プロが教えるわが家の防犯対策術!

以前こちらで「希望とは?」で質問させて頂いた、「大いなる希望」を求めて彷徨う探求者です。

以前こちらで御質問させて頂き、絶望が限りなく絶対に近くとも、その通りではない事を御教え頂きました。

http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?q=2026689

そこで改めまして、もう一度「希望」と「絶望」について、現実的側面から思考させて頂きましたが、私のでた結論と致しましては、絶望とは本人の解決能力を遥かに超えた問題の提起である、とお見受け致しました。

では「希望」とは?
残念ながら、今だ見えざる解決方法としか言えませぬ。
そもそも、解決方法などあるのでしょうか?
結局は妥協と諦めによる自己満足しか残されていないのではありますまいか?

そうなると、もはや絶望とは「不運」であるとしかいえません。
さすがに、私も匙を投げてしまいます。
「神の因果律」など、ただの人間に過ぎない私には、予測不可能です。
それこそタイムマシンでも開発しない限り、「因果律の崩壊」など引き起こせません。

結局は「運」なのでしょうか。
不確定性要素による「希望」の発見しか、人々には残されていないのでしょうか。

皆さんのお知恵をお貸し下さい。
(以上の事から、神に祈るという行為も理解できなくはありませんが、できれば実用的側面から現実論でお願い致します)

A 回答 (11件中1~10件)

>しかし、だとするならば人間の営みとは何なのでしょうね。


「運命」なのか「運性」なのか、そんな不確定性要素に支配された人間を見てると、悲しくなる思いで御座います。

僕もそう思います。「いったい人間ってなんだ」と何度も何度も考え悩みました。

その中で気付いたことがあります。それは「感覚」です。他に言い方はいろいろあると思いますが、僕の中では感覚です。

人は、心地良さを求め、充実を求め、幸せを求めます。苦悩を拒絶し、不安を拒絶し、苦しみを拒絶します。今のmaddogさんはこの状態でしょう。

感覚がない者、感情がない者は、何も求めません。何もしません。死んだって構わない、いじめられたって構わない、愛しい人が死んでもどうも思わない、社会的にあーだこーだも言わないんですよ。
 ですが、感覚・感情のない者なんていないでしょう。イエス・キリストであれ、お釈迦様であれ、慈悲の感情なくして教えは説かなかったはずです。

生きている以上、人は、感覚・感情に振りまわされていきるのです。これは、最低限死ぬまで抜け出せません。

なら、人はどう生きるべきなのか、自分の感覚・感情を満たすために生きれば良いんです。考え方は簡単です。ですが、苦しみのまったく無い満たす方法と言えば難しいものです。

人が充実して生きるためには、
 自分の感覚が良くなり
 自分の性格、心の判断の方向性が良くなり
 自分の頭、理性的な判断の方向性が良くなり
 自分の知識・技術や筋力、記憶力など能力が高くなり
 自分自身の体調が良好で
 自分自身の気が強くなり
 自分が良い財産を持ち(良い人間関係、お金、良い物など)
 自分の環境が良くなって
 (さらに、運が良くなって、閃き力が高くなって)

以上の事項がすべて最高になって心底充実して生きられるのだと僕は思っています。

どれかの事項が低いと、ときたまそれで苦しむのです。苦しみ苦悩するのです。充実して生きようと思えば思うほど、上記の事項が完璧でないと苦しむのです。感覚が悪いと良いものを良く感じることができません。ですから、良いことに繋がることをせずにして悪いことに繋がることをしていまうのです。それで苦しむのです。
 また、自分が何か求めてもすべてがOKとはならないこともありよね。何は欲しいけど、それに伴って何何になりたいくないとか、何々をしなければならないとか。これが、maddogさんの「矛盾」のことだと思います。
 充実に完璧に繋がらない行動をすればどこかで破綻します。その破綻が苦しみであり、生きる苦悩そのものです。

上記の事項をすべて完璧なものにしようともそれは簡単ではありません。その方法すらどうすれば良いか解らないと思います。

私は、阿含経を元にした宗派ではなく、法華経を経典とした宗派とする日蓮正宗を信仰しています。この宗派がお釈迦様の中で最高の教えであるかどうかは私自身解りません。そこまでのレベルには達していません。

この宗派の教えは、この宗派の曼荼羅(仏壇にかざる掛け軸みたいなもの)に向かって南無妙方蓮華経と唱えるところに感覚・性格・能力の基盤が向上することです。ですが、1度2度では足りません。長い長い時間をかけてこの意味が解るようになります。その長さと言えば、私の場合、毎日2時間程度で半年です。人によって違います。唱える時に、信じれない気持ちを持つはずです。信じれないというか、この宗派を壊したいといか、この教えを全否定したいという気持ちが生まれます。それでも唱え続ければ必ずその「感覚・性格・能力」が向上します。信じるとは、確信することではありません。疑問に思うことではありません。とにかくやってみようと思い行動することが初めの信じることです。
 感覚が変り、性格が変り、能力が変れば、自分の行動意識が変り、良質な物を求め、良質な環境を求め、良質な財産を求め、充実した時間を過ごしたと思います。そのために、自分が良質な物を作れるように、人と良質な関係を築けるように、良質な環境を作りたいと思い、そのために行動するようになります。以上は、私が体感した実感です。この宗派にもっと深い教えがありますが、聞いたことを言っただけでは何の現実性もありません。
事実、現実として表れたからことしか私は言いませんので。事実、現実性がなければ意味のない卓上の論理に過ぎませんから。


人が生まれて、死ぬ意味が私はまだ、解りませんが、人は気持ち良く生きたいと思う。そのために、悩み苦しむ、辛い修行に耐える、いろいろと研究する、科学技術が発達して便利になる。辛いことでも愛する者のために何かをする、不確定性要素による「希望」の発見のために考え続ける、これが人間の営みではないでしょうか。

maddogさんの神に祈るという行為~は嫌という回答に反していますが、心の片隅に入れておいてくれば幸いです。私自身、苦しみのどん底にいてもやってみようと思わなかったし。

僕の回答に関係なく、maddogさん充実して、良い人生を歩めるように不確定性要素による「希望」の発見できれば良いですね。苦しく苦しくて、人間なんて存在しなければ良いのにと思うかもしれませんが、自分が納得できる何かと出会えるまでがんばってください。
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この回答へのお礼

励ましのお言葉、有難う御座います。
自らの信念を貫かれる生き様もさる事ながら、不覚にも心に沁みました。

私は「感覚=心」と捉えておりますが、仰る通り心が死んでいれば何も感じず、私はこの状態こそが絶望によってもたらされる「虚無」だと思っています。
当然、良い考えは良い肉体に宿るといわれるように、身も心も健康でなければならないと私も思います。

しかし、苦しみは人の辛さを理解する為に、自分が何を望んでいたかを再確認する為に、必要な事だと思います。
ただ、問題なのは虚無の原因である、絶望の解決方法が非常に難しく困難な事です。

>何は欲しいけど、それに伴って何何になりたいくないとか、何々をしなければならない
「あちらを立てればこちらが立たず」、というのはある意味その通りだと思います。

>とにかくやってみようと思い行動する
これは大切だと思います。
ただ、疑問に思う事も、悪意を持つ事も貴方の大切な感情の一部ですので、切り捨てずちんと向き合ってあげて下さい。

>人は気持ち良く生きたいと思う。その為に、悩み苦しむ~これが人間の営み
まさにそうなのです。
しかし、あまりにこれが絶望的過ぎる…。
もう少し明確な、人々が共感でき希望となるような、現状の打破に繋がるものはないか?というのが私の所論であります。

真剣でご丁寧な回答有難う御座います。
shoujin24tさんが早く充実に満ちる生活を送られる事を祈っております。

お礼日時:2006/03/26 19:30

こんにちは。



貴方のお礼文を拝見していて気になったのが、
「自らが守ろうとし信じているものが、同時に重大な欠陥である「矛盾」を抱えている事に気付いた時、出口の見えない混沌という名の迷路に迷い込みました」、という文章でした。
 ここから、貴方の「絶望」とは、NO10さんの仰っているような、「充実」が欠如した為に引き起こされたようなチャチなものでは「ない」と私は思います。
「希望」というものが、不確定要素を信じる、という事で成立するならば、「絶望」も同じ原理だと思います。
しかしながら、「信じる」という行為は根拠がありません。
何かを信じる為には前提が必要なのですが、その前提を疑うと、更にその前提を見つめなければならない、とこのように永遠に続いてしまいますね。ですから、どこかで妥協しなければならない、という事だと思います。
絶対的な根拠が無いのに、行動している私たちっていったい・・・。
って事ですよね?
じゃあ、苦痛を快楽に、快楽を苦痛に、の繰り返しゲームを死ぬまで続けるか?
普通の生活を求めるならば、信念で自分を塗り固めて、繰り返しゲームをしていればいいんじゃないでしょうか?

僕もまだどうすればいいのかわからないのですが、
一つ考えた事は、
「今この瞬間の出来事はすべて真実である」という事なのですが、如何でしょうか?
否定肯定でなく、ただそこにそれがあるだけなのです。
ちょっと乱暴な終わらせ方ですが、こんなんで如何?

この回答への補足

沢山の方が聡明なご意見を述べて頂き、有難う御座います。
一旦ここで締め切らせて頂きます。
出来れば皆さん全員にポイントを差し上げたいのですが、システム上、個人的判断で勝手に選ばせて頂きました。

ですが、皆さんの御意見全てが真実であると私は思います。
それらに大差はないかと存じます。
出来る事なら、私のポイント全部を差し上げたい所ですが、出来ない為どうかご容赦下さいまし。

本当に有難う御座いました。

補足日時:2006/03/26 19:54
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この回答へのお礼

こんにちはsilverman0様。

>「希望」というものが、不確定要素を信じる、という事で成立するならば、「絶望」も同じ原理
そうなのです。
不確定要素によって、どちらも引き起こされる為に非常に厄介なのです。
人間に出来るのは、未然にこの度合いを調整し防ぐ確率を上げるか、何らかの解決策を模索する事で脱する確立を上げるしかありません。

>絶対的な根拠が無いのに、行動している私たちっていったい・・・
まさにその通りです。
結局、最終的には「信じる」という要素が必要になってくる訳ですが、あまりに現実はシビアです。

>信念で自分を塗り固めて
信念を持っている人間は確かに強いです。
しかし、その信念が崩される時が来るのが、世の非情さで御座います。

>ただそこにそれがあるだけなのです
仰る通り、困難はただそこに存在するだけです。
しかし、私達はその渦中で生きている以上、制限時間もある為、何とかして越えねばなりません。
しかし、あまりにそのハードルは高過ぎる、と思うのです。

闊達な御意見、実に有難う御座います。
私共々、いつか分かる日が来ると信じたい思いで御座います。

お礼日時:2006/03/26 19:54

具体的に何に絶望を感じているのかをご説明いただがかないと、現実的な解決法の手助けはできないでしょう。

(但し、具体的な人生の悩みであれば、カテゴリが異なるでしょうが。)

絶対的絶望があるとしたら、それは、主観であり、幻想です。心理学では、「絶対」というのは、感情から生じる「主観的なものの見方」です。

例えば、仮に人生が今生限りであると考えた場合、現在の人生に、変えることのできない何らかの苦しみがあったとすると、いずれ今生限りである人生の死によって、その苦しみから解放される、という希望があります。
ある人の残された人生が明日までと限られていた場合、残された時間を、精一杯、前向きに生きよう、それまでは生きられるという希望を持つ人もいるでしょう。
ここでいいたいのは、何に絶望するか、何に希望をもつかは、人の心しだいですし、主観的なものであるということをいいたいのです。

人は、大きく潜在意識によって支配されています。人の心の性向は、(心理学でいうところの)自分の知らない心理的な抑圧やコンプレックスに支配されています。理由なく、絶望を感じるというのであれば、質問者様は、心理的に、絶望をもつという状況に執着し、そのような絶望的な状況に身をおくことを愛しているのであると思います。その理由は、例えば、幼少のころの経験であったり、自分の尊敬する作家が暗い小説を書きその小説に耽溺しているとか、前世の記憶による場合があります。

質問者様が、何に絶望しているかをノートに書いて、それを自分で分析し、そのどの点が絶望的なのかを考えてください。世の中には、それと同じかそれよりひどい絶望的状況におかれながら、全く絶望を感じず希望を持って生きている人が必ずいます。それでは、自分がなぜそれに絶望を感じるのかを考えてください。結局、その絶望が主観的なものであること、幻想であることに気が付くでしょう。それによって、その絶望は消えます。心の問題は、自分で克服するしかありません。そのための智慧を獲得してください。

仏教の瞑想は、心を制御するテクニックでもあり、それによって、自己のネガティブな潜在意識・抑圧を解放することができます。仏教は、抽象的な哲学でも、盲目的な神の信仰でもなく、「智慧」を獲得ための修行です。
例えば、仏教の瞑想法による正しい呼吸法を体得することによって、自分の心を自分でコントロールすることができるようになります。

この回答への補足

>何に絶望するか、何に希望をもつかは、人の心しだい
>主観的なものであるということ
これはある種、その通りだと思います。
ただ、絶望の要因が外的要因であるのも確かです。
結局は内的要因だけでなく、外的要因もクリアせねばならないのではないか?というのが私の結論で御座います。

>絶望的な状況に身をおくことを愛している
これは病気だと思います。
というか、もはやそれは絶望ではないでしょう(笑)

↓回答の意味がよく理解できなかった為に、やや混乱した返答になってしまいましたが、未熟者の戯言と思い、御不快に感じた時は流して頂ければ幸いです。
何度もご返答して頂き、誠に有難う御座います。

補足日時:2006/03/26 18:43
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この回答へのお礼

メンタルカテではないのであえて細かくは書きませんが、己の罪により人を死なせてしまった、自分が生涯を掛けて守ってきた者に裏切られた、未来があまり残されていない、などです。
また、私の周囲にも己の過失によって人を死なせてしまった者、人生を狂わされた者、生きる望みがない者など、数多くの絶望を抱えた者がいます。

主観・幻想といいますが、今、日本国内において子供の4人に1人が虐待されているといわれています。
その内、食べる物がなく給食だけで飢えを凌いでる子供が何千人から何万人もいるといわれています。

まだ、日本に居るだけでマシでしょう。
海外ではご飯を食べる事もできず、生まれて直ぐ死ぬ子どもが何十万人から何百万人もいる国が、沢山あります。

彼らは絶望的ではないのでしょうか?
死によってでしか開放されない希望など、希望といえるのでしょうか?

私が知りたいのは、今絶望の状態にある者を、せめて心だけでも如何にして救えばよいか?です。
私は瞑想も、ヨーガも、太極拳もやりましたが、確かに「集中」による「智慧」は得られますが、それで全てが解決できるのなら苦労はしません。

ご回答有難う御座いました。

お礼日時:2006/03/26 17:49

再びNo.5です。


輪廻転生の概念は、チベット仏教が最初ではありません。

お釈迦様は、人生の全ての「苦」を解決するために、修行し、悟りを開いたのです。質問者様の絶望が本当で、解決したいのなら、お釈迦様の悟りの成果を、活用しない手はないでしょう。

輪廻転生は、お釈迦様以前(紀元前5世紀)からある考えでしたが、お釈迦様によって、それが確かであることが確認され、輪廻転生は、それから脱することができることが分かったのです。

お釈迦様の仏教は、神様のように仏を信仰したり現世利益を仏に祈願する大乗仏教とは異なります。日本の大乗仏教は、多くの神々を信仰し神々に現世利益を祈願する多神教のヒンズー教の影響を受けたのです。

お釈迦様の仏教は、普通の宗教とは違い、こころの科学です。「信仰心」はいりません。仏教の「瞑想」をすることによって、智慧が向上し、ものごとの道理が理解できるようになります。それによって、やがて、因果応報、輪廻転生も理解できるようになります。「絶望」が「幻想」であることが分かるようになるでしょう。

根本仏教(阿含経)講義のURLを添付しますので、ご参照下さい。

参考URL:http://www.j-theravada.net/kogi/index.html
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この回答へのお礼

できれば宗教的見地からではなく、現実的側面からお答え頂きたかったのですが、ご丁寧にお答え下さったご好意は大変感謝致します。

私も以前、様々な宗教に属しておりまして、私の祖父母が敬虔な仏教徒だった為、私も短い期間ではありましたが、数年の間仏教の教えに接する事が出来ました。

仰る通り、お釈迦様の登場以来、仏教の根本は生活の智慧であり、世俗の御利益や神仏崇拝とは違ったものだと存じております。
日本において、キリスト教の歴史が仏教に比べ浅いというのはありますが、それでも文化としてこれだけ仏教が受け入れられてきたのは、そうした背景があると思います。

私も、お釈迦様がこの世の苦に対して疑問を持ち、探求する様は非常に共感する部分があり、悟りも実に興味深く、個人的にも素晴しいものだと思います。

しかしながら、私は今の宗教に限界を感じておりまして、現実的側面からの救済が必要なのでは?と考えております。
そもそも輪廻転生自体が「概念」であって根拠となる「証拠」が乏しい為、「信じる事=希望」に近いのは確かではありますが、やや力不足が否めないと感じております。

またご指摘の通り、転生という概念自体は、仏教だけでなく古来宗教で様々な形で見られてきました。
お釈迦様もその旨の話をされたと言われております。
ただ、キリストと同じく彼の書物は弟子達が残したものであり、本人は否定も肯定もしなかったというのが私個人の認識であり、人間自身への輪廻転生を公式に声明したのがチベット仏教だったと記憶しておりますが、勉強不足は否めない為、lightgrid様の御紹介頂いたサイト共々、もう一度よく勉強させて頂きます。

また、↓のNo,5のご回答につきましては、宗教的見地からだった為に、あえてコメントを控えさせて頂いておりましたが、もし、御不快に思われた時はご容赦下さいませ。

長々と失礼致しました。
度重なるご回答のご慈愛とご熱意、大変有難う御座います。
どうかこれからも、迷える方を導いてあげて下さいませ。

お礼日時:2006/03/26 16:56

ポジティブに考えると「絶望に抵抗すること」が「希望」ではないでしょうか。


ネガティブに考えると「さらに深い絶望に落ちるための現実逃避」だと思います。
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この回答へのお礼

>「絶望に抵抗すること」が「希望」
ある意味そうだと思います。
しかし、万人が絶望に抵抗できる訳ではなく、では「虚無」に抵抗するにはどうしたらよいものかと考えておりまして…、なかなか難しいものです…。

>「さらに深い絶望に落ちるための現実逃避」
まさにその通りでして、これに如何に対処したら良いものかと…。

ご回答有難う御座います。

お礼日時:2006/03/26 15:39

 私はこれまで長い間、自分の人生において最も大事なもの、それは 「希望」 あるいは 「理想」 であると思っていました。

希望や理想を失った人生など何の意味もない、そこにはただ死があるのみと考えていました。
 確かにそれは間違いではない。しかし現実に自分が絶望のどん底に陥って、消えかかった希望や理想の光を必死に求めてあがいていた時、フトある歌を耳にして、いや人生において更に大事なものがあることに気がついたのです。
 その歌とは、平原綾香の “ジュピター” です。その中に次のような歌詞があります。
   『夢を失うよりも 悲しいことは 自分を信じて あげられないこと』

 どのような絶望の淵にあっても、自分自身だけは信じて生きよう、そして自分を見失わずにどこまでも生き続けよう、と気持ちを固めた時、もはやそこには絶望を超えた、すべてをあるがままに受け入れられる彼岸の世界が見えたのです。
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この回答へのお礼

仰る通り「信じる事=希望」に近いと私も思います。
しかし、悲しいかな「現実」とは、自らの間違いを痛烈な形で見せ付けるものです、それもまざまざと…。

私もかつてあなたのように、理想と希望に燃え、自らを信じ、死さえ恐れずに戦っていた時がありました。
しかし、自らが守ろうとし信じているものが、同時に重大な欠陥である「矛盾」を抱えている事に気付いた時、出口の見えない混沌という名の迷路に迷い込みました。

どうかその希望、絶やさずにいられる事を祈っております。
貴重な御意見、どうも有難う御座いました。

お礼日時:2006/03/26 08:02

「希望」とは、仏教に則していえば、「縁起の法」を理解し体得(智慧を獲得)することによって、得られます。

希望は、物事を正しく理解する智慧によって得られます。
例えば、人は、輪廻転生します。人生は現世だけではありません。現世で不幸なのは、現世での過去の行いや前世での行いに原因があります。それを理解することによって、現世での行いを改め、善行に努めることによって、現世や来世での人生を変えることができます。これが希望です。

「絶望」とは、仏教に則していえば、「縁起の法」を知らないときに(智慧の欠如によって)生じます。絶望は、欲望が満たされないことや、智慧がないことや、不如意からきます。絶望は、智慧の欠如(無明)から生じる幻想です。

お釈迦様の教えは、南伝仏教(上座部仏教)の根本仏教経典の「阿含経」(あごんきょう)にのみ記(しる)されています。お釈迦様の仏教は、仏陀になるための修行の勧めと、仏陀になるための修行方法とからなります。

お釈迦様の教えの重要なものには、「苦集滅道」と「縁起の法」があります。

お釈迦様は、人生は、「苦」(不満、不安、不安定という意味を含む)であると悟りました。
人生において、生きてゆく上での障害は、苦るしいと感じられる状況、自己のおかれている状況への不満、自己の現在の状況や将来への不安、現在の幸福がいつまでもつづくかないという不安定さ、です。
お釈迦様は、その原因は、苦の原因を「集」めているからだと悟りました。
お釈迦様は、それを解決するために、苦の原因を「滅」すればよいのだと悟りました。
お釈迦様は、そのための「道」(修行方法)がある、と悟りました。
これが、「苦集滅道」の悟りです。

例えば、「絶望」という状況は、「苦」の一種です。なぜ絶望するのでしょう。それは、「絶望」の原因を「集」めているからです。
それを解決するためには、絶望の原因を「滅」すれば(なくせば)よいのです。
それを滅する(なくす)には、仏教の修行をすればよいのです。
その修行は、瞑想を中心とした修行と、徳を積む修行からなります。

お釈迦様は、全ての物事(物、存在、状態、状況)は、因(原因)によって縁が生じて(すなわち因縁によって)物事が生じ(発生し、生起する)、因によって縁が生じて物事が存在し続け、因によって縁が生じて物事が滅し(消滅し)、因によって縁が生じて物事が無い状態であり続ける(不存在)と、悟られました。
これが、「縁起の法」です。
これは、全ての物事は、無常である、常なるものがなく、因縁によって変化するということです。
この縁起の法は、輪廻転生、因果応報になってもあらわれます。
人は、タンハー(人生への執着や欲望のエネルギー)が残っている限り、人は輪廻転生して何度でも生まれ変わります。この輪廻転生を脱した状態(因縁解脱した状態)が、仏陀です。

この縁起の法を理解すると、物事が、因縁によって展開していること(物事の道理)が理解できるようになります。
すると、自分勝手な欲望・執着・偏見(無明)で物事を見ることなく、自分を含めた周囲の物事の展開をありのままに(如実に)見ることができるようになります。
すると、人生に「苦」がなくなります。
縁起の法を体得すると、智慧が備わり、智慧で判断し行動することができるようになります。
縁起の法を体得すると、今まで正しく理解できなかった物事(道理)が正しく理解できるようになり、人格が高くなり、性格が改善され、霊性が高くなり、運命を変えることができ、最終的には仏陀になれます。

このようにして、人生の目的は、輪廻転生する(前世、現世、来世)中で自分の霊性を向上させることであることに気がつくようになります。
輪廻転生する必要がなくなると、それ以上輪廻転生しなくなり、仏陀になって、霊界でさらに修行し、娑婆世界で輪廻転生する人々を指導するようになり、さらなる霊性の向上に励むようになります。
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そうだと思います。



絶望の終わりで幸せの始まりは不確定性要素による「希望」の発見だと思いますよ。
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この回答へのお礼

しかし、だとするならば人間の営みとは何なのでしょうね。
「運命」なのか「運性」なのか、そんな不確定性要素に支配された人間を見てると、悲しくなる思いで御座います。

お礼日時:2006/03/26 07:37

以前の御質問は拝見していませんが難しいお尋ねで。


何ゆえ、そんなに悩まれているかは存じませんが、ちょっと一言。

>絶望とは本人の解決能力を遥かに超えた問題の提起である

その時点で、ですね?

>では「希望」とは?
残念ながら、今だ見えざる解決方法

その時点で、ですね?

「その人の能力を上回る課題、試練を天は与えぬ」とかなんとか、よく言われるみたいですが
絶望とは「その時点」でのものならば、「ただいま継続中、」ということになりますか。

『絶望とは死に至る病』
病もいろいろ。コロッと逝くのもあれば抱きかかえて幾十年。。。というのもあるし。
抱きかかえてウン十年の場合でしたら普通は医者や治療法を探すわけで。それすらも現時点での、でしょ?
そうこうしているうち命も尽きます。
「現時点」「現時点」を繰り返し更新し、繰り返し。。。
その過程こそが「人生」というふうにも言えましょう。

「希望」がゴールと限ったわけでもなかろうでしょうし。

自分自身「継続中」の身なんでホントのところは分かりかねますね。。。
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この回答へのお礼

残念ですが問題には「時間」というのがあります。
また、失敗してからでしか気づけない事がありまが、失敗してから気付くのでは遅い(取り返しの付かない)失敗もあるわけです。

失敗してもやり直せばいいと簡単に世俗は言いますが、そもそもやり直しの効かない失敗があるからこそ、人現は失敗を恐れるのです。

また、絶望の種類も「問題の提起=死」に近いものがあります。
これらは未然に防ぐ事でしか、恐らく解決できないでしょう。

そもそも、これらに解決方法はあるのか?というのが私の所論で御座います。
ご回答有難う御座いました。参考にさせて頂きます。

お礼日時:2006/03/26 07:30

私にとっての希望とは、自分が永遠の霊としての輪廻転生の中で、苦痛の存在しない至福の次元まで進化向上出来るということです。


勿論全ての人にこの法則は開かれています。
全ての人は、苦しみの一切存在しない、いわば悟り(聖なる)境涯に達することができます。

そこに到達するまで、自ら「原因と結果の法則」(因果応報の法則)によって引き寄せてしまった結果を噛み締め、それがもし苦痛であるならば、辛い思いをするのだと思います。
結果を引き寄せた原因とその作用の仕組みが理解できるまで、何度も繰り返し繰り返し、失敗しながら学んでいくのだと思います。

そして終に、全ての原因が自分から引き起こされていることを発見するときに、全ての苦しみと恨みと絶望から解放されるのだと思います。

私にとって絶望とは、「因果応報の法則」を理解できないことであり、人生がこの一度きりだと誤解することです。

人生に繰り返しが無く、たった一度きりと思ったとき、全ての苦は不運となり、不運から世の中に対する恨みが生じるのだと思います。

「因果応報の法則」を理解するとき、他者に対する慈しみと愛は、実は自分への慈しみと愛に等しいこと、又、他者への怒り、恨みは実は自分への怒り、恨みに等しいことを悟るのだと思います。

ですから、苦から脱する方法は、唯一、自分から他者へ放射される感情を、コントロールすることだと思います。自分の為に。
悪魔のささやきには耳を貸さないことです。
出来るだけ、自分の感情からネガティブなものを排除するとき、やがて人生から苦が減っていくと思います。
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この回答へのお礼

できれば宗教概念ではなく、現実路線でお願いしたかったのですが、信者の方にとってはそれが現実だというのは良く分かります。
私も以前は探求の為に、宗教に身を置いていた事がありますので。

しかしながら、輪廻転生というが概念は16世紀頃チベット仏教で誕生したと言われ、お世継ぎに前教祖と同じカリスマ性を持たせる為に発案されたといわれております。

また、因果応報にしても自分で招いた種も確かにありますが、本人の因果には関係なくふってわいた「理不尽」「不条理」というのがあります。
例えば、飢餓・戦争など、生まれたばかりの赤子に一体何の因果がありましょうか?
もはや「運」といか言いようがありませぬ。
明らかに本人の解決能力を越えています。

これらを「因果応報」と受け入れるには、私はあまりに世俗過ぎたのかも知れません。
慈愛ある御意見、有難う御座います。

お礼日時:2006/03/26 07:10

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