達(金目のものも運ぶのでガードマンの役も兼ねて)などに行ってます。


武家の商法という言葉が生まれたように、商いを始めた人のほとんどは失敗しています。
肉体労働向きではなく、商才なし。しかし、学問の分野は庶民よりやや下地がある人たちが、教師を目指したでしょう。
それ以外の公務員は、失業した武士の受け入れ先として。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。
武闘派は肉体系の職へ、文官を担った者は学問へ、という棲み分けがあったのですね。

お礼日時:2024/04/03 22:16

平和な江戸時代が長く続き、武士も武術よりも行政能力や算盤が重視されるようになりました。


江戸時代の武士は公務員だったのです。知識階級だったのです。

明治以降も、行政能力に優れていた武士は、そのまま地方政府高官に採用され、教養のある武士は義務教育化で全国津々浦々に新設された学校の教師となり、特に知識の深かった者は大学や中学高校などの教員や研究職に採用されました。武術に優れていたものは警官への道がありました。

江戸時代の武士は、文官としての役割が本分であり、武芸は今で言えばクラブ活動やサークル活動のようなものです。
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この回答へのお礼

武士が行政官だということは存じてますが、ごく一部の上士だけかと思っていました。
まさか下級武士にも学があったとは、素晴らしいですね…

お礼日時:2024/04/03 22:17

文字が読めたし


教員になる学校に入れるお金があったから
新しい政府になり役職につかすには
自分の部下である武士や足軽を使って重要ポストにつかしたから
明治政府を作ったのは下級武士が多くそれまでの上司だったお殿様やえらいさんは使いにくいから
文字がかける人は教師として地方に飛ばしたから
区いっばぐれのないように計らった
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

お礼日時:2024/04/03 22:18

明治に入って以降、元々武家の家柄だった者は教職や公務員など、


勉学で身を立てる人が多かったと聞きました。
 ↑
軍人や警察官になる人も多かったです。
ま、彼等は公務員ですが。



これって何故その様な志向になったのでしょうか?
 ↑
武士は知識階級ですよ。
特に、江戸時代の武士は、戦闘のプロという
よりも、キャリア官僚、つまり
文官化していました。



武闘派で剣術や馬術などを日々鍛錬していた一族が、
急遽知識階級へと遷移するのはいささか疑問です。 
 ↑
急遽ではありません。
江戸時代、という天下太平の長い期間を
経て、官僚化したのです。

だから、幕末、旗本はあまり役に立たず
新撰組なんかが活躍した訳です。

だから、戊辰戦争に負けてしまった
のです。



私の家も亡き祖父やその兄弟が全員公務員や教職というやや特殊で、
遡ったらそれだったのですごく気になりました。
 ↑
江戸時代の武士は、刀など抜いたことがない。
重いから、細身の刀が流行った。
鎧など着たことが無い。
足腰を鍛練していないから、鎧を着用したら
立てなくなった。
馬にも乗れない。

これじゃ、薩摩、長州に勝てません。

それで、幕府も、町人や百姓を
募集して新撰組を結成。

長州でも、同じで
だから、高杉晋作が奇兵隊。

薩摩は、武士の魂が残っていて
薩英戦争で善戦。
薩英戦争では、人的被害は、英国の
方が大きかったのです。

薩摩の強さを認めた英国が
幕府を見限り、薩摩と手を組む。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。
仰る通り、支配と統治には暴力だけでなく法律を定める必要がありそこに文書作成力や司法行政力は支配者たる武士として必須の術だった訳ですね。
とても面白い知見をありがとうございました。

お礼日時:2024/04/03 22:21

江戸時代は戦争のない250年です。


武闘派など無用の社会。

武士以外の階級はひと通りの読み書き計算程度の教育レベルですが、武士は学問をするのも素養の一つでした。
他に仕事もないので時間もあり、主に論語などの中国古典を学んだのです。
武闘派ではなく、知識派です。

明治維新で武士政権が終わると殿様からの給料がなくなったので、身につけた学問で収入を得たのです。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。
武士とは名ばかり、中身は公務員だったのですね、、上も下も。

お礼日時:2024/04/03 22:19

なるほど、貴方は武士を格闘家だと勘違いをしているのですね。

そこが先ず違います。

『信長の野望』というゲームで遊んでみたら分かりますが、戦に勝つ為には経済の力が非常に大事です。そして経済を繁栄させるには学問の素養が非常に大事です。俗に武官と文官と呼ばれます。武官は今で言えば自衛隊、文官は今で言えば役人と言った所です。

戦乱の世ですら、石田三成に代表される名奉行と呼ばれる文官がいました。まして徳川幕府になると、武官の重要性は薄れ、文官の重要性が高まります。

江戸時代の武士は、刀を腰に指した役人だと思っておく方が正確です。小さい頃から、剣術も勿論、たしなみますけれども、寺子屋などで読み書き算盤を身に付けました。

そういう素養があるからこそ、江戸時代でも浪人は講釈師に転職する方も多かったですし、明治維新の後は教養を活かした職業に転職できました。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。
武官であり文官でもあるという両役を担った存在だったのですね。
知識階級だったということがよくわかりました。

お礼日時:2024/04/03 22:19

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