No.8ベストアンサー
- 回答日時:
織田信長ではないかと思います。
「大軍をもって寡兵を破る」というのが彼の真骨頂で、敵の数倍の兵を集めて、弱い敵を討ち漏らさないのは、当たり前のようでなかなか出来ることではありません。
十分なリサーチをし、勝てるような算段をして、万一の準備をしてから戦に臨み、確実に勝ちを拾う。
信長が世に出たきっかけは桶狭間の戦いですが、人間若いうちに成功するとなかなかそのやり方を否定することが出来ません。
彼の場合、これ以降は余程でなければ相手より少ない兵力で戦をすることは無く、やる場合も損害が少ないように上手に逃げます。
信長の大失敗で知られる越前攻めですが、部下を全て見捨てて自分だけ逃げ帰るような事はなかなか出来ることではありません。
途中で名も無き土民に首を獲られれば末代までの恥ですし、リーダーが逃げ出せば軍団は壊滅し、裏切り者が出て岐阜に反転し、自分の妻子すらどうなるか判らない。
私なら落城した金ケ崎城に兵を入れて浅井軍を牽制し、全力で木の芽峠を越えて朝倉を攻撃します。
運がよければ朝倉を壊滅させて浅井と対峙できますし、運悪く命を落としても武士の名誉は守れ、悲運の名将という名が残ります。
それがあんなにも大胆に逃げたのは、将に天才的な名将と言えるかと思います。
途中の朽木も、それを見越したからこそ恩を売るつもりで朽木谷を通したのではないでしょうか。
上杉謙信は結局人間の心理が読めない武将と思います。
この時代の武士はドライなもので、恩とか義理とかは余り考えていません。
実質の無い関東管領を名乗り、見入りの無い信州に介入し、部下の心は離れ、関東の諸将は冷ややかに彼を見つめ、同盟していた北条もメリットが無いとして同盟を破棄します。
戦に出ても勝ちを拾えず、砂上の楼閣のような物を得て引上げる、しかも田植えが済んでごく短期間だけちょろっと戦をして引上げる。
上杉謙信、武田信玄などは所詮はアマチュア武将であり、嘗て清原・桑田を擁したPL学園が阪神タイガースより強いのではないかと幻想を抱かせましたが、実際にはプロとアマとの間には大きな差があるように考えます。
短期の戦ではアマチュアがプロを抑える事は出来ても、決定的に破ることは出来ませんし、やがて破れていく。
上杉は運良く謙信が死んだので幕末まで残りましたが、生きていれば、北陸道を進む柴田軍と信州から進入する信忠軍、伊那から徳川軍などが進軍し、じりじり春日山に迫られ自刃したかと思います。
歴史的にも徳川家には武田の生き残りが多く仕え、彼らにとって武田信玄は神のような武将で、それに5分に渡り合った謙信は神に準じる武将と祭り上げられ、逆に家康が臣従した今川家と織田家は低い評価が付きますので、そこは割り引いて考えてもよいのでは。
最強というからには、やはり兼業武士(アマチュア)ではなく専業の武士(プロ)で競うべきで、信長を除けば、蒲生氏郷、結城秀康、柴田勝家、加藤清正などかと思います。
私の独断と偏見で。
織田信長は必ず候補の一人にあがると思います。大軍で寡兵を破るは、まさにそうですよね。上杉謙信は確かに人間の心理が読めない武将なんでしょうね。将軍・天皇・官位等を重んじる、かなり古臭い戦国武将だったと思います。ただ、普通の武将ならこんな武将は生き残れませんが、こんな武将でも生き残った謙信はやっぱりすごいと思うのは私だけでしょうか?そんなとこに謙信の魅力を感じてしまってます。最終的に武田家が滅んで、上杉家が幕末まで残ったのも、謙信の不器用で律儀な古臭い気質が上杉家に残ってたからかなと思ってます。関が原の戦いでは律儀に西軍に味方したり、本当に不器用だなと思いますが、そんなとこがよかったんじゃないでしょうか?普通の武将ならすぐに滅ぼされていると思います。
No.11
- 回答日時:
最強を一つと言うのは難しいので、マイナー路線で無敗に近い人物を。
関東では、関東管領扇ヶ谷上杉氏の武将「大田道灌(おおたどうかん)」。
主君にだまし討ちされるまで関東で無敗だったひとです。足軽を主戦力としたのは彼からだそうですし、江戸城(徳川家康のとは別)の縄張りも優れたものだったそうです。また、和歌に優れた文人でもありました。
東海では、斉藤道三を殺した長男「斉藤義龍(さいとうよしたつ)」。
領内をよく取りまとめ、信長は義龍の生前に美濃に侵入することは出来ませんでした。攻撃するたびに手酷い反撃を食らい、あわや命を落としかけたこともあります。
中国では、北条早雲とならぶ戦国時代のスタートを飾る西の雄「尼子経久(あまごつねひさ)」。
応仁の乱のころにすでに10代だった経久は守護代の家でしたが、守護の京極家を追い落とし、中国11ヶ国を支配するまでになります。謀略にすぐれた人物で毛利元就が手本とした人です。
九州では戦国末期の武将「島津義弘(しまづよしひろ)」。
当主で兄の義久の武将として活躍し、九州一円支配にあわや手が届こうかと言うところまで攻略しています。また、秀吉の朝鮮出兵でも活躍し「鬼石曼子」と呼ばれ、李舜臣に海戦で敗れたものの致命傷をあたえています。関ヶ原での敵中突破して帰国の途についた話が一番有名ですね。
No.10
- 回答日時:
信長に1票!
桶狭間は言うまでもなく、若年の信長は鬼気迫っていた…と、思わず唸ってしまいます。
◆村木砦の戦い:小河(緒川)水野氏居城の近くに今川勢が村木に砦を構え、小河を封鎖してしまいました。那古屋の信長は清洲からの襲撃を懸念し、斉藤道三に援軍を頼み、安藤伊賀を派遣してもらいました。千の安藤軍が那古屋に到着、安藤軍に那古屋近くに陣を敷いてもらい、信長は林ら重臣の異議を退け翌日出陣します。出陣の翌日、大風が吹き荒れ、水主らが反対する中、無理矢理渡海し、翌日には水野氏と面会を果たします。出陣四日目、遂に村木の砦を攻め込みます。信長は最も守備の堅い南側を受け持ち、自ら鉄炮を放ち、小姓衆に怪我や死人が数多く出てしまうほど攻め込みます。約八時間の激戦を経て砦を落去させました。二日後に那古屋に帰陣し、その翌日に安藤伊賀に美濃へ帰ってもらいました。この様子を聞いた斉藤道三は「すさまじき男、隣にはいやなる人にて候よ」と言いました。(『信長公記』より)
◆稲生の戦い:弟織田信勝(信行で流布。稲生の戦い当時は織田弾正忠達成と名乗っていた)謀反のときの戦いです。七百の信長に対して、東に千の柴田勝家、南に七百の林美作が陣を敷いていました。信長はまず東の勝家に挑み、佐々孫介ら屈強のものたちが討ち取られ、次第に劣勢になっていたところ、味方同士が敵将の首を奪い合っているのを見た信長は、怒り狂い大音声を上げました。この姿を見た柴田勢が恐れをなし、崩れていきました。次いで信長は南に向かい、林美作の頸を自ら討ち取って、遂に勝利を得ました。(『信長公記』より)
若年の頃の信長の戦いで、この二つが特に印象的です。若かりし信長はキレまくっています。
やっぱり信長ですか。信長は本当に天才だなと思います。年をとってからも切れまくってると思います。特に必ず相手より多くの兵で戦っていることはさすが信長と思いますね~。本能寺の変で死ななければ・・・と思いますが、やっぱ誰かに殺されちゃってたかもしれませんね。
No.9
- 回答日時:
補足しますと、大軍で攻め寄せて破れるのはままあり、必ずしも凡将が油断して負けるわけではありません。
桶狭間の今川義元もしたたかな武将で、今川家の内紛を勝ち抜き、関東の北条、甲斐の武田と渡り合った武将で、馬鹿でも卑怯でもありません。
厳島合戦で25,000の兵を擁して1/10の兵力の毛利元就に破れた陶晴賢も下克上に乗じて成り上がった梟雄で、弱くは無い。
小牧長久手の戦いも8万の上方軍が2万の三河軍に翻弄されてますから、大軍で確実に勝ちが拾えるのは天才的な戦上手に限られ、並みの武将では取りこぼして逆転されることはよくあります。
No.7
- 回答日時:
戦術の総合面でいえば明智光秀でしょう。
最前線、殿、補給、合戦、城攻めとあらゆる局面にて卒なく従事しています。
「戦術の何でも屋」は彼くらいでしょう。
織田信長の新参としては十年足らずで軍団指令となってます。
路頭に迷ってこれほどの出世は戦国髄一です。
光秀自身の能力が高かったのか家臣の戦闘力は並み程度。
補足?:秀吉は自身の能力の欠如を家臣に補ってもらってたので家臣団は強力。でも野心家ばかりでした(笑)
黒田とか。
秀吉自身の戦術能力は低いです。
黒田&竹中の二兵衛を筆頭の戦闘軍団がいなければ蹴散らされます。弟の秀長の方が戦術能力は高かったそうです。
明智の天王山進出を止めたり、長宗我部軍撃破、柴田戦では、秀吉が岐阜から来るまで持ちこたえたり、小牧・長久手最中で伊勢長島の織田信雄を撃破したりと実は不敗の名将だったりもします。
秀吉が各地を平定できたのも、秀長あればこそと徳川家康も脱帽でした。
秀吉は家臣を殺し始めたのは秀長が死んだ直後だそうです。
光秀を押す人は多いですね。私にとっては意外ですが(光秀は好きです)。やっぱり私は戦術家というより戦略家というイメージがあります。いろんな意見があっておもしろいです。竹中半兵衛はえ~ですね。漢の張良にほんとに似てると思います。
No.6
- 回答日時:
強いて最強と言えば、立花宗茂ではないかと思います。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AB%8B%E8%8A%B1% …
仮に、江戸幕府が成立した頃に全国の武士を対象にアンケートをとったら
本田忠勝
立花宗茂
真田昌幸
堀秀政
島津義弘
大谷吉継
辺りの名前が挙がったのではないでしょうか。
お~!私の好みと非常に似てますね!立花宗茂、道雪・高橋紹運は好きです!関が原で西軍に属してて、唯一大名として残ったんじゃないでしょうか?島津と高橋紹運の戦いは泣きそうになりますね~。
No.5
- 回答日時:
羽柴秀吉及び明智光秀が両巨頭ではないでしょうか
この二人は負け知らずに等しく、雌雄を決した天王山の戦い以後、羽柴軍の勢いは止まっておりません。秀吉の死後、その家臣たちの大半が東軍に付いています。
一方明智の残党は細々と暮らしていましたが、関ヶ原に再度登場します。明智の残党は当時、小早川秀秋に属していました。彼らの戦術攻撃能力は他にはないと思います。
ちなみに戦略とは国の運営に関するもの、戦術とは個々の戦闘でどう戦うのかというものと解釈して答えています。
秀吉と光秀は、私のイメージではどちらかと言えば戦略的に優れた武将ですね~。いろいろなご意見があっておもしろいですね。ありがとうございました!
No.4
- 回答日時:
戦術的にってことは、要するに戦場で暴れ回って強い武将ってことですよね。
人によってイメージとか判断基準が違うだろうし、なかなか決まらないと思いますよ。
とりあえずわたしは武田配下の、山県昌景、馬場信春を推します。
二人とも筆頭の重鎮で、どちらもその強さは甲乙つけがたいです。
ちなみに内藤、高坂を加えて武田四名臣と呼ばれます。
山県昌景は三方原の戦いで、家康に死を覚悟させたほどの猛将。
家康は余りの恐怖に馬上で糞を漏らし、この戦いでの敗北を自ら戒めるために、その情けない姿を絵師に描かせて残した。
また信玄からの信頼も厚く、死の間際に「わしの死を3年間隠せ」「明日は瀬田の唐橋に旗を立てよ」などと遺命を託されたのは有名。
結局、長篠で壮絶な討ち死にをするが、家康は彼の死を惜しみ、井伊直政に山県の部下を預け、「井伊の赤備」として取り立てた。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E7%9C%8C% …
馬場信春は「不死身の鬼美濃」と言われた英傑。
40年以上に渡って70回以上の出陣をし、かすり傷一つさえ負わなかった無敵の武人。
有名な第4次川中島では、高坂昌信と共に別働隊として上杉本陣を夜襲。八幡原で全面衝突して圧されていた武田本隊は、高坂馬場隊の帰着によって盛り返し、結局互いに痛み分けとする。
かつて「鬼美濃」と呼ばれながら病没した原虎胤にあやかって、「美濃守」の名を受け継いだ。
長篠にて武田勝頼を逃がすために殿(しんがり)を買って出て、やはり壮絶な討ち死にの最期を遂げる。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A6%AC%E5%A0%B4% …
まあ、いくら強くても鉄砲で撃たれたらおしまいなんですよね・・・。
山県と馬場とは、なかなかえ~とこついてくるなという感じですね。個人的には山県の方が好きですね。赤備がかっこえ~からでしょうか?両方とも長篠の合戦で壮絶な討ち死にをしてますが、何で正面から戦ったのかいつも不思議に思ってます。素人にはわからない事情があったのでしょうか?もしご存知だったら教えて下さい。
No.2
- 回答日時:
こんにちは。
>戦術的・・・の意味が難しいですが、猛将という意味でしたら、武田勝頼も捨てたものではないでしょう。
信玄の時代より領土を広げてますし、父信玄が手も足も出なかった、高天神城を陥落させ、織田信長まで恐れをなしたと伝えられてます。
他に、関が原で敗死した、大谷吉継(大谷刑部)もすごかったようです。
俗に、背後から小早川が裏切って襲いかかり敗死といわれてますが、実際には、松尾山に陣を張る毛利勢の裏切りを予見し、正面の京極、兵藤隊と対峙しながら、10倍に余る小早川勢を2度も山の下から攻め登って山上に押し上げるという神技をやってます。
その後、さらに周囲にいた諸将が裏切り、壊滅しましたけど。
大谷吉継はいいですね~。私は好きです。吉継の関が原の戦いは泣きそうになるぐらい感動しますね。真田幸村の大阪の陣と重ねてしまうのは私だけでしょうか?吉継と石田光成との茶会の話も大好きです。
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