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題の通りなんですが、なぜ19世紀日本は植民地支配されなかったのでしょうか?

植民地支配されてもおかしくない状況であったのに欧米が進出してこなかったのにはどんな理由があるのでしょうか?

どんな意見でもかまいませんので回答していただけると光栄です。

A 回答 (10件)

とにかくヨーロッパから遠かった。


欧州各国は手近な順でアメリカ→アフリカ→中近東→南アジア→東南アジアと植民地化してきたゆえに、極東の島国は一番最後になった。
19世紀前半から中盤は欧米でゴタゴタが多く、各国とも勢力拡大に力が入っていなかった。(南北戦争、ボーア戦争、クリミア戦争、フランス第2帝政...etc)
また、隣国に中国と言う”おいしい”土地があるので、あまり日本が目に入らなかった。

植民地化の取っ掛りには、キリスト教の布教が使われるが、日本では禁教されていたため侵入がむずかしかった。
仏教、神道がの生活の隅々まで行きわたる一方、当時の日本人は宗教の”まやかし”の部分もちゃんと理解していた。

当時、日本の文明のレベル(特に底辺のレベル)が高く、西欧文明を日本流に取り入れることに成功した。
実は、他の植民地となった国々はこれが出来ず、欧米人の思うようにコントロールされてしまっている。
例えば、日本人はヨーロッパ人以上の識字率を誇っていた。
一部のインテリが欧米を見て知識を得ると、すぐに翻訳したり本を書いたりして、
それを印刷(江戸時代からの木版印刷、貸本屋のインフラがあった)し、あっという間に全国民に広めた。
寺子屋の伝統があったので国民皆教育の立ち上げも早かった。
市場経済のインフラもすでにあったので、欧米の商人と対等に渡りあえた。

明治維新が驚異的に早く終結した。
たいていの国々は封建制→中央集権制の変換に100年はかかり、
この間に国土は荒れ、富も消耗し、人材は消失し、国民の間に憎悪だけが蓄積する。
この間に先進国にいろいろな利権を奪われる。
これが最小限で済んでしまった。
また、幕府側も新政府側もそのことを熟知しており、さっさと手締めした。
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個人的には教育水準が高く、道徳心があったからだと思います。



小さい頃から寺子屋や藩校等で読み書きそろばん等を習うという体制は他のアジア国家にはなかったはずです。
おかげで識字率は欧米並かそれ以上あったということを読んだ記憶があります。

また、学術書等もすぐに翻訳され、欧米の思想が知識階級に広く普及していたこと、日本人の性格であるいいものは積極的にとりいれる思想があることから幕末の頃は知識的なことでは欧米に肩を並べていました。

また、武士道の精神があるため、礼儀作法が正しく、不道徳なことをする人がいなかったため、欧米人に信頼を受けたのが大きかったと思います。
欧米は契約至上主義なので、信頼出来る相手とは誠実に契約を守るところがあります。

それらが基本的にある上での日本の陸軍の力と欧米から派遣される侵攻軍、それへの補給体制を天秤にかけた結果、植民地にしない方が得策だとの判断をしたのだと思います。
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尊皇思想が当時の各藩の首脳陣(幕府を含む)や武士階級に浸透していたことがあると思います。

当時の孝明天皇は攘夷思想が強かったため、尊皇を標榜する武士はすべからく攘夷思想を併せ持っていました。幕府ですら表だって反論することが出来なかったほどです。

こうした中で、仮に租借地を外国に与えたとしても、決定した者は次の瞬間に暗殺されてしまうような情勢でした(開国を唱えただけで暗殺されてしまうのですから尚更です)。尊皇攘夷のテロが猖獗(しょうけつ)していた情勢で売国的行動に出ることは自殺と同義だった訳です。

明治維新によって、曲がりなりにも天皇を頂点とする1000年振りの統一国家が成立する時点まで、外国に土地を切り売りする藩が出なかったのは尊皇攘夷思想とそれをバックボーンとするテロの行使があった点も大きな理由だと思います。
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いろんな意見が出ていますので少し変わった視点から…



私はなんといっても日清日露戦争だと思っています。特に日露戦争ですが、これに勝ったのが非常に大きい。不凍港を求めてわざわざシベリア鉄道まで作って極東を侵略しようとしてきたロシアに対抗して、朝鮮半島を死守しようとした日本は、あの戦争がまさに生命線であったといえます。当時、山県有朋ははっきりと朝鮮半島を日本にとっての利益線であると言っています。また、アメリカを使ってうまく戦争を終わらせた外交政策も奏功しました。ただ、賠償金問題で国内は揺れましたが…

つまり、半島を奪われたら日本は確実に中国の二の舞になっていたことでしょう。それは当時の軍人や一般民衆までも含めた基本的な認識であったといえます。その後の日本は少々オカシクなってしまいましたが、あの戦争に負けていたら、日本はアメリカとロシアに分割占領され、アジアの独立は勿論、日本の現在のような経済大国化もまず実現していなかったといえることだけは間違いありません。
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本来なら欧米列強は、日本も植民地支配するつもりでいました。

しかし例えばイギリスは、同世紀中にインドでのセポイの反乱・中国での太平天国の乱という2つの大きな民族主義的大反乱をまねいています。そしてこの反乱を鎮圧するのに手を焼きました。
そこで欧米列強は学んだのです。アジア諸国を植民地にするのは簡単だが、ひとたび大反乱が起こると鎮圧するのに甚大な損害を被ることを…。
これでは、せっかく莫大な経済的利益を手にしても無意味です。そこで欧米列強は、日本を半植民地状態にして経済的利益だけを吸収しようとしたのです。
ちなみにイギリス国内で、自由党を中心に小英国主義が主張されるようになったのにも、こんな理由があったからなのです。
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こんばんは、他の方々のご指摘のように、アヘン戦争による清国の凋落ぶりは、高杉らが良く認識していたところですね。

実際、下関や彦島あたりが租借されていたら、日本のジブラルタル、香港とかになっていたでしょう。その点で、幕末の日本人の国際感覚はすぐれたものがあったと思います。幕府の方も、オランダを通じて英仏の植民地化の手口についての情報は得ていました。井伊直弼の「開国」判断も、そうした情勢判断に基づいています。

さて、ここでは諸外国の視点からお答えしたいと思います。

幕末、イギリスは薩長を、フランスは幕府を支援しますね。その点では、朝廷・薩長VS幕府の抗争は、英仏の代理戦争といえなくもありません。
英仏にとって、日本あるいは他ヨーロッパ諸国と武力対決までして日本を植民地化するメリットがどれだけあったか、でしょうね。英仏とも中国(豊富な資源と膨大な人口=巨大市場)が本命であって、日本はちっぽけな島国に過ぎません。金は豊富でしょうが、貿易で吸い上げればよいことでしょう。

この時期、イギリスは「インド大反乱(旧セポイの乱)を鎮圧し、1858年にはインド直接統治を開始します。イギリスにすれば、「まずインドを確実におさえ、次に中国」という構想でしょう。日本とは、貿易(対日輸出)さえしっかりできれば良し、くらいの位置づけであったかと。

フランスは、ナポレオン3世がインドシナ出兵(1858)を行い、こちらも「まずインドシナ、次に中国」というプランですね。その後、国境を接するドイツ(プロシア)との緊迫化→普仏戦争(1870~71)敗北=ドイツ帝国成立(皇帝の戴冠式はパリで行われる)と国内的にボロボロになります。

ロシアの場合は、極東においては「シベリア開発→沿海州領有→中国東北部(満州)」が進出の主力線でした。

アメリカの場合は、1860年「南北戦争」が開始されるように、国家分裂・内戦という、建国以来最大の危機を迎えます。幕末混乱期、太平洋の彼方の国では、とてもまともな対日政策など考える暇さえありません。

と、まあ日本が国際政治の荒波の中で開国・近代化を図るちょうどその時期、欧米の方もそれぞれの思惑・問題があったということになります。その点では、日本は客観情勢としては幸運に恵まれた、と言えるでしょうね。
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尊王攘夷の声高き中、外国と刃を交えたのは長州・薩摩ですが、長州は租借の要求を突っぱねました。

あそこで要求を飲んでいたら、租借地を足がかりとして、ズルズルと植民地への道へと転がっていったかもしれません。

薩摩は戦後、イギリスと仲良くなりました。お互いを尊重しあったという話ですが...。
誰もが眠れる獅子と恐れた中国が張子の虎であり、やれ租借だ、鉄道敷設権だと転がっていったのとは対照的です。戦いの内容もよかったのかもしれませんが、戦後交渉の上手さもあったのではないでしょうか。

維新後は既に回答があるとおり、急速な富国強兵と近代化につきると思います。
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 統一国家であり、江戸時代から軍事力も相応にあったのと、明治維新のときにも植民地やアヘン戦争の知識があり、幕府側も維新側もイギリスやフランスからの借金を断っています。

植民地の理由は借金の形に国家を奪うというものです。黄巾党の乱やセポイの反乱もアジアの抵抗に対してヨーロッパを慎重にしたと考えられます。
 それでも、不平等条約を認めさせ半独立国の扱いを受けていたわけですが。
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確か、欧米の列強の間でにらみ合いがあったせいだと以前どこかで読みましたが。

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狙われてはいたと思います。

ペリーの来航もそのひとつだったかと思います。しかし瀬戸際で維新が起こり、明治政府ができあがり、まがいながらも欧米列強を模した近代国家らしい国家になり、陸海軍も整え、不平等条約も改正でき、日英条約も締結でき、ついには日露戦争にも勝てたので、植民地化されることは免れたということだと思います。

要は、当時の明治政府の努力の結果ということだと思います。
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