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歴史の本などを見ると本能寺の変以後 山崎の戦、柴田勝家との戦いをえて
秀吉に政権が行きましたが疑問があります。なぜ織田家に跡継ぎ(名目だけのさんぼうし)がいるのに織田政権が続ずにあっさり秀吉の政権に行ったのですか。形だけでも秀吉は織田の家臣なのにさんぼうしが生きてる間もさんぼうしより高い地位にいました。(信孝との戦いはありましたが、彼は織田家の跡継ぎではありません)そりゃあ家臣が主人を裏切って殺したらそうなるかもしれませんが、秀吉はさんぼうしを殺したわけではありません。歴史の本では秀吉VSさんぼうしの戦いもないのにあまりにもあっさりと秀吉に政権が行ったので疑問です。

A 回答 (8件)

秀吉が織田家中で実権を握れたのは、明智光秀を討ったこと、


三法師を抱えた事。この2つです。
もしもこれが無ければ、清洲会議の主導権も取られる事無く、
柴田・滝川の諸将も秀吉の言葉に敢然とつき返していたでしょう。

この時点で秀吉の織田家政権の実権を得ることが出来るのです。

この後、信雄・家康連合を小牧長久手で勝利し、
織田家中、同盟国である徳川も従えた秀吉は完全に信長の後継者に。

この後、世の中の趨勢は織田家よりも秀吉個人に傾く。
その証拠に朝廷が秀吉の存在を認める。
翌年、関白に就任し、長宗我部氏、佐々氏を降伏。
この背景には黒田孝高などの暗躍があったとも思うが。
だからこそ天下人になった秀吉は最大の片腕の黒田の
力を恐れて南に追いやったと言われている。

秀吉の場合は、あだ討ちをしたことと三法師を抱えて
清洲会議を支配した事が何よりの勝因。
出自の問題もあり大衆受けが良かったことが、時の流れを得る結果に。
更に家康と仲が良かった事もその要因。
家中に敵も多かったが仲の良い者も居たこと。前田・丹羽など。

途中から天下人になる流れは秀吉の配下の人間が動いた可能性が
高いと私は推測しているが…
織田家は柴田・滝川が失墜したためにその勢いを失ったことによって
時勢の波に乗れなかったため、秀吉の後塵に帰す事になったと思う。
数歳の三法師を頭首とし場合は、配下が団結しなければ、
上手くまとまらないのは必然。更に世の動きは、戦国時代の早期終結を
願う風潮もあり自然と秀吉に、信長の後継を願う気風があったことも原因だと思う。

どんな時代でも庶民の世論は意外と絶大的な効果を持っているのかも。
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主家よりも実力が上で、実質的に政治権限を有しており、さらに他の大名衆がその状態を追認すればそちらが頭になる(変わる)のは、実力主義世界では当然のことです。

公儀が信長から秀吉に変わったのです。
もっとも、信長は天下平定の途上でして、所詮一大名の域はでていません。その点では公儀というのは不適切でしょうかね・・・まあ、ここでは使わせていただきますが。
天下平定は、天下人秀吉の代まで待たなければなりませんでした。

つまり、織田家の権威は、政治能力を有していない三法師が跡目となったために政治機能を喪失、また、信孝自害などで権威も失墜した上、柴田という巨星が滅んだとなれば織田家にはもはや信長の領地、力、そして家臣を維持するだけの能力はありません。
それを有していた織田家臣は秀吉です(後見人ということは、その人の変わりに家の実権を握るということ。つまり実権が織田から羽柴に移ったことになります)。そして、諸将も秀吉が公儀であると認めたのです。
これを「のっとり」とも言いますが・・・まあ、この変化をそういうふうに言う人はあまりいませんね。

しかし、ほとんどの諸兵はその状態を追認(つまり実質的な秀吉家臣化)してはいるものの、天下を黙らせるにはもう一押し必要でした。それが家康を降伏させることであり、念のための関白就任です。


徳川幕府の成立も同様。1598年に秀吉が死亡すると、諸大名は家康を公儀と見始めます。それまでは(形式的だろうがなんだろうが)一応は秀吉政権の家臣となっていた家々が、そろって家康が公儀であると見始めたのです。
しかし、いまだ家康を公儀と認めない大名(信長と秀吉で考えれば柴田のようなもの)が各所にいました。それを従えるためにも、家康は関ヶ原を起こす必要があったのです。
そして、その後の征夷大将軍就任で、名実ともに公儀となったのです。

実力と立ち位置がうまければ主家を差し置いて自身が主導権を取れて、かつ家臣は主導権を持つ人を追認するのが当たり前。実力主義社会とはそういうものです。
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さんぽうし=三法師です。



あの~、私の方こそ貴方の質問文に疑問です。そもそも、信長は統一などしてはおらず政権をとっていたわけではありません。ですから、有力大名ではあったでしょうが「織田政権」という表現自体間違っています。

また文中に「三法師よりも高い位」とありますが、当時の朝廷から出された官位が上であったという事です。

それに、あっさり秀吉に政権がわたったなんて書いてますけど、信長の没後織田家の影響力が失墜し形式上は「三法師の後見人」の立場等もあり、朝廷での最高位である関白となって、全国統一へと進んでいったわけです。別に織田家を滅ぼさずとも、関白である秀吉に織田家が従えば済む話です。

学習漫画で良いですから、日本史を熟読なさってはどうです?
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信長はある時点より朝廷から官位を受けず、新しい形の実力による統治(天下布武)を目指していました。

従来は藤原家・平氏は関白太政大臣として、源氏は征夷大将軍と言う朝廷よりの官位を受けて、実質上の統治を行いましたので、「継承」が行われたのですが、秀吉は太政大臣という最高の官位を受けたので、実力の無くなった織田家を滅ぼす事無く天下を簒奪できました。
徳川は征夷大将軍を受けて幕府を開きましたが、形式上は豊臣家も高位の官位を持っていたため、将来の紛糾を恐れて豊臣家を根絶やしにしました。
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権威と実力が伴わない人間はどうしようも無かったのでしょう。


織田信長も、主君の斯波義銀を利用して三河の吉良、駿河の今川と盟約を結び、傀儡として尾張の平定に大いに利用しますが、やがて斯波氏が信長のコントロールを離れようとすると追放してしまいます。
斯波氏は織田家歴代の主君で、このときは尾張の守護(斯波義銀)を、家老家の隠居(織田信長)が追放した形で、時代劇ではこの後水戸の黄門様が出てきて筋目を正しますけど、この時代は実力も無い主君がやり手の家臣に追放されたのは自業自得と、皆納得しました。
因みに、織田家の当主は織田信忠(信長嫡男)ですね。
歴史の本ではこのあたりがあっさりと書かれていますから、織田家も今度はわが身になっただけで、その後は豊臣家も同様の運命を辿ります。
実力の無いものは去るのが当たり前の世の中だったのです。
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漢字をミスりました。


三法氏でなく三法師でした。
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関白になって公の位で三法氏を上回ったからだと思います。



小牧・長久手の戦いの頃は秀吉はまだ武将間では絶対優位ではなかったそうです。
家康の本拠地を叩くという作戦も秀吉は乗り気でなかったのですが、強硬論を唱える池田恒興に押され、やむなく許可をしたらしいです。

実力だけでは先輩格の武将にも頭が上がりません。
そこで関白になって名実ともに天下人になれば、元主君の孫であれ、先輩武将であれ頭が上がらなくなります。
なぜなら関白は天子様から政を預かる公の役職だからです。

なお、家康も秀頼の家臣という立場ながら、実力をつけた後、同様に将軍という名目を得て天下人になりましたね。
実力だけでは色々としがらみがあって周りがなかなか従おうとしない。
そこで両人とも天皇の権威を借りて有無を言わさず政を支配しようとしたのでしょう。
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本能寺後、清洲会議によって三法師が織田家の跡継ぎとなりましたが、織田家の有力武将は事実上、独立した状態にありました。


秀吉は三法師の後見人だった信孝を切腹させ、次に後見人となった信雄とも、小牧の陣で戦います。実力では一番の秀吉ですが、織田家と戦った以上、織田家の権威には頼れません。そこで、朝廷の権威を利用することにしました。秀吉が強引に関白になったのは、織田家と関係なく政権を取るためです。
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