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日本側はもちろん、中国側の指揮者も陸軍士官学校のOB,蒋介石であった。
一つ例をあげれば、華北、山西省の戦争。山西省の実力者、閻錫山氏は1904年ごろ日本士官学校に入学(卒業?)したそうだ。同じ頃、留学生たちの世話役を担当したのは先輩の板垣征四郎であり、後に山西侵攻の責任者でもあった。

同じ学校の先輩、後輩の戦い、と思うと、面白い。同じ教官の教えを同じ戦場で実習する気分?戦う前に「よろしく」などの挨拶でもした?

A 回答 (4件)

大正8年以降陸大は毎年のように支那の学生をとってます。

熊式輝なんかも卒業生の一人で、数少ない日本の陸大卒業生ということで重用されたとか。陸士の留日組にいたっては数え切れません。
これは自然な流れで、日支ともに特別遠大な計画があったわけではないでしょう。

山西省ではかなりの”馴れ合い”が第一軍と閻錫山の間であったようです。
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陸士卒業では大尉どまりで、大隊長クラスです。


優秀(中身は別として)と思われた人が陸軍大学に進み高等教育をうけます。
陸士卒業後直ちに陸大へ進む例もあったかも知りませんが、大体は暫く軍務につき選抜されたようです。
戦時では軍功が重視されました。

大体隔離された環境で軍事教育専門ですから特殊なエリートになってしまい勝ちです。

この点が海軍と違った所だと思います。

陳儀将軍はかなり複雑な性格でどうして陸大に入学、卒業できたのかわかりませんがやはり親日シンパ養成の狙いがあったとしかかんがえられません。
彼の業績をみると陸大で何を学んだか疑問で、おそらく見学に終始したのでは。
陸大卒にもピンからキリまであります。

軍の行動には準備があり、何らかの予兆を覚られるものです。 まして中国では敵地で諜報システムの中であればよほどの注意がなければ察知されたでしょう。
日本軍の夜襲はかなり騒々しく、アメリカ軍の音響探知機で事前に探知出来たといいますから、中国戦線でも同様だったのでは。
川中島合戦で、武田軍の海津城の炊煙が非常におおくなったのを見て謙信はその出陣を見抜き、逆に全軍を率い信玄の本陣を急襲したといいます。

軍の指揮官は自分および部下の生死を常にあずかる立場です。
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同じ教鞭を聞いてますから、どうも作戦がばればれになってたと言うのが実情です。


っていうか、教えられたことをきちんと覚えるたらいい点が貰える日本式の教育ですから、相手に読まれてしまうわけですね。
ですから、中国側も今夜は夜襲してくるぞとか、今日は攻撃はないとかわかったようです。
その裏をかくほどの大胆な指揮官や参謀が日本にはいなかったようですよ。
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確かにそういう見方もできるかもしれませんが、彼らを士官学校に招聘したのは親日家を育てるという別の目的があったのです。



軍事は機密のかたまりです。
その重要なポイントは決して教えていない筈です。
その証拠に、彼らの学んだのは士官学校という下級将校の養成機関で陸軍大学校ではありません。

おそらく教える内容も慎重に選択した筈です。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとう!

ただし、陸軍大学に入った中国留学生もいた。戦後台湾の行政長官、陳儀氏はその一人。

お礼日時:2006/05/11 16:41

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