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輸血はダメだと聞きました。でも、人由来の血液製剤はいいのでしょうか?
角膜移植はダメだそうで、昔、適応のある患者さんは拒否をれました。しかし、白内障の人工レンズ挿入術の手術は受けていらっしゃいます。
いいものと悪いものの区別、考え方を簡単に教えてくださいませんか??

A 回答 (7件)

はじめまして、こんばんわ。

クリスチャンになって10年経つ、私エホバの証人として奉仕しているものがこの件に関して、輸血に関する最新の情報をお伝えしたいと思います

14himawari さんのおっしゃるとおり、輸血はエホバの証人は受け入れません。血液製剤である、血漿、赤血球、白血球、全血、血小板・・・は受け入れないということです。

しかし、医療の進歩により、見方もだいぶ変わってきました。例えば、ものみの塔誌2000年6月15日 読者からの質問
という記事には、血液の複雑な成分によって、構成されていることが書かれています。
例えば、分画ということについて考えると、白血球からは
ある種のウィルス感染やガンの治療に用いるインターフェロンや、インターロイキンを取り出せます。
また、血小板は処理すれば、傷をいやす因子が抽出されます。
ですから、血液を合成しているいろいろな種類の中から
、血液の主要成分以外のものを用いて、手術することができるのです。
つまり、このように分画から取り出せるものは、エホバの証人の場合、個人的にインフォームドコンセントによって、受け入れるか、すべてを拒否するかということを書面によって、記します。
このような無輸血医療に関する情報は、事前に準備ができるなら、自ら、書面でまた会衆の成員として奉仕している人は、あらかじめ用意された免責証書に記し、医師に、また病院に提出します。
まず、これが、輸血医療に関する、ものみの塔誌からの回答です。
さて、話は変わりまして、手術、移植に関してですが、
聖書そのものが、臓器移植に関しては、特別に書かれていません。ですから、年配の婦人、妊産婦、いろんな方がいらっしゃいますから、個人的に、また家族がいれば各人が
その良心によって決定を下すことができるのです。

ただ、エホバの証人は、もちろんご存知のように病気がなくなり、永遠の完全な健康を得られると堅く信仰のうちに
歩んでいますから、もし移植などを考えても、この時代を生きながら、なんとか家族と生活をと思って、医療は受けます。

白内障については、私は医者ではありませんし、近くの知り合いにもいませんから、はっきりとしたことは言えませんが、ものみの塔の過去のいろいろな記事を検索した結果
、手術されていました。
この病気、手術に関わらず、生じるいろんな内科、外科てきな病気があるにしても、エホバの証人は、最初に記したとおり、輸血は受け入れないで、代替医療として、無輸血の医療をうけいれたりしているということです。

話は、変わりますが、過去にこのレスに回答された方、
はっきり言いまして、14himawariさんとの会話がなっていませんね。私はあきれました。ここでは、輸血医療のことを回答を求めているわけですから、宗教の論議は別の掲示板でなさって下さい。
14 himawariさん、ちょっと難しく専門的でしたが、よろしかったでしょうか。
今一度、ものみの塔協会のホームページと個人サイトを紹介しますので、お時間があればどうぞご覧下さい。

ものみの塔聖書冊子協会 エホバの証人
     http://www.watchtower.org
エホバの証人 記者クラブ
     http://jwpc.milkcafe.to

参考URL:http://www.watchtower.org/languages/japanese/
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  santa_fedebogota さん
  別に議論する訳ではありませんが、もう少し正確に人の記していることを読んでください。わたしは、次のように記したのです:
 
>本当の信者の場合、自分自身についてなら、生死がか
>かっていても、死後の永遠の命を選んで、輸血を拒否
>するのが一般ですが、神が許してくれるであろうと神
>に決定を委ねて、輸血を肯定する信者もいない訳では
>ないということです。
 
  言葉たらずなところは認めますが、「自分自身についてなら……輸血を拒否するのが一般」と述べています。従って後の「輸血を肯定」というのは、自分自身ではなく、自分の子供などの輸血についての話です。エホバの証人の輸血問題で社会的に問題とされているのは、本人が輸血を拒否して死んだ場合ではなく、子供とか、家族とか、決定能力が色々な意味でない場合(子供の場合とか、病者に意識がないとか)、証人が許諾するかどうかという場面で、輸血を許諾しないで、子供などが死んだ場合です。証人が自分について輸血を拒否して死んでも、それは、癌の手術を拒否して人が死ぬとか、病院で治療すれば命が助かるのに、何とかの狐の神様が命を助けてくれるので、治療はいらないとか本人が主張して死んだ場合など、社会的問題にはなりません(無論、そういう宗教教団とか教祖などは、業務上致死か何かそういう罪を問われるという可能性はあります。またニュースにはなるでしょう)。信者が、拒否していても、医者や別の家族が、子供に輸血をしてしまった場合、その事態を、事後的等に肯定し、神に結果を委ねるという意味で記したつもりです。(あるいは、子供の命と救いは、子供の意志で決めるべきだと考えれば、親が、決めるのは、子供の人格や意志を無視していて、僭越だとの考えもありえます)。
 
  また、「神の子」というのは、次の文脈で書いているものです:
 
>  11)キリスト教の「三位一体」教義は間違っている。
>イエスは神の子ではないので、拝んではならない
 
  つまり、キリスト教の三位一体のなかの一位格としての「神の子(聖子)」ではないと言っているので、エホバの証人たちは、そういわれれば、イエスを、彼等の言葉で、「神の子」だと言っていたようにも思いますが、ここでは、「神の子ではないので、拝んではならない」であって、イエスは「神ではない」と協会が主張していると言っているのです。
 
  『ヨハネ福音書』の冒頭には、有名な、「最初に言葉あった。言葉は神の傍らにあった。言葉は神であった」という文章があります。これを字義通りに取ると、「言葉」という「神」がいることになります。また、この「言葉」が、「イエス・キリスト」のことだという風になっています。つまり、イエスは神の子である言葉なる神であり、神の子と父なる神は、同じ神の位格・ペルソナの違いだというのが三位一体教義なのです。
  
  神は「唯一の神である」という教義を守るため、ものみの塔は、この『ヨハネ福音書』冒頭の言葉を、新約聖書ギリシア語の構文についての、一般に認められていない文法規則を主張する論文を根拠に、(この論文は、ものみの塔協会が造った可能性が高いです)、「言葉は神である」というのは、実は「言葉は神性を持っていた・言葉は神的な存在であった」という意味だと主張します。しかし、「神性」を備えるものが即ち神なのではないでしょうか。
  とまれ、ここでわたしが使った「神の子」は、キリスト教の三位一体における「子の位格」としての「神の子」のことです。文脈的にも、そう読めるはずです。

  (また「神の子」は、『聖書』のなかで、イエス以外についても使われていて、有名な「山上の垂訓」でも、イエスは人々に向かい、「平和をつくりだす人たちは幸いである、彼等は神の子と呼ばれるであろう」と述べています。聖書では「神の子」はイエスを指さない意味で他の場所にも出てきます。この場合、原文ギリシア語では、ヒュイオス・テウーの訳の場合と、テクノン・テウーの訳の二つがあり、前者は「神の息子」の意味で、これがイエスについて言われる言葉で、テクノン・テウーは「神の子供」の意味で、男女の区別はありません。ところが、先の山上の垂訓の「神の子」は、原文では「ヒュイオス・テウー」だったはずです。『福音書』を字義通り読むと、一般の人々も「神の子供」になったり、「神の息子」になると読めます。しかし、これは象徴的な意味です。エホバの証人が使う「イエスは神の子」というのは、特殊な用法でしょう)。
 
 
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いろいろ誤解というのがあるのですね。


人から取られた血で作られたものを体内にいれることは多くの証人は拒否すると思います。
自己血を浄化して体内に戻すマシーンというのがありますが,(すごいですよね)血は地に流すべきですよね。だから,それは受け入れられないという考え方もありますし,その装置を自分の体の1部として考えるのであれば受け入れられますね。それはstarfloraさんの通り自分の意思で決めることができます。
明かな輸血については受け入れることができません。血を食べることになりますから。その場合排斥されると思います。
イエスが神の子ではないというのはどこからきたのかわかりませんがエホバの証人の場合イエスは神の子です。
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エホバの証人については、非常に難しいテーマです。


私は以前、下のURLで深く考えさせられました。

参考URL:http://www.ceres.dti.ne.jp/~gengen/ehoba/index.h …
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  補足します。
 
  先の文章では、エホバの証人の日常生活は、すべて協会の規定で縛られていて、あらゆることで、協会の解釈規定に従わねばならない、というような印象を与えましたが、エホバの証人は、「自由意志」が当然認められていて、本人の決断があれば、例えば輸血の問題では、生死に関わるような場合は、家族・友人たちの善意の献血なら、輸血も良いと判断する信者もありえます。また、こうしたからと言って、協会から追放される訳ではありません。
 
  輸血を、非常の場合「よし」として実行した信者が正しかったか間違っていたかは、協会が決めるのではなく、「神が決める」のです。本当の信者の場合、自分自身についてなら、生死がかかっていても、死後の永遠の命を選んで、輸血を拒否するのが一般ですが、神が許してくれるであろうと神に決定を委ねて、輸血を肯定する信者もいない訳ではないということです。従って、その他のすべきこと・してはならないことも、信者の意志で、変則的な選択をすることがあります。
 
  しかし、あまりに協会の規定する規範に反する言動が多い信者は、やはり、警告の後、態度を改めないと、協会から追放されます。
 
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  エホバの証人と言っても、信者には色々な人がいます。非常に思考が硬直した人もいれば、非常に柔軟な思考ができる人もいます。また「ご都合主義」かというと、一般的社会生活の倫理規範などで考えれば、エホバの証人でない人たちの方が、もっとご都合主義な人が大勢います(わたしはエホバの証人の信者ではありません。基本的には、彼らの信仰は「妄想」の一種だと考えています。ただ、そう考えた時、同時に、キリスト教やイスラム教も妄想であり、仏教も、原始仏教は違ったかも知れませんが、大乗仏教などは、やはり妄想ではないかという疑いが出てきました)。
 
  エホバの証人の基本的な特徴は、聖書を「文字通りに読む」ということです。聖書の言葉を、比喩表現だとか、象徴表現とは取らないのです。例えば、「血を食べてはならない」というのは確かに血を飲んだり食べたりしてはならないという規定ですが、これは或る特定の場面を前提にしています。つまり、血を文字通りすすり飲むとか、した動物の肉で、血がべったり付着しているものを、血ごと食べたりする場合です。こういうことをしてはならないと言っているのです。余り焼いていないステーキを考えると分かりますが、肉のなかから血が滲み出てきます。もともと肉と血を分けることなどできませんから、この規定は、あからさまに血と分かるものは食べてはならないということなのですが(ユダヤ人は肉を食べていましたが、もし、肉に含まれる血のことまで禁止していると考えると、肉はおよそ食べられないことになります)、エホバの証人は、この規定を「文字通り」に読もうとします。
 
  しかし、『聖書』には色々なことが記されている訳で、文字通り取ると、互いに矛盾することが一杯あります。例えば、キリスト・イエスは、有名な最後の晩餐といわれるエピソードで、パンと葡萄酒を取り、「このパンはわたしの肉である」「この葡萄酒はわたしの血である」と言って、弟子達は、そのイエスの言葉を聞いた上で、イエスが指示した通り、パンを食べ、葡萄酒を飲みます。この場合、「葡萄酒が血である」というのは、比喩的・象徴的な表現です。しかし、文字通りに読むと、救世主イエス(イエスは物見の塔協会の教えでは、人間の救世主・預言者であって、「神の子」ではありませんが)が、葡萄酒を血だと言って、これを弟子たちに飲ませると言うのは、血を食べてはならないという規定と矛盾します。そこで、エホバの証人の聖書(「新世界訳聖書」)のなかでは、原文のギリシア語にはない、「この葡萄酒はわたしの血を象徴するものである」というような表現にして、翻訳しています。
 
  これを「ご都合主義」といえば確かにそうですが、『旧約聖書』には、はっきり「血は食べてはならない」と書いてあるのですから、この規定を「文字通り」守ろうとすると、偉大な預言者であるイエスが、血を飲めなどというのはおかしいと言えるので、「血を象徴する」と訳すのです。
 
  イスラム教もそうですが、宗教的禁忌が、日常生活の行動を規範で規定する場合、新しい事態や、込み入った事態の場合、禁忌の規定が、どのように効力を持つか、疑問が出てきます。先の、『聖書』の言葉を文字通り取ると、聖書全体として矛盾が多数出てくるというのと同じことなのですが、ものみの塔協会は、こういう矛盾について、早くから気づいており、それぞれ、矛盾が生じる語句のあいだでは、矛盾とならないように、色々な工夫をしています。矛盾について、どう解釈するかというのは、ものみの塔協会では、聖書の文言については、ほとんどすべて、代表的な矛盾については、網羅的一覧リストのような形で、矛盾を回避する解釈の仕方が決められています。
 
  日常生活の言動の禁忌や、反対の是非せねばならないことも、実際の日常生活で、どうすればよいか分からない場合は、大体、答えのリストがあって、それに従って、言動し生活を信者は送ります。
 
  「輸血はできない」というのは、ものみの塔協会の本部で決定した解釈の有名な例です。『旧約聖書』が記された当時、「輸血」の技術などはなかった訳で、輸血は、血を食べることになるのかどうか、これは実は、協会本部の解釈次第で決まります。しかし、常識的に考えると、輸血は、血液を人の体内に取り込むことですから、これは「食べる・飲む」とほぼ同じ行為のように思えます。そこで、協会本部も、輸血は不可という例解を造ったのでしょう。
 
  社会は、変化して行きますし、技術も生活も発展したり、変化して行きます。そこで、聖書の文言の矛盾についての網羅的解釈リストの他に、この場合はどうか、あの場合はどうか、というような「網羅的規準」が、問題の項目ごとで、造られています。質問の「角膜移植」の場合、「不可」と、協会本部が判断しているのでしょう。
 
  しかし、従来の網羅的リスト・解釈集でも答えのない問題が、幾らでも現代の社会では出てきます。そういう時、信者が迷った場合、まず、先輩信者に質問するでしょう。先輩信者も答えが分からない、自分の解釈に疑問がある場合は、ものみの塔の日本支部の教義部門などに問い合わせるでしょう。そこで、ある解釈が出されることもありますが、日本支部でも解釈しきれない場合は、アメリカにある世界本部の教義部門に質問を送ります。ここで、最終決定が出され、これは解釈のリストに加えられます。
 
  しかし、支部や本部まで問題が送られるのは稀で、現代社会で発生する様々な解釈の必要な問題は、大抵、問題を本部が把握していて、答えがすでにあるのが普通です。また、支部に問い合わせる、本部に問い合わせなくとも、信者個人で、解釈できると思う場合は、信者の自分の判断で行動を決めますし、日本支部は、日本に独自な問題については、支部で解釈を決め、それを本部に送り、承認を得ます。うなぎの場合は、皮を食べなければ、肉の部分はよいという解釈なのでしょう。
 
  エホバの証人が「してはならないこと・すべきこと」は、有名な処では、輸血してはならない、があります。他、一般的に:
 
  1)他人を誹謗中傷してはならない
  2)暴力を振るってはならない
  3)誰に対しても、礼儀正しく、平等に他人を扱わねばならない
  4)エホバの証人の教えを他の人に伝道しなければならない。その際、伝道には、二人で連れ添って行かねばならない
  5)嘘を言ってはならない
  6)法律は、エホバの証人の教義に矛盾しない限り、遵守しなければならない
  7)世俗的な政治活動に関わってはならない
  8)神を「エホバ」と呼び、エホバの名で、神を称えねばならない
  9)しかし、神の名前を必要のない処で、妄りに口にしてはならない
  10)偶像を拝んだり崇拝してはならない(彼らは、カトリックなどで、キリストや聖マリアの像や絵の前で、カトリック信者が祈っているのを、偶像崇拝とします)
  11)キリスト教の「三位一体」教義は間違っている。イエスは神の子ではないので、拝んではならない
  12)悪魔は現実に存在し、実際に色々なことを計画して、現在活動している。三位一体教義の「三一の神」などは、悪の帝国バビロンから広まったもので、悪魔の陰謀である。悪魔を退けて、悪魔の誘惑に乗ってはならない
  13)禁欲的な清貧な生活をしなければならない。ただし、イスラム教のように、飲酒を禁止するものではない。度を超した飲酒は無論禁止である。喫煙なども同様で、度を超すのはいけない
  …………
 
  などがあります。以上のようなことを守れない信者は、他の信者や先輩信者から、そのことについて注意されても、態度を改めない場合、協会から追放されます。従って、「本当のエホバの証人信者」は、妄想的な信念を持っていますが、強迫的に「良い人」であるのが普通です。きちんとした服装をし、礼儀正しい態度で、礼儀正しく話しますし、自分たちを誹謗中傷したり、敵意を示す人がいても、丁重に無視します。また反戦主義ですし、暴力は絶対に振るいません。
 
  エホバの証人の教えは、簡単に言えば、エホバという名の世界と人間を創造した神を信仰し、讃美し、神の指図(それは『聖書』に記されていて、どういうことを指図しているかは、網羅的リストとして準備されています)に従い、エホバの証人の教えを伝道し、イエス他の預言者が示した規範に従って生きれば、死後、「地上の楽園」に生まれ変わり、「永遠の命」を得て、限りない幸福に与れるというものです。また、『聖書』が語っている、「キリストの再臨」は、すでに1916年(または1915年でしたか)に起こっており、いま、天には、キリストを長とする、地球統治の神的機構が造られていて、間もなく世界は終末を迎えるというものです。目下の教義としては、1916年(1915年)に生まれた人がすべて死ぬ前に、終末が訪れ、キリストの地上直接統治が始まるとされています。或る数(14万人ぐらい)の人は、選ばれて、天上のキリストの統治機関に入り、また、天上世界に死後行きますが、それ以外の信徒は、地上に築かれる永遠の楽園に生まれ変わり、永遠の命を得ます。
 
  エホバの証人の問題は、有能で社会に役立つ大勢の人を、妄想教義の虜にして、彼らが社会に貢献する道を断ってしまうということでしょう。また、これは他の宗教でも狂信的・妄想的なところはすべてそうですが、他の社会成員とのあいだに軋轢や葛藤を生じさせるということがあります。例えば、妻がエホバの証人になると、伝道に熱心になって、家族生活が破綻するとか、子供に妄想的な教義を教え、子供の視野をもの凄く狭くさせてしまうなどがあるでしょう。(エホバの証人は、子供の人権を認め、子供が大人と対等に、教義などについて議論します)。
 
  大体、以上のようなことでしょう。説明するときりがなくなります。
 
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血液製剤はヒトの血液を原料としているのですから、やはり駄目なのではないでしょうか?



ただ最近雑誌で面白い文を読みましたので引用します。

「輸血拒否も、旧約聖書のレビ記十七章や十九章に、血は命そのものであり、これを摂取してはならない、と書いてあるからです。彼らはウナギも食べません。やはりレビ記の十一章に、魚のうち皮に鱗のないものは食べてはいけないと、書いてあるからです。しかし、本当は彼らはウナ丼やカバ焼きを食べるの。エホバの証人が発行している機関誌を読むとね、ウナギは皮をよけて食べましょうって書いてあるんだよ(笑)。鱗のない皮がイカンという解釈なんです。レビ記の言っていることって、そういうことなのかね(笑)。硬直思想と御都合主義が表裏一体となった原理主義の特徴がよく表れている話です。」
(小学館SAPIO、10/24号、20ページ、呉智英氏の記事より引用)

意外と受け入れられているものが存在しているのかもしれませんね。
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