プロが教えるわが家の防犯対策術!

過去質問にて疑問が残るので、再質問です。

引用した聖書のページ : 口語訳旧約聖書(1955年版)
http://bible.salterrae.net/kougo/html/

ーーーーーーーーーー
旧約 (創世記1:1)はじめに神は天と地とを創造された。
  ~
(2:4)これが天地創造の由来である。(後略)
ここまでは「神」が主語。

(創世記2:4)(前略)主なる神が地と天とを造られた時、
  ~
(3:23)そこで主なる神は彼をエデンの園から追い出して、人が造られたその土を耕させられた。
ここまでは「主なる神」が主語です。

これについては
・聖書の研究結果から、旧約聖書は著者が複数人いるとされる。
・神と主なる神は同じ神格の神様ではあるが、著者が異なる関係上呼び名と伝承内容が異なっている。
・同じ神なので、一神教で問題ない。
過去質問でこういう返事をいただきました。

が、これについても疑問が残るので、再度疑問点を整理し、質問し直します。

ーーーーーーーーーーーーー

「神」と「主なる神」2種類の名前が出て来て、みわざの順番も異なり内容も若干異なる。
これは
1.聖書の著者が違うので別になってるが、同じ神様である。
2.やっぱり別の神格である。
2つのパターンが考えられます。

ーーーーー
さて、創世記は6章(ノアの洪水の付近)まで「主なる神」が主語です。

第4章にて、アダムの子カインが弟アベルを殺し、ノドの地に追われます。
この時のカインと主なる神の会話(4:13~4:15)を要約すると、
カイン「私は私を見つける人に殺されるでしょう」
主なる神「殺されないようにしましょう」
その後カインは妻を娶ります。

(4:13)カインは主に言った、「わたしの罰は重くて負いきれません。
(4:14)あなたは、きょう、わたしを地のおもてから追放されました。わたしはあなたを離れて、地上の放浪者とならねばなりません。わたしを見付ける人はだれでもわたしを殺すでしょう」。
(4:15)主はカインに言われた、「いや、そうではない。だれでもカインを殺す者は七倍の復讐を受けるでしょう」。そして主はカインを見付ける者が、だれも彼を打ち殺すことのないように、彼に一つのしるしをつけられた。

ーーーーー
創世記6章にて、主なる神はご自分のみわざを「悔いる」と仰っています。

(6:6)主は地の上に人を造ったのを悔いて、心を痛め、
(6:7)「わたしが創造した人を地のおもてからぬぐい去ろう。人も獣も、這うものも、空の鳥までも。わたしは、これらを造ったことを悔いる」と言われた。

ーーーーー
説1を採用した際、メインストーリーは「主なる神」と記載の方だと思われます。

質問1
 カインを殺すであろう人々と、カインの妻はどうやって存在したのでしょうか?
 私が考えるに、主なる神がひとを創造されたあとお創りになった家畜の中に、
 家畜人とか亜人と言うべき、人間と交雑可能な家畜が含まれていて、正体はそれである。
 この考えしか思いつきませんでした。
 まあ、そもそもユダヤ教は選民思想なので、あり得るかも知れません。

質問2
 主なる神は「人を造ったことを悔いる」と仰っているのですが、われわれは出来損ないのようです。
 主なる神が未熟だから、われわれが出来損ないになって、それを悔いてるのでしょうか?
 言い換えると主なる神が悔いている理由は、未熟だった(過去形)からでしょうか?
 神様もPDCAサイクルを回している、カイゼンをしている。悔い改めている。
 言い換えると、進歩している。未熟な状態だったが成長している。
 こういう事でしょうか?

 じゃ、全知全能の神とはどういう事でしょうか?
 私は、改善するのでそれをもって全知全能になる、という解釈です。

質問3
 主なる神が未熟である、という記載に都合が悪い勢力がいて、それが全能の「神」の方を
 記載したのでしょうか?であれば、聖書の捏造とで言うべき改ざんだと思いますが。
 旧約の創世記は「イソップ寓話のような教訓話」とか「主なる神の成長物語」として
 書かれたものであったが、それを聖典にしてしまったのがそもそもの間違いとか?

質問4
 旧約聖書に複数の著者がいるとみられる、というのは近年の研究だと思います。
 旧約聖書ができて2500年くらいでしょうか?
 成立後2400年ほどの間は、複数の著者がいるらしいという情報はなかったのでは?
 であれば、どうやって「神と主なる神は同一神格」「だから一神教」と信じられたのでしょうか?

 うがった見方をすれば、一神教であることを正当化したいがために、研究の「複数の著者」という
 自分の都合がいい所だけ採用した、と疑うことまで不可能ではありませんので。

ーーーーーーーーーー
尚私は、説2(神と主なる神は別の神格)であればこれらの疑問を説明可能ですので、
説2だと思います。

質問者からの補足コメント

  • 一番言いたかったこと

    質問5
     我々は、主なる神が未熟であったことを認め、それがゆえに出来損ないになったけど
     「仕方がないか」と、主なる神を赦す必要があるのでは?

      補足日時:2024/04/17 00:05
  • うれしい

    No1様

    私は創世記を読み

    1・原罪とは神の命に背いた事より言い訳をしたことが罪が重い。
      しかし「善悪の実を食べるとあなたは死ぬであろう」と言ったのに
      ふたりとも死ななかった。木の実が性能不十分かウソをついたか。

    2・とはいえ人間を呪うのは神も悪い。

    3・カインが弟を殺したのは、この時の呪いそのままです。
      神の呪い通りになったのに、カインに怒ったとはどういうことですか?
      カインは神にアベルは知らないとウソをつきます。
      1で神がウソをついたのであれば、ウソツキが移ったので神の責任では?

    4・でも神も悔い改めて成長しています。人間も成長しましょう。

    こういう教訓話を読み取りました。
    更に

    5・人間は神が未熟であったことを認め、自分らが出来損ないであることを認め
      でも「仕方ない」と主なる神を赦すべきである。

    と考えます。定説とちがうので矛盾を質問しました。

    No.1の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2024/04/17 11:15
  • どう思う?

    皆様へ

    旧約聖書が成立した経緯は、No1様が説明してくださいました。
    我々は、聖書成立の過程を知り、どういう目的で書かれたのかも知り、
    神と主なる神への認識を「悔い改める」必要があるのでは?

      補足日時:2024/04/17 11:24
  • プンプン

    No6様

    創世記を読んでください。ひとと女(俗にいうアダムとイブ)の子供がカインとアベル、弟殺しの後にセツも生まれます。
    これ以外の人間はどこに書かれているんですか?

    4:1より、エデンの東に追放された後初めて性行為をしたようですよ?
    でも、カインが追放されたノドの地には既に人がいる。この矛盾はどうやって説明するのですか?
    矛盾があるので、神と主なる神が同一説であれば、ノドの地の人とカインの妻は家畜人・亜人という
    存在だった可能性を考えたまでです。
    それはないという事であれば、神が創った人間と主なる神が創った人間は別で、ノドの地の人間は
    神が創った方である。これ以外何があるのですか?

    お願いがあります。
    「神と主なる神が同一」かつ「アダムとイブは全ての人間の祖先」かつ「アダムとイブの子はカインとアベルと、後に生まれたセツ」
    この条件で、ノドの地の人間の存在を理論的に説明してください。

    No.6の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2024/04/18 18:56
  • No6様

    創世記には神が登場し天地創造が書かれている。その後に主なる神の天地創造が書かれている。
    主語と順番は違う。
    ここまではいいですか?

    では、この2者はどういう関係か。
    あなた方は「同一の神格」と解釈する。ここ「解釈する」と考えるのが正しい。
    でも「同一の神格」と断定しているではありませんか? ここがおかしいと申しておる。

    他にも「別神格、別の神」という解釈も成り立つ。こうも申しています。
    ここにあなたが聞く耳を持たず「同一神格」と断定しているから、話が合わないんです。

    同一神格と断定する論拠は、聖書の著者が別だったから、でいいですか?
    他にありますか?
    では、聖書の著者が別だったとして、別の神様の事を言ってる、ということはあり得ませんか?
    こういう質問なら答えられそうですか?

      補足日時:2024/04/18 19:34
  • No6様

    A:
    神と主なる神が記載されていますが、少なくとも2通りの解釈が可能。
    2者は同一神格説と別神格説です。
    同一神格説と仮定した場合、
    1・アダムとイブの子はカインとアベル、後にセツ。この3人しか書かれていない。
    2・アダムとイブの初性交渉はエデンの東に追われた後とみられる。(他の子はいない)
    3・カインがノドの地に追放されたときに既に人がいて、カインの妻もいた。
    これらを矛盾なく説明することはできません。
    従って、同一神格とした仮定が間違いであった。
    こういう弁証法を「背理法」と言います。

    B:
    4・Aにより同一神格はあり得ないと証明された。
    5・ユダヤ教などでは一神教と伝承。
    4をテーゼといい、5をアンチテーゼと言います。相容れません。
    これに対し
    6・創世記の成立が結構急いだため内容に矛盾がある
    と、両者を説明できる理論がでてきます。これをジン・テーゼと言います。

      補足日時:2024/04/18 19:49
  • No7様

    旧約聖書が成立したのは紀元前後頃らしいですが、創世記はもっと前からあると思います。
    聖書を学問的に調べて「複数の著者がいるとみられる」という結論に至ったのはNo3様の情報より
    18世紀のようです。
    それまで2000年近くユダヤ教の人は、1700年近くキリスト教の人は、何を論拠に
    「一神教で間違いない」と信じてたのですか?
    心のどこかで「先祖のカインも主なる神にウソをついたんだし」と、アダムとイブのように
    「いいわけ」を言いながらそういう事にしてたんじゃないですか?

    こういう指摘、お礼にも書いた「ユダヤ教、キリスト教は間違っているのでは」を踏まえて
    「なぜに一神教であるのか」を説明ください。

    余談
    「サピエンス全史」という書物によると、7万年前ホモ・サピエンスは虚構を信じること
    (ウソをつくこと)を覚えたらしい。
    私にはそれが創世記のカインのウソとダブっているのです。

      補足日時:2024/04/18 20:14
  • 議論になってきたので、仕切り直しのため〆ます。

    いろいろな疑問が全て氷解するようなご回答を頂いたNo1様をベストアンサーにします。

      補足日時:2024/04/20 12:02

A 回答 (13件中1~10件)

旧約聖書は39冊の書籍の集合体です。


1000年以上にわたり、複数の著者によって書かれています。

この中の、創世記や出エジプト記を含む5冊が、核となる書籍とされています。

他の34冊は、それぞれの時代の出来事を記した年代記です。
著者の特定はできていません。

この5冊は「トーラー」と言われ、「モーセ5書」とも言われています。

ユダヤ教では、トーラーの著者はモーセ(神より十戒を授かった人)1人としています。

複数人による著作とする研究もあります。

ジョエル・バーデン(イェール大学神学校教授)は、4人の著者による可能性が高いとしています。

ノアと洪水:2つの物語が混ざっている。
・洪水は40日とする文章と、150日とする文章。
・動物を箱船に乗せる順番が違う。

神の呼び名:ヤハウエあるいはエロヒム

エリウス・ウェルハウゼン(ドイツ神学者)は、4つの時代に書かれたとしています。

紀元前950年頃:ユダ王国の時代
紀元前850年頃:北イスラエル王国の時代
紀元前600年頃:ユダ王国の宗教改革の時代
紀元前550年頃:バビロン捕囚以降

当然、著者は別です。

旧約聖書の確立は、紀元1世紀頃とされています。

紀元1世紀頃、ユダヤ人とローマ軍による戦争により、ユダヤ人は離散しています。

この状態では、歴史の全体像が掴みにくくなり、異なった解釈によりメッセージ性が維持できず、神への信仰心が失われると考えたのです。

そこで、「共通の価値観」としての聖書の確立が最優先課題となったのです。

1000年前の日本語と現代の日本語は異なります。
他国の影響を受ければ変わっていきます。

時代が変わり、著者が変われば、言語表現も変わりますし、著者によって話を盛ることもあるだろうと考えられます。

紀元1世紀頃の旧約聖書の確立では、39冊をまとめる編集者として「エズラ」(バビロン捕囚時代の指導者)があたりました。

エズラとすれば、聖書確立の主旨から逸脱していなければ、統一していなくても良いと考えたのではないでしょうか。

統一のためには、膨大な時間を要します。

それよりも、早くまとめ上げることを優先したのではないかと思います。
この回答への補足あり
    • good
    • 1
この回答へのお礼

ありがとうございます。納得いたしました。
そういう背景であったという事であれば、私の疑問は全て氷解します。

余談です
三国志は中国の正史として重用されていますが、魏志倭人伝と魏志韓伝は
陳寿さんは上がってきた報告をまとめただけ、ということらしいです。
報告も何パターンかあり、それを継ぎはぎしたとみる人もいます。
元蜀の役人でしたので韓国や日本は土地勘もなく、重要視していないらしい。
しかし三国志が正史として採用されてしまったので、倭国の事も
それが正しいとなってしまって、今の混乱があるようです。
お話を聞いて、このことを思い出しました。

お礼日時:2024/04/17 10:56

神はご自分に似せて人間霊を創造されてはいません。

人間は自分で気が付くと驚愕するほどに知恵を持つことができます。しかし、創造神に至らない神(宇宙霊)に至るほどには知恵を持つことができません。神は愚かではありません。どうして、驚愕するほどに知恵を持っていない凡夫の人間が神を理解できるのですか。神は人間の自由を最も尊重しています。神に似せて人間霊を創造する。そうすると、人間は神に拘束されることになります。人間は人間として自由ではなくなるということです。分かりますか。エデンの物語もノアの大洪水も神を愚弄しているのです。神は十分に人間を理解しています。それなのに人間を創造したことを悔やむと思いますか。それではあなたがたと同じバカではありませんか。バベルの塔の物語は神を愚弄することをやめなさいと語っているのです。いくらでも人間は科学を進歩させてもいいと思っていらっしゃいます。しかし、思い上がりや自惚れは人間のためにならないと神は考えいらっしゃいます。あなた方もそうだと思われますよね。人として良く生きんと欲してください。人としてでいいのです。神はそれを望まれています。それだけで十分に幸せになれるのです。宇宙を理解できるような、またはそれに類似した最高の知恵が幸せではありません。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

> 神はご自分に似せて人間霊を創造されてはいません。
聖書に、自分のかたちにと書いてあります。
創世記1:27を見てください。

> それなのに人間を創造したことを悔やむと思いますか。
聖書には悔やんでると書いてあります。
創世記6:6と6:7見てください。

それに
> どうして、驚愕するほどに知恵を持っていない凡夫の人間が神を理解できるのですか。
と仰ってるそばから
> 神は人間の自由を最も尊重しています。
> 神は十分に人間を理解しています。
などと断言できるのですか?

聖書を良くよめ、と言わざるをえません。
論理矛盾も甚だしい。

お礼日時:2024/04/17 16:02

質問4


 旧約聖書に複数の著者がいるとみられる、というのは近年の研究だと思います。
 旧約聖書ができて2500年くらいでしょうか?
 成立後2400年ほどの間は、複数の著者がいるらしいという情報はなかったのでは?
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
https://en-m-wikipedia-org.translate.goog/wiki/J …
ネット上の機械翻訳で 18世紀半ばに
アストラクは創世記の中で4つの文書を発見し、それを4列に並べ、モーセが新約聖書の4つの福音書をイメージしてこの本を最初に書いた方法であり、後の作家がそれらを1つの作品に組み合わせたものであると宣言した。ホッブズやスピノザなどが指摘したような繰り返しや矛盾を生み出している。
アストラクの研究は次々とドイツの学者によって取り上げられ、当時のドイツの知的風土は学問の自由をより促進していた。これらの手は、旧約聖書と新約聖書の現代の批判的釈義の基礎を形成しました。

同じ人物の肩書きを、首相と書いたり総理大臣と書いたりしていても、ただの表現・表記の揺れと見做すでしょう。現代小説でも、9世紀ころの物語でも、同一人物を指し示す表記が様々になるのはあって、そのことは、その人物に関する不統一・不統合が出現したとは見做さない方が、普通の見方です。

うがった見方をすれば、一神教であることを正当化したいがために、研究の「複数の著者」という  自分の都合がいい所だけ採用した、と疑うことまで不可能ではありませんので。


質問2
 主なる神は「人を造ったことを悔いる」と仰っているのですが、われわれは出来損ないのようです。
 主なる神が未熟だから、われわれが出来損ないになって、それを悔いてるのでしょうか?
 言い換えると主なる神が悔いている理由は、未熟だった(過去形)からでしょうか?

「人を造ったことを悔いる」ということから、「(人を創ったときには)神が未熟」と想像するのは短慮と思います。 神に成熟や未熟の概念を当て嵌めるべきではないでしょう。
17章9節には、「神はまたアブラハムに言われた、”あなたと後の子孫とは共に代々わたしの契約を守らなければならない”」とあります。この神が述べた時点でも、守る/守らないの分岐がありうると認識しているのです。19章ではソドムとゴモラを滅ぼします。そのようにこれからも多様な可能性を出現させるものとして人も創り、木や草や海も空も創っていると創世記の記述を後世に伝えているのでしょう。 そもそも神はなぜ天地や光闇を創造したのだと思いますか、スペクタクル・大がかりな劇の進行を楽しみたかったと思えば、あれこれに腑がいくように思いませんか。

4・でも神も悔い改めて成長しています。人間も成長しましょう。
こういう教訓話を読み取りました。

読むのは読み手の自由です。 教訓話のように読まずに、ドタバタ娯楽劇の物語と読んだ方が面白いように、思います。
今の21世紀に、聖書や旧約・創世記を教訓とする程の価値があるでしょうか。
4世紀~18世紀の社会状況を理解する資料の一部としては、21世紀でも有用でしょうが、21世紀の日本で暮らすものの教訓にはなりにくいでしょう。
ローマに住むもの、イスラエルに住むもの、ソルトレイクに住むもの、ほとんどの人にとって、もはや教訓としての利用価値はほぼないです。

我々は、聖書成立の過程を知り、どういう目的で書かれたのかも知り、神と主なる神への認識を「悔い改める」必要があるのでは?

そのような必要はまずないでしょう。 よほどの専門的研究に関心があればともかくも、聖書成立の過程を知る必要はないし、現状調査の方法も資料もないです。まして聖書が書かれた目的などの推定は無理です。 書き物には書いた目的があると思いますが、例えば、日本書紀を書いた目的は、書いた人物・書かせて受領した人物・それを利用した人物や集団によっても・あるいは受領し収納し保管し伝えていく職制のものにとっても異なっているとみるべきでしょう。 書物のようなものではなく、城や寺・教会・砦・墳墓・祈念碑のようなものを拵える場合でも、発意したもの・命令したもの・設計したもの・施工責任者・工事現場のもの・資材を提供することになってしまったもの・それを見るもので、理解する目的は違います。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

ありがとうございます。納得できるご意見です。

貴殿の回答の一つ前、No2さんのような人に向けたカウンターパンチのつもりでもあります。
また、こういう人が何を考えてキリスト教徒をやってるのか?聖書の記載の矛盾に疑問を持たないのか。そういう所が私には疑問であり、頭の中を知りたいと思ったという部分もあります。

>> 神と主なる神への認識を「悔い改める」必要があるのでは?
> そのような必要はまずないでしょう。

そういう人にとっては、最初は「神は未熟なのでは」というあたりから頭のねじを外して、悔い改めてもらって、それでも信仰が変わらないのならその意見を聞きたいと思っています。


質問2の回答についてですが、創世記だけ見ても、第2章天地創造の後の人を造った時代に比べると、アブラハムの時代ではかなり成長しているのではないでしょうか?
成長ないところに反省はなく、反省ないところに成長はありません。
それは神も同じだと思います。
ご意見は「短絡すべきではない」ですが、私は未熟だと思います。

> ドタバタ娯楽劇の物語と読んだ方が面白いように、思います。
ギリシア神話はそう読んでいます。聖書もそう読めないこともないですが、
私は教訓を見出しました。

教訓話だから古代に聖典になった、という経緯もありそうに思います。

お礼日時:2024/04/17 16:16

回答する立場からのお願いですが、今後この手の質問をする時には一回の投稿につき質問は一つだけにしていただいた方がいいと思います。



数学の問題等の質問でいくつもの質問を一度に書いているものをしばしば見かけますが、ここで書いているような神学上の質問では答えを書くのが大変、と言う以前に答えが出ていないものも少なくありません。そもそも「ここで質問する事自体が間違っている(∵こんな所に回答を書き切れるわけがない)」と言ったものもあったような気がするので、少なくとも「質問は一回につき一つだけ」としていただかないと埒が明かなくなるでしょう。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

関連した質問です。
質問1にこう考えると思っていても、質問2や3を見てみると質問1の考えが変わってしまった、ということもあり得ると思います。
No1~No3のように回答者様がつきます。
いやなら回答しなくて結構です。

お礼日時:2024/04/18 14:41

今回のお礼コメントについてですが、いやなら云々と言ったものではなくて前述のように「質問の仕方としては不適切(と考えられる)」と言う事です。

実際前回の質問の時にも「多過ぎますね」と言ったコメントが来ていましたし、それにそれぞれの質問の意味ないし主旨さえ伝わっていれば「他の質問を見て答え方が変わる」と言った事はないはずです。

もし気になるようであれば、個々の質問を「質問1」「質問2」と言った書き方にするのではなく、関連した質問と思われるものをまとめて「質問1」と言った形の一つの質問にすればいいのではと思います。早い話、前回の質問でも「その回答書くだけで本が一冊書けるぞ」と言ったものもあったような記憶があるので。
    • good
    • 0

質問1の「カインの妻はどこから」は前の質問の時にも書いたように「アダムとエバの子孫」と考えるのが一番分かりやすいと思います。

特にユダヤ教やキリスト教の立場から言えば「アダムとエバの子孫」と言う考え方しか出て来ません。むしろ質問者様が「アダムとエバの子孫」と言う考え方を頑なに退けておられる理由がよく分かりません。

(前の質問のお礼コメントか何かに理由を書いておられましたが、それを読んでも「なんでわざわざそんな無理な考え方するの?」みたいな感じでやはり分かりませんでした)

御存知のはずですが、ユダヤ教やキリスト教ではアダムとエバを「人類始祖」と考えています。その考え方から言えば、アダムとエバの子孫以外に人類は存在しない事になります。特にキリスト教の立場では基本的には「アダムとエバによる原罪が(イエス以外の)全人類に受け継がれている」と考えるわけですから、もしもアダムとエバの子孫以外に人類がいたとすれば「アダムとエバによる原罪を引き継いでいない人間もいる」と言う事になってキリスト教の考え方そのものが成り立たなくなります。

そもそもの話、人類始祖とは読んで字の如く「すべての人間の先祖」と言う意味です。アダムとエバが人類始祖であるならば、言わば定義によって「アダムとエバの子孫以外に人類はいない」と言う事になります。
この回答への補足あり
    • good
    • 0
この回答へのお礼

No1様の回答を読んでください。
戦争のため、ユダヤ人には思想統一の必要があって急遽旧約聖書を編纂したという流れのようですよ。
いまだに「最初に一神教ありき」という思考から抜け出せず、
それを悔い改めないとは、どういう事でしょうか?
自分に不都合な事実があることは認めてください。

お礼日時:2024/04/18 18:39

「No1様の回答を読んで下さい」云々のお礼コメントについて物言い。

何を悔い改めろと言われるんでしょうか。それに「最初に一神教ありき」のどこが問題なんでしょうか。「どこにも問題はないし悔い改める必要なんかない」としか思えませんが。

No1様が書いておられるのは「戦争によって衰退したユダヤ教を立て直すために旧約聖書が編纂された」と言う事のようですが、少なくとも質問者様が考えておられる(ようにしか思えない)戦争の準備をするために一神教にしたと言った事では全くありません。

そもそもユダヤ教がもしも一神教でなくなったとしたら、それはもはやユダヤ教ではありません(キリスト教も同様)。一神教とはユダヤ教やキリスト教の根本的なアイデンティティーですから「最初に一神教ありき」は当たり前の話であって、これを問題視する方がむしろ異常です。「そんな信仰は捨てろ」と言ってるに等しいわけですから。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

では、ユダヤ教そのものが間違っていたということではないでしょうか?

イスラム教では「旧約聖書と新約聖書は、伝承の過程でおかしくなったからあまり信用するな」という立場のようです。
しかもこれは聖書の学問的研究の結果と合致しています。

イスラム教が正しいのではないでしょうか?

それを考えてください。

そして、あなた方が十字軍を送ったことそのものが正しかったのか?

お礼日時:2024/04/18 19:54

本題に戻ろうとしていたら聞き捨てならないコメントが来ていたのでまずはそちらを。



まず「ユダヤ教が間違っていた」とはどう言う意味でしょうか。文脈から見て「ユダヤ教は間違った宗教だから戦争を起こした」と言ったニュアンスにしか取れませんが、本当にそう言う意味だとしたら由々しき事です。もしも首相や国会議員と言った「立場のある人」がそう言う発言をしたとしたら完全に国際問題でしょう。最悪それで戦争が起きるかもしれません。「自分達の国を全否定された」みたいな状況ですから。

それからなぜ「あなた」が十字軍を送ったと言われなければいけないのか全く理解できませんが、それは置いておくとしても「キリスト教は間違った宗教だから十字軍(≒戦争)を起こした」と言う主張(をしているようにしか見えませんが)もこれまた「キリスト教に対する完全な言いがかり」と言わざるを得ないでしょう。元々十字軍は「聖地としてのエルサレムをキリスト教側に取り戻す」と言う意味と合わせて「エルサレムを占領したセルジュク・トルコによる迫害から巡礼者を守る」と言う側面もあったそうですから、セルジュク・トルコに対して何らかのアクションを起こす事自体はあって然るべきだったと言えると思います。
    • good
    • 0

質問自体の内容に戻らせていただきますが、取りあえず「カインの妻」について。



質問者様の指摘を待つまでもなく、聖書には(カインがノドの地に行く辺りまでは)カインとアベル、そしてセツしか書かれていません。なので「アダムとエバの子孫のうち聖書に書かれていない女性の子供(or子孫)がカインと結婚した」と考えるのが一番分かりやすいし自然だと思います。実際「そんなとこじゃないの?」みたいな考え方が主流のようですし、「聖書に記載がない」と言う点以外はどこにも無理がなさそうです。

それから前の質問のお礼コメントか補足に貼ってあった聖書の文章へのリンクによれば「ノドの地には既に人がいた」と言う旨は書かれていません。また仮にカインがやって来た時には既に人がいて町になっていたとしても「聖書に記載されていないアダムとエバの子孫が既に町を作っていた」とでも考えればおかしな点は何もありません。

そもそもの話、質問者様が考えておられる(ようにしか見えない)ように「聖書に記載がない人物は存在しない」と考えなければならない理由は何もありません。もちろん「聖書に記載のない事柄は存在していなかった」と考える事もできるわけですが、逆に「そう考えなければならない」と言う理由もありません。とにかく「どうにでも考えられる」そして「考えられる可能性のうちどれかが正しいかを特定するには情報が少な過ぎる」と言った事柄に踏み込んでも意味がないと思います。なので「アダムとエバの子孫しか人間がいないんだったら聖書に記載がない人物がカインの妻だったんじゃないの?」程度の認識で十分ではないかと考えています。実際神学上も「カインの妻はどこから来たのか」はそれほど重要なテーマとは考えられていないようですし。
    • good
    • 0

今回の補足にあったような「何を根拠に一神教で間違いないと信じていたのか」と言うアプローチ自体がピント外れだと思います。

そもそもの話「一神教が正しい」と言う根拠ないし証拠なんかどこにもありませんし、もちろんそれが正しい事が証明されているわけでもありません。端的に言えば「そう信じたいから信じていた」と言うだけだと思います。繰り返しになりますが、ユダヤ教やキリスト教に限らず宗教の教理で「正しい事が客観的に証明されている」と言ったものは基本的に存在しません。あったとしたら(少なくともその事に関しては)もはや宗教とは言えなくなるでしょうし。
    • good
    • 0

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!

このQ&Aを見た人はこんなQ&Aも見ています

関連するカテゴリからQ&Aを探す


このQ&Aを見た人がよく見るQ&A