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仏教の世界では生き物を殺してはいけないというのは当たり前としている、ということはわかるのですが

この前、蜘蛛の巣に絡まった生き物を助けたことがあったのですが、この場合、仏教の世界では助けるべきなのか助けずに傍観するほうがよいのかよくわかりません。

というのも
助けた場合、助けられた生き物は死なずにすみますが、逆に蜘蛛にとっては、捕まえた虫を逃すというのは死活問題になりますから、逆に間接的に蜘蛛を殺生(殺生にならなくても、いじめた)ことになるのでしょうか?

A 回答 (7件)

お釈迦様の前世物語(仏典寓話?)に似たようなお話があったと思います。


鷹に追われていた鳩をかくまったら、鷹に鳩は助けて私は飢え死んでもいいのかと責められ、鳩と同じ重さの肉を与えるため自らの命を投げ出した王様の話だったと思います。
読まれることをおすすめしたい所なのですが、申し訳ありません。タイトル等は覚えていません。ご勘弁を。
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仏教のことはよくわかりませんが、


殺生についてはずっと考察しておりますので一つ言わせてください。
生きている他者を食べなければ生きていけないという
現実はとても残酷なものです。
これを回避できるのはたぶん人間の知恵だけだと思います。
遠い将来になるでしょうけど、
人間はあらゆる人間を含め生物の脳をコントロールして
すべての殺生から命を開放するだろうと思います。
そのためにはあらゆる命が必要とする食料の
命に依存しない生産と脳をコントロールする
ナノテクが必要だと思います。
これは作為ではなく自然の延長だと感じています。
このテクノロジーが得現実になり地球がその
想いにつつまれたとき、もしかしたら
釈迦の心に去来した殺生を思う想いが花になった瞬間なのかもしれません。
釈迦がそこまで望んでいなかったとしたら
釈迦も凡夫にすぎないということでしょう。
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正確に言えば「無益な殺生はいけない」です。


植物も生き物です。それを殺すな、食べるな、と言われると
人間は死ぬしかありません。

人間は他の生き物の命をもらって生かされてます。
食べるために他の生き物を殺すことは許されます。
ただその許容範囲は宗派によって違いますが・・・

上記は全ての生き物に共通した考えだと思います。
人間以外は守っている事だと思います。

自然界においては例外である人間の介在は良くない
とも考えますが、人間も自然の一部であると考えると
問題ないのかもしれません。

質問の蜘蛛の立場から考えれば、自分の餌を
奪ったあなたを恨んでもしかたがありませんね。
巨大蜘蛛になってあなたを食べにきても
あなたは文句は言えないですね。

まぁそんな事は無いでしょうが、因果応報の考え方
からすれば、他人の食べ物を盗んだ人は、他人から
食べ物を盗まれる って事ですかね。

すでに、そんな事がおきていませんか?
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たとえ話になりますが「弱肉強食」について考えてみました。

欧米生まれの考え方ですが、そもそもは自然界は弱肉強食がまかり通るが、神によって創造された人間は社会性を持って別のルールを作っていると言った意味合いです。弱肉強食をもって人間界のルールに適用したような引用をする本を見かけることもありますが、これは中学生でも知っている本来の意味を忘れたお馬鹿さんです。
それから現代の欧米人に弱肉強食について聞いてみると、たぶん否定的でしょう。
自然とは雄大で神々しいものだなどと言うと思います。
東洋的は発想で自然界について語ると多分、調和と循環(輪廻)の話になると思います。

ご質問の虫を助けたことですが、人間のみが感じる感傷です。
やさしさゆえですから自然界の調和を乱したとしても罪の意識を持つ必要はありません。

またしても話が飛びますが、子供の頃「ウンチ」はバイ菌がいっぱいで汚いものだと教えられたと思います。
当方はウンチとは腸内の共生細菌のコロニーで尊い物だと思います。なぜなら細菌のコロニーたるウンチを毎日出産することで、生きるために他の生物の命を奪っていると言う現実が、調和と輪廻のサイクルに組み込まれたものだと自覚できるからです。
これは近代以降の科学の発達ゆえに自覚できることで人間の英知はお釈迦様の時代より進歩しています。
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こんにちは



殺生の教えは、心において非暴力、つまり嫌悪、邪悪心を持たないという意味あいだったと思います。
ちなみに、私は無宗教ですが。
(ただ、仏教的本を読んだ程度の知識です。)

で、蜘蛛からしてみれば、ただ、餌となる虫を逃がされた、つまり、食べられなかった(殺す)だけで、間接的には、また別の虫が、獲物になって食べられるでしょうから、"間接的に蜘蛛を殺生"したことにはならないと思うのですが。

逆に虫を助けたことで、小さな善行を行ったのではと思います、特に心において。理由は単純、小さな虫と言えども殺さない(助けた)、優しい心を実践したのですから。
以上、私の意見でした。
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質問の答えとしては、蜘蛛を殺したことに、なります。


仏教説話に、動物は違いますが、同じような話が出てきます。
では、虫を見殺しにすることはどうかというと、どうやら、同じく殺したことになるようなのです。
ではどうすればいいのか?
そこに答えはないようです。
というか、答えがないことを自覚させることが、仏教の目的のようです。
ひとつの真理として、この世は苦の娑婆。
本来してはいけない「殺生」を、せずに生きてはいられない恐ろしい世界である。
これを理解させることが仏教の目的であると思われます。
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何か蜘蛛の例え話が有ったと思いますが、、、



 仏教の教えは現世の貧民救済が主ですから、自然界のバランスを人の手で崩すのはご法度です。
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