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18歳男です。
僕は当然、宗教はあっていいと思います。しかし、ひとつ解らないことがあるんです。
それは題目やお経など、あれはなんで言ったほうがいいんですか?
さまざまな宗教があるからそれぞれの答えがあるのだと思うんですけど。
僕の家の宗教観で言うと、題目を唱えると宇宙のリズムに乗れるからだ。といっているのですが、全く意味が解りません^^;人間の空想を綺麗ごとのように並べただけじゃないですか?
なぜ題目やお経を唱えなければならないのか、それが解らなければ宗教を信じれないんです。というかなぜの部分の答えは人間の空想ですよね??
だから僕は現段階で無宗派で生きたいと思っております。

A 回答 (12件中1~10件)

そのての話をすると、「信じる」ということ自体が人間の空想だと思いますが。



さて題目を唱える理由ですが、人間の宗教(広い意味の宗教です)はいろいろなものがありながらも類似している部分がいっぱいあります。
大多数の宗教にあるものは
・敬うべき対象物や場所(寺・神社・教会)がある
・経典・聖典がある
・祈りのポーズがある
・題目を声に出して唱える
どうでしょう。つまり人間はこのようなことをしないと、どんな宗教でも自分が信じている気になれないのですね。

特に声を出すことは、宗教だけでなくいろいろな人間関係でも良く使われるものです。
たとえば乾杯、必ず誰かが音頭をとってみんなで「カンパイ!」と唱和してから飲み干します。これもいろんな国で行われています。
これは体と心の調和を生み出すために「声」をそろえるという、人間の根幹的な発想から来ているものなのです。
ですので宗教で「声」を出して題目を読むのは、神(もしくは仏など)に何かをささげたり、神と約束した文書(聖典)などを声を上げて読むことで、神と語り合ったり、神から何かパワーをもらうということなのです。神と自分が調和するために行うということです。
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お経を唱えることは、お経の中に書かれた理想に近づきたいという思いがあるからです。


日々を暮らす中で、人は喜怒哀楽の渦からは逃れられませんが、そういった問題と対決しようとすること自体が無意味である、とお経は書いているのだと思います。
それよりは、本当に自分が大切にしたいものを大切にできることのほうが重要なのだということです。
それは、お経を読む・読まないに関わらず、生きてゆくうえで重要なことだと思います。
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私も無宗教派でしたが、ある事情で、ほぼ毎日般若心経を唱えていました。


唱えたくて唱えたわけではなく、状況として仕方なくという感じです。
最初は、「らしくない」と思って、きまりが悪かったです。
ところが、唱えた結果、唱える前とは明らかに何かが変わりました。
何かの宗教団体に入信したわけではありません。個人的にです。

唱える目的や、その人その人の価値観によって、結果も違うと思います。


<それは題目やお経など、あれはなんで言ったほうがいいんですか?

内面に変化が起こり、それが結果として「良かった」ということにつながるということでしょうか。
反対に唱えるんじゃなかったという感想を持つ人もいるそうです。

<だから僕は現段階で無宗派で生きたいと思っております。

そんなに決め付けなくても、まず自分で期間を決めて、唱えてみてはどうですか?
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昔、クリシュナムルティという人の本で読んだのですが、


お題目の代わりにコカコーラと唱えても、結局同じ効果があるそうです。

私は試してみましたが、言い続けていると心がすっきりしたりする点は同じだと思いました。
私は、それはランナーズハイと同じ現象ではないかと思っています。

単純なことを繰り返していると、苦痛を感じ、やめたくなりますが、
それを乗り越えると、心が観念して、静かになります。
それはメカニズムであって、神や仏は介在していないかもしれませんが、
騒々しい日常の中で自分と向き合い、落ち着きを取り戻す効果はあるかもしれません。
むりにでも時間を設けないと、そんな時間ってなかなか取れないですから。

また、何かを唱え続けることは、深く呼吸することになるので、
脳内に酸化ヘモグロビンが増えて脳の活動性が高まったりするのかなとも思います。

また、別の話ですが、私は無宗教ですからお題目は唱えませんが、
霊感は強いのです。
で、やっかいな霊に遭遇したとき、
南無阿弥陀仏や何妙法蓮華経といくら唱えても、
何も起きませんでした。

なので、お題目の特別の効果というのには、少々懐疑的です。
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お経(教え)は「府」に落としてこそ魂の糧となります、そのためには意味が分からなければなりません


意味が分からずにただ読んでもそこから悟り(=智慧)は生まれてきません

ただし言霊(ことだま)でつづられた経文は読むだけでもある程度の功徳はあります、また加持祈祷の呪文のなかにもそういう力が備わった言葉もあります。しかし現存するお経はどれも弟子が作成しさらに中国語に翻訳されてさらに書き下し読みするため言霊の力は???です

題目はたしかに意味はありません、「法華経に帰依します」と何回唱えたところで智慧は生まれません。智慧を得ることが修行の目的であり人生の目的です。そもそも法華経=らっきょう説(皮をいくらむいても中身がでてこない)を説いたかつての仏教者もいるくらいです。宇宙のリズム論は誤った宗教のエクスキューズ、ボワンと意味不明にすることで知性を封印して「何となく」納得させる常套手段。中身に自信があればそのようなことはいいません

また大乗非仏説、阿含教典優位をとなえる方もいますが、確かに初期の仏陀の言行録としては大乗教典よりも史料的に価値があるでしょう。だからといって日本の新宗教で阿含教典こそが本物だ、と説いているところはいただけません。なぜならそこの本を書いているのはマスコミ関係の仕事をしている私の友人の知り合いの人、つまりゴーストライターだからです
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題目には本当は意味がなくてもいいです。



ただ、同じ言葉を繰り返し言う事に宗教的な意味があります。

実験的に立証されてますが、
同じ言葉を繰り返し言うと、脳の状態が座禅をしているときと同じになるんです。

ただ、座禅ではなかなか雑念が振り払えないのに対して、念仏は単調ではありますが、いろいろ考えなくて済むので簡単なんです。

あと、眠れないときに羊が一匹・羊が二匹と数えれば眠りやすいというのがありますが、念仏を唱えるのは本質ではこれに似てると思いますね。
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少なくとも内容的に意味のあるお経でしたら、唱えるのは、意味があると思います。


例えば、仏教の「空」の悟りは、仏教特有のものですが、人は、動物的欲望に左右され、なかなか「空」の智慧に基づいて行動することができません。わかっちゃいるけどやめられないのです。それによって、人生に困難を感じるのです。
ですから、例えば、般若心経を唱えることによって、人生や現象が「空」であることを、自分に言い聞かせることができ、少しでもそれを智慧としてより良く生きることができると思います。

お題目や念仏は、内容を伴わないので、それだけでは、あまり意味がないと思います。もちろん、お題目や念仏を唱えること自体は、非仏教である日本大乗仏教の一部の宗派のものであって、本来の釈迦の仏教(南伝仏教)とは関係ありません。

ただし、マントラ(真言)の中には、瞑想において、霊性の開発にとって意味があるものがあるようです。それは、チャクラの開発と関係があります。この点については、瞑想を深く勉強しないと理解できないでしょう。お釈迦様の仏教の瞑想の方法は、阿含経典(あごんきょうてん、アーガマ)で説かれています。
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私は、日蓮宗の日蓮正宗を信仰している者です。


ので、題目は「南無妙法蓮華経」として答えさせていただきますね。

意味として答えるなら、No5さんと言いたいことは同じです。
 人には、「意識」と「無意識」があります。人は、「意識」内において理解すれば解るということになります。さらに意識内において実感することができれば確信ということになります。
 無意識内でその意味が解っているのです。意識できないが、無意識内ではそれが解っていて、何度も繰り返し唱えることで自分自身が成長するということです。

まあより、深く考えていけば、結果的に宇宙のリズムに乗るということは間違いではないかもしれませんね。


>それが解らなければ宗教を信じれないんです。
質問者さんの解るという定義は解りませんが、「理解する」だけでは到底信じ切れませんよ。「実感」をして信じられるようになるのですから。
 自分の無意識内でそれを信じるだけの力があれば信じることができるかもしれませんけど。

信じるということは、自信はないが、信用してみようということですから。


>なぜの部分の答えは人間の空想ですよね
そう感じない人にとってはそういうことになるでしょうね。
 空想ではなく、絶対とするならば、自分で見るなどをして感じなければなりません。人から聞いただけでは、「騙されているかもしれない」と思う限り、相手のいうことは絶対ではなく、空想という可能性が残ります。宇宙人を見たという人から聞いても信じきれないでしょう。世間一般でないことは信じるのは簡単なことではないのです。
 だからこそ、信じるのがとてつもなく大変なことなんですけどね。

以上、参考になれば幸いです。

参考までに、「天台宗」と「日蓮宗」の「南無妙法蓮華経」は違いますから。
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煩悩というものは神経伝達物質のレベルで発生していて脳細胞はその影響を受けていません。


したがって煩悩と言う地獄の業火に焼かれた意識と違って健康な無意識と脳細胞は誰でも本人が思うよりはるかに頭がいいです。
したがって難しく無意味にすら思えるお経の類も無意識レベルでは完全に理解できています。
この手のありがたいお経を沢山聞くと本人には理解できなくても心の成長には確実に役立ちます。
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経とは仏陀の説法の記録のことです


実際は釈迦時代には文字による記録はなかったため日本に伝来したお経は釈迦入滅後5,600年後に弟子により作成されたものの漢訳です
普通の日本人には理解が難しい文章でありますが田舎の年配者の中には「呪文」としてありがたがっているケースも時折見受けられます
人々を魅了した説法であるから海を越え山を越え伝わってきたのですがそれをリズムとか韻とかのレベルでしか解釈しないのはいかがなものでしょうか?それだけ形骸化しているということでしょう
題目を唱えることについて、当然ながら仏陀は全くそのような教えは説いておりません。一生が修行、あの世でも修行この世でも修行、永遠に修行というのが仏教の考えですからお経の名前を唱えれば救われるとか宇宙のリズム云々いうのは仏教的にはありえない思想です

ですからhidetarouさんの「信じられない」という考えももっともであります、題目を唱えたり漢文を棒読みするのが宗教ではありませんから

宗教とはたとえていえば北極星のようなものです。大海を旅する船や砂漠を旅する人々に進むべき方向を指し示します。人にはそれぞれ個性があり生きる道は一人一人違えどもこの方向に進んでいけば道を間違わない、つまり、自分も幸せになりみんなが仲良くやっていける、という方向を指し示すものです

家の宗派はさておき、本来の宗教はもっと深くもっと本質的・根源的でもっと身近でそこにあるものだ、といことを知っていただければ幸いです
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