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織田信長なら革新的な政策として日本の中世より近代(あるいは近世)への変わり目に力を加えたと知っています

でも、詳しく言わば、それは何だと話せるんですか

キリスト教や西洋、世界との文化的、経済的な交流とか一人個人ばかりの能力による評価って江戸時代に全て消えてしまいました。

信長の政策についてはまことに「革新」だと「歴史上に不二の最高な英雄」だと気がすることは事実ですが、彼が後世に残した業績だけ見れば、すなわち、彼が致したことの中より現代の日本社会に少しでも意味ができることがあるんだか。。。の問題について、私はちょっと信じていません、信じにくいです。

たぶん、鉄砲が再発見された、ほど?

A 回答 (7件)

織田信長の業績は、


○宗教勢力が日本の政治に干渉するのを完璧に排除したこと、
○政権中枢まで、身分を問わない人材登用を行ったこと、
だと思います。
前者は、商工業者と宗教勢力の結びつきも断ちました。
後者は江戸時代の身分制では後退しました。しかしそれでも、江戸期の川柳に
「大名も 元は野に寝て 山に寝て」
といのがあるように、室町以前の高貴な方とはずいぶん、違うイメージになりました。
これらの影響は現代にもつながっていると思います。
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この回答へのお礼

お答え、本当にありがとうございます

お礼日時:2005/11/03 05:18

織田信長は日本屈指の情報分析能力に長けた人間です。



比叡山を焼き討ちは神社勢力に対する牽制。
武田軍を撃退したときも「武田ショック」というように他の弱小勢力を牽制。畿内での反乱抑止。
姉川でもワザと姉川を渡らせて挟撃。浅井より朝倉を叩きのめす。小谷城攻防で朝倉を一気に全滅の布石。
鉄甲船は村上水軍への牽制。瀬戸内の制海権確立。

派手な政策、軍事行動は一方を実力行使で。
もう一方を謀略でと、一つの行動で十の効果を得るように仕組んでます。
浅井朝倉放棄も早く知り、本人は一目散に尾張へ帰還している。つねに情報収集力はピカイチです。

兵農分離は元々尾張兵自体が弱兵で使い物になりにくかった。しかも命令通りに動かせない我侭。
これでは戦になりません。
これが傭兵への切り替えを可能にしたのだと思います。

兵農分離が出来なかった勢力は、農民の方が戦闘力が強く、「戦闘員」のプライドも高かったのだと思います。
地侍にとっては兵農分離をされると自分たちの価値が無くなるから反対するしかなかったのです。

長篠の戦、姉川の戦いは総力戦にも関わらず、挟撃されてません。これは後方を脅かす勢力を謀略で身動きを封じていたのです。
しかも「制限付き」の謀略なので空恐ろしい。
例えるなら、北条、武田を実際に相討たすのではなく、お互いを織田信長が忙しい時期に不信にさせる。
他人の目を織田信長以外にその間だけ他に向けさせる。

この情報戦略の緻密さこそ彼の真髄だと思います。
ただ人の心はやはり計りがたかったのでしょう。
それ故に徳川家康の猜疑心がより高くなったんだと思います。
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この回答へのお礼

そうですね

私も織田信長の大ファンし、近ごろにも、大変な時にもたまたま彼のエネルギを思って「彼の能力と精神がうらやましい!」と好いていますけど、

そんなことが現代日本にどんな影響をおよぼしたんですか

お礼日時:2005/11/03 05:20

大航海時代という世界の流れの中で、日本は戦国時代を迎えました。


室町幕府の体制の崩壊、下克上という階層の流動化、農業生産の飛躍的増大、貨幣経済の普及、商工業の発展、貿易の拡大など、戦国期は大きな変化のうねりの渦中にあった。
信長はこの混沌とした世界の中から「天下布武」という明快なビジョンを打ち出し、そこにすべてのものを収束させていった。
それによって、天下統一の流れをつくり、次の天下人である秀吉の高度成長路線へとつなげた。

実に、信長は1551年に家督を継いでから1582年に本能寺で倒れるまでの31年間で、この偉業を成しています。
信長は彼の持つ果断さと独創性によってこの大事業を達成したという見方がある。
確かに、信長の特徴である即断即決、強烈な実行力、意表を突いた戦術、政策の考案とその実施など、戦国時代の他のリーダー達と比較しても秀逸である。

しかしながら、それが信長のリーダーシップの本質であると見る事は、信長の秘めたリーダーシップの凄みを見落とすことになります。
新しい経済政策として信長は楽市・楽座を導入したことは知られているが、これは信長の独創ではない。
近隣の戦国大名である今川義元、斎藤道三、六角承禎などはすでにそれぞれの領国内で導入している。
軍事革新といわれる兵農分離にしても、当時の戦国大名であるならば誰しも兵農分離を望んでいたはずである。
合議制から単独採決制への決定メカニズムの移行もしかり。決して信長の独創ではない。
重要なことは、他の戦国大名ができなかったこれらの新たな仕組みを実際に現実化したことである。

例えば、兵農分離と単独採決制の確立を例に取ってみよう。
兵農分離を実施できたのは信長の果断さによるだけではない。
果断さということでは武田信玄、上杉謙信、北条氏康なども信長の人後に落ちない。
また、信長は「恐怖」や「畏敬」のみで人を動かし、兵農分離に駆り立てたわけでもない。

信長の凄さの本質は、人間に対する深い洞察をベースに、緻密に計算しつくされた様々な方法で人の意識を短期間で変革、より多くの人々の納得と支持を取り付けたことです。
当時としては商業が発達していた尾張においても土地本位制が基本である。
その中で人と土地を分離することの難しさはわれわれ現代人の想像をはるかに超えている。
「恐怖」「畏敬」「果断さ」だけでは、実施する前にとっくに殺されている。
また、信長が単独ですべてを決定するという意志決定メカニズムの確立も、並大抵のことでは済まされない。
当時のどの戦国大名でも領内の有力国人層による合議制が当たり前である。
武田信玄、上杉謙信、北条氏康、毛利元就などの他の有力戦国大名達は、譜代層や有力国人層の合議制というベースの上で、そのリーダーシップを発揮してきた。
この前提条件を外すことは、リーダーシップの壊滅と死を意味した。
人々に強いる部分はあるにせよ、やはり人々からの納得や支持を取りつけない限り不可能である。

1567年、美濃攻略から本能寺の変までの15年間、織田家は他を圧倒する急激な成長を達成した。
信長が数多くの革新的なアイデアを実際に導入することによって、それを実現してきた。
その背後には無数の利害を異にした人々から納得と支持を勝ち得て来た過程がある。
信長は急激な意識変革によって15年という短い時間で、天下統一という方向に実際に社会を動かした。

信長は絶対的な専制君主というイメージが強い。
誰もが思いつかないような独創的な方針を掲げて、有無を言わせず無理やり人々を引っ張っていくといった印象が一般的である。
「人の話など聞く耳をもたぬ」とでも言ったところか。
しかしながら、信長を中心に展開されてきた49年間にわたる数々の事象は、視点を変えるとその時代に生きた人々の意識の投影である。
信長の事業は、地域的には日本の中心部をほとんど席捲し、天下統一1歩手前まで展開した。
いくら信長が一人で頑張ったとしても、人々の意識が彼の方針についてこれなければ、これだけの偉業は達成できない。
懸命に工夫を凝らし、人々の意識を自分の想いに引き寄せようと試行錯誤し、努力している信長の姿が垣間見える。
工夫しなければ、天下布武どころか滅ぼされている。そこには、今までのイメージとはまったく異なる信長像が姿を現す。
この必死の工夫こそが信長の真骨頂であり、信長のリーダーシップの本質ではないだろうか。
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この回答へのお礼

そうですね

私も織田信長の大ファンし、近ごろにも、大変な時にもたまたま彼のエネルギを思って「彼の能力と精神がうらやましい!」と好いていますけど、

そんなことが現代日本にどんな影響をおよぼしたんですか

お礼日時:2005/11/03 05:20

#3です。


もしかしたら、(記憶ですが)中肉中背、童顔にひげを生やし、色白で、上から物を言い、声はなはだ高く(声が大きい)・・恥の感覚が痛烈で

こんな人物描写が残されていますが、これまでの日本人の感覚的には、好まれるところがあったと思いますよ。いかにも、武将らしい!という感じです。

(童顔については、「妹が美人伝説」につながるため欠点にはならない。美形には期待さえ持つ?)

しかしこれからの日本人に受けるかは、また別です。価値観についても多様化がみられます・・それが定着するかどうかは別にして。
日本人は悲壮な中にも魅力を見出すものなのです。途中で死んじゃったみたいですしね、・・たぶん。
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この回答へのお礼

そうですね

私も織田信長の大ファンし、近ごろにも、大変な時にもたまたま彼のエネルギを思って「彼の能力と精神がうらやましい!」と好いていますけど、

そんなことが現代日本にどんな影響をおよぼしたんですか

お礼日時:2005/11/03 05:20

はっきり言えばあなたの考え方が間違っているというか、


おかしな基準でものを見ています。

個人の業績を”日本社会への貢献”という尺度だけで見るならば
それは多くの人間がその基準に合致しないでしょう。
戦国大名などは、日本のために何かやっているわけでは
全く無いので評価は低くなって当然です。

現実の世界では”世のため人のため”という人は
そもそも稀です。
まずは自分のため家族のためで、
それがひいては世のためのにもなるという程度です。
無私の人物がもしいたら尊敬されるでしょうが
実際にはそんな人間はまずいないからこそ敬意を持たれるわけ。

織田信長は日本社会に貢献したからではなく
戦国時代における突出した指導者だから偉人と評されるわけです。

そういうとこを根本的にあなたは考え違いしてます。

経済界に話を例えれば、ホリエモンとか三木谷とか村上とかは
経済上の業績として成功していますが
彼らは日本のために働いているじゃなくて
会社の収益を上げるために働いているわけです。
それが資本主義社会であって、現実の世界です。
それがいいことであろうがなかろうか、
企業家の行動が日本を動かしているわけで
その行動が日本社会全体に影響を及ぼすわけです。

それと同じように、
織田信長の業績も、それがよかろうがわるかろうが、
彼の行動が日本の歴史とその後の発展に影響を与えたわけであって
現代日本社会にとって意味があるかどうかなんか、
それ自体が意味が無いのです。

そもそも歴史というものは、
一方向に進んでいるわけでも、
階段を上るような着実な発展をしているわけでもありません。
実際には後世に多くの選択肢、多くの未解決の問題を残し
試行錯誤、あるいは後退し、混迷している。
大局においては人類は向上しているといえますが、
織田信長一人の業績に注目するような
大きな波のなかの小さな区間、
短期間だけをみるならばそれはあてはまりません。


だから真に注目すべきなのは、意味があるかとか
何らかの向上をもたらしたかとかではなくて、
個人の業績についていうならば、
その人物はいったい何者だったか、
何をどう行ったかということです。
織田信長がその時代の社会の全てを
牛耳っていたわけではないのは明らかなわけですから
個人の業績と社会への影響などは別の次元の問題です。
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この回答へのお礼

ね、古い理論ですね。

歴史の変化ということは個人より社会?

でも、そんな史観が失うことがあります

織田信長ような大大名は無名足軽ような平たい男に比べて厳しく違ってるが

この現実を認めないし、すべてを社会とか、歴史の潮流とか、そんな観的な思いに個人ひとりとひとりがみんな歴史の部分という観点には問題ある

歴史とか社会とか、結局、それも一人の個人らが合うことです

個人の業績ないのままには、歴史の動きもありません

「もし、その人がいないでも、あくまでは、こちらの歴史だろう」

でも、歴史は「もし」ような言葉ができない、と思います

個人は社会の単純な一部がないです




そして、もちろん「世のために務めるひと」ではありません

すなわち、我々にそのひとの本音は知らないことです

でも、そのひとがなにをやったのか、どんな意味があるか、彼が我々に関係らしい

そんな点については様々な方に見られても悪くないと

お礼日時:2005/11/03 05:19

信長のなしたことについては今、彼がやったとされる事をみても結構、胸がすくものがありますよね。


それは独特の合理的精神によりなされた事にも由来するんではないか・・。
過去のしがらみを断ったんですよね。もし全てが事実であれば、まさに命懸けは覚悟の上・・。
たとえば楽市楽座なんかもそうですし、100m幅の道路を作ったり、琵琶湖(日本の北方が視野に入るに従い、日本の中心は北に移動している傾向にあるんだとか。彼の時代は中心は琵琶湖であったといわれる)周囲に主立つ家臣に城を持たせた。
光秀の坂本城、信長の安土城など。そこに大きな船を浮かべて、移動時間を稼いだとか・・。実際安土城は琵琶湖畔でした(築城時)。そのご埋め立てられて現在は湖岸から離れていますが・・。
まあ、語られている事が事実であればの話ですが。しかし安土城は、城の基礎(大石)など残っていましたよ(12年前行って見た)。今はもっと観光地化が進んでいるんじゃないかと思いますが。
鉄砲もその一つです・・でも当時の戦において、それほど殺戮しまくったのかは調べたほうが良いのでは・・。私なら
「主君のために行ってくる」と出かけて、
「いや家畜の世話があるから」と軽く逃げますよ。蜘蛛の子を散らすように。プロの戦闘家ではありませんし。

発想が比較的素直と言うか、(信長一人だけは)自由な感じさえする・・頼むものは金(神仏や権威よりも)、みたいなところもあるし・・。英雄視された原因かもしれません。

でも何かを残したのか、については・・。実際、畏怖の念は抱いても、崇拝されてはいません。ちょっと怖い人、というのが印象です。武力を用いるほかに無かったらしいですけどね。
そう考えると、彼の出現により、日本の人間の力がまとまるのは加速度をつけたようです。50年、100年遅れた場合、徳川政権下で国力を蓄えるのに支障をきたす事も起こり得る事ですから、やっぱり日本人は救われた面があるのかもしれないです。それは彼の親が、財力に富んだことも原因でしょうかね。先見の明、というか高いところから見る事が出来た、可能性はあります。その視点で仕事をしたんでしょう、多分。
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この回答へのお礼

お答え、本当にありがとうございます

お礼日時:2005/11/03 05:18

信長の政策そのものはまったく革新的ではなく


そのほとんどに前例があります
しかし多大の領土を持ち経済的にも豊かであったため
今まで格大名がばらばらに行っていた政策に統一性を
持たせ行ったことです
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この回答へのお礼

正しい言葉です

だが、そんなことが今の日本に関することってなんですか

お礼日時:2005/11/03 05:19

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