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正成の死は後醍醐天皇の不明に因るにあらず、時の勢に因るものなり。
正成は尊氏と戦いて死したるにあらず、時勢に敵して敗したるものなり。

これは福沢諭吉の作品から抜き出した一文なのですが、歴史があまり詳しくないので、イマイチ理解できません。時勢とはいったい何なのでしょうか?どなたか歴史に詳しくない私にもわかるように教えていただけないでしょうか?よろしくお願いします。

A 回答 (2件)

歴史にくわしい者ではありませんが、楠木正成についての読みやすいサイトがあったので、ご紹介します。



記事によると、正成自身、 「時勢」 が後醍醐天皇による親政(建武新政)ではなく足利尊氏の武家政権にあることを理解していて、尊氏との和睦を進言したそうです。それが容れられなかったため、敗れることがわかっていながら尊氏と戦い、天皇への忠義に殉じたということのようです。

福沢諭吉についても言及されていました。くわしいことは何も書いてありませんでしたが、どうも福沢が正成の死を 「犬死」 と評したようです。

参考URL:http://www9.wind.ne.jp/fujin/rekisi/nanboku/kusu …
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この回答へのお礼

回答ありがとうございました。

お礼日時:2006/05/22 20:15

 楠木正成は南北朝時代、南朝方となる後醍醐天皇に仕えた部将です。


 で、一時期後醍醐帝は政権を把握しますが(建武の親政)、九州方面からやってきた足利尊氏(後に室町幕府を作り、北朝を擁することになる)が京都に攻めのぼってきます(1回は撃退に成功しています)。
 建武の親政は武士階級にとっては恩賞の偏重などから不満の残る内容だったので、戦を実地にする武士階級は足利方に回り、後醍醐帝方は非常に不利に立たされます。

 で、決戦前に楠木は、和睦案や、足利軍にワザと京都を占領させる一種の焼土作戦を提案しますが、これを後醍醐帝(と、とりまきの御公家さん)が却下し、無謀な迎撃戦を命じます。この結果、湊川合戦が発生し、楠木一党は奮戦の後自害して果てます。

 つまり、「不明」とは無謀な命令、時勢とは足利優勢になっていることを指します。

 で、重要なのは、このシーン、「太平記」の講談や芝居で特に有名な場面でして、当時の民衆はみんな知っていたわけです。
 天才部将が負けることは分かりきって居るんだけど(十数万VS.数百騎ですから)、主君の命令だから従わざるを得ず、しかも従えば主君は亡びるが、やっぱり従わざるを得ないという、まあ、苦悩に満ちた場面(と爽やかな散る覚悟)が大うけするわけです。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございました。

お礼日時:2006/05/22 20:15

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