プロが教えるわが家の防犯対策術!

自分で調べてみたのですが、
どこも長くて分かりづらい文章しかないのです。
どなたか、簡潔に、またはわかりやすく教えてくれませんか。

A 回答 (2件)

地域の歴史の理解は、住人、外因、利権を分けることからできます。

私は、私の史観で書きます。アフガニスタンには純粋な魂の友人もいました。文章は長いですが、視点はひとつです。辛抱してよんでください。

 アフガニスタンはもともとイラン系遊牧民パシュトゥン人の作った遊牧国家です。平和なんですが、馬にのって機動力があるので弱い国(弱ったインドのムガール朝)には侵攻したり、でも、遊牧国家の弱点を知りぬいた中国(隆盛時代の清朝)には弱かったりしたのです。(イスラム教はまだちょっとおいておきます)国は、1747年にドゥッラーニー朝ができてから国体を為すのですが、さすがに7代するとやや衰えて、19世紀にはカーブルのみが領地になり王家が交代しタリしていましたが、いかんせん、世界の近代化の余波をここでモロにかぶってしまいます。
 強国ロシアの南下政策、これを阻止する大英帝国の巧妙な先手(戦争と融和の飴と鞭)によって、すっかりイギリスの保護国になってしまいました。イギリスは実はおいしいインド(英領でしたでしょ)を守りたかったのです。だからこのときに山と岩しかない(石油のパイプライン利権などはまだ考えられていません)アフガンに最初に(第一次戦争で)入ったのはイギリスの東インド会社軍なのです。第2次はイギリス軍(インド帝国軍)が入りました。このときに現在のアフガニスタン・パキスタン国境線が確定したりしています。なおパキスタンもパシュトゥーン人の国家です。で、安定したかに見えたんですが、ここで不幸にも第一次大戦の影響をかぶってしまいます。ありゃりゃ、です。

 第一次大戦で英国の支配がちょっと手薄になると傀儡政権は裏切りイギリスに対するジハード(聖戦)をはじめます。これが第3次アフガン戦争です、これで、完全独立国家になります。しかし、独立といってもしょせん遊牧民族の作る部族国家で、近代国家としては非常に弱体です。外交戦略なんてありませんでした。ソビエトが攻めてこんならそれでいいかなってなもので、イギリスを除く世界中の国々はこの独立国家を好ましく思ってみていました。
 しばらくアフガンに住むパシュトゥーン人もこれで安定していましたが、また、いきなりソビエト連邦による軍事侵攻を受けます(1979)。実は、いきなりではなく、過去のロシアの南下政策や、隣のイランではイスラム革命が79年1月にホメイニ師によって成功しますので、ソビエトが敵対的なイランに対する戦略的な反撃の拠点が早くほしくて、ずーっと裏工作をしていたのを一気に実現しただけなんです。イスラムといっても部族の教義が第一ですから、宗教的な一枚岩では全然なく、部族にはちょっと不満でこういうのに応じる一味も必ずいるわけです。1978年ソビエトの援助を受けた共産主義政党アフガニスタン人民民主党がクーデターを起こして、でも、もたもたぐちゃぐちゃして失敗します。ソビエトはそんなもの予想通りです。その機に乗じてソビエトがクーデター政権の幹部の依頼という形で軍事介入します。家族つきの軍事顧問が500人も移住するという気合の入りようです。あとは、知っての通りの侵略、支配権確立の構図です。国は部族国家だから地方が反発し遊牧民対軍隊の戦闘になります。ソビエトは結局撤退するのですが、アフガンの戦闘員は、昔と変わらない、乗馬した(していないもの大勢)遊牧民(ムジャーヒディーン)です。機動的な戦闘なんてぜんぜん知りません。あたしの、友人もアフガンのムジャーヒディーン(いまは生死不明です)でした。ムジャーヒディーンといっても知っているのは馬の乗り方と古い機銃の扱い方だけです。遊牧民はソビエトとの戦争で、人間が味わう最悪の苦しみの中で生活する羽目にあいます。たとえば”お人形さん爆弾”は子供に拾わせる対人爆弾です。そこで起こったのは、遊牧民の人権なんてどうでもいい輩の戦争。人口の10%の150万人、生産力の50%を失います。
 この悲惨な戦争を反ソビエト=イスラム擁護の立場で後押ししたのは、敵の敵は味方とする米国と、そして殉教的なイスラム義勇兵。義勇兵は20万、ソビエト軍は40万人。義勇兵はアメリカCIAの強い資金援助(21億ドル)を受ける(アメリカは石油利権で十分ペイできる算段がついた)。そしてアフガンという平和な遊牧地は殺戮劇の舞台に。義勇兵のなかにはオサーマ・ビンラーディンもいた。
 最後の戦いはソ連軍の撤退後の1989年のジャララバードの戦い。不思議なことに共産政府軍が勝った。ムジャーヒディーン各派は体系的な戦闘能力がなくばらばら。そして、アメリカやパキスタンの思惑するポスト共産政権の構図には、純朴なムジャーヒディーン各派は入ってなかった。1992年に共産政権はシナリオどおりゆっくり崩壊し、一時は、北部同盟の指導者ラッバーニーが暫定指導評議会議長となり、徐々に政権をかためようとしたがそのやり方(暴行略奪)に反発が強く、イスラム神学校の純真な学生に由来する急進的なタリバーンによる政権が支配し、彼らは原理主義的なイスラム政治をしいた。しかし偏狭なイスラーム解釈は、パシュトゥーン人には受け入れられず、対外的にも頑固で融通が利かず、パシュトゥーン人のパキスタン含め周囲国の支持が得られずに次第に孤立を深めていった。もともとアメリカはせっかく手に入れたはずの石油利権すら得られなかった。
 一方で、へまなことに、タリバーン政権が擁護するアルカーイダは2001年9月11日のアメリカ同時多発テロ事件を引き起こす。たまりかねた米国は国家の転覆を画策、即アフガニスタン侵攻を行いタリバーン政権を壊滅し、政権・石油利権を確保。12月にはアフガニスタン暫定行政機構をつくり、元は一時タリバーンにいたこともある、ハーミド・カルザイをその議長に就任、そしてアフガニスタン・イスラム移行政権の大統領に就任させ、以後はオイルハネムーン中で、現在に至る。米国のアフガン攻略の成功は、ついで、イラク攻略の軸足となった。米国のイラクからの実質の撤退はありえない。
 世界史上、ロシア、清朝、ソビエト、中国、イギリスがなしえなかったアフガニスタンの実効支配を達成したのが、アメリカであることは注目に値する。たとえ交戦国であっても、その国の国民のニーズを正確に把握し(コントロール)ているからできる技である。これからは、米国の庇護の下でパシュトゥーン人のニーズにやさしくこたえていく国家を作ることがアフガンの安定につながる。
 振り返ると、アフガンで起こったことは、真の内戦ではなく、侵略の歴史で、世界史の余波ばっかり受けていた。素朴な(政治音痴の)遊牧民のパシュトゥーン人(その意味ではパキスタンのパシュトゥーン人とは違う)が、平和にくらせるように祈りたいです。
 
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>簡潔に、またはわかりやすく  うーん


1)アフガニスタンは、基本的に諸部族を単位とする部族連合国家であること、言い換えれば、考え方が多様化すれば逆に「一つにまとまりにくい」

2)イスラム教国家であること(穏健派、原理主義派とこれもさまざま)⇒イスラム教徒がいる旧ソ連、中国などの近隣大国にとってはアフガニスタン情勢は無視できない ⇒ 1979年ソ連のアフガン侵攻

3)地政学上は、東西・南北交通の要衝であること(かのアレキサンダーもカイバル峠を越えてインドに侵攻します)
したがって、米ソ冷戦時代はアフガニスタンを舞台に、ソ連の侵攻およびそれに対抗するアメリカ(CIAなどの)秘密工作が繰り広げられる。

4)ソ連撤退(1989)後は、イスラム原理主義タリバーンの支配が確立
反米ゲリラ・テロ組織の基地となる(アメリカは「こんなはずではなかった!」 ⇒ 2001.9.11テロ ⇒ アメリカによる侵攻

単純化していえば、
19世紀は、ロシアの南下を抑えるためにイギリスが介入し
20世紀後半は、旧ソ連が、イスラム国家への牽制と共産主義のイデオロギーを持ち込み、うまくいかないと軍事侵攻
21世紀は、アメリカが反米を掲げるイスラム原理主義国家(タリバーン)破壊および「対テロ戦争」を掲げて侵攻し

とさまざまな大国の思惑によって翻弄されているということですね。
すみません、やっぱり「簡潔に、またはわかりやすく」とはいきません。それほど「複雑」なんです、アフガニスタン問題は。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%95% …
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