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哲学では、本当は素人丸出しなのになぜか「専門家」を自称する人ががたくさん見受けられますが、一体どうしてそうなるんでしょうか。別に冗談のつもりでもなさそうですし。このサイトでも実際すごいですよね…。
スポーツでも楽器でも、ちょっとその道に足を踏み入れた人は、プロのすごさっていうのはすぐわかりますし、それが目標や励みにもなったりします。つまり自分のポジションは自分でわかるものだと思うんですが、哲学だとどうして素人のくせに奥義をきわめたような気になりやすいんでしょうか。そういう心理についてはなにか定説のようなものがありますか。

A 回答 (9件)

哲学は「自分の頭で考える」事を是とする学問です。


そして、誰だって自分の事は平均より頭がイイと思っています。
更に、自分の脳内で完結している理論は完璧です(他者の検証を経ていないから=自分で思いついた質問しか反論しないで済みますから)
こんな人は簡単に真理に到達してると思い込むでしょうね。

あるいは、話題になった哲学書(と言うか入門書や解説書)を読んで「あ、これオレも考えた事あるよ!オレって哲学者並み?」とか考える人も、簡単に哲学の奥義を悟ったと思う可能性があります。

これらの人が共通して陥りやすい感覚は「根拠無き全能感」です。小児的な発想ですが、本人は決して気が付きません。(しかも哲学は一応「高尚な」学問ですからね。それを好む自分って「頭イイ!エリート!学校では暗記だけが得意な奴がオレより成績良いけど、会社では同期入社のゴマすり上手の方が先に出世してるけど、でもオレの方が頭イイィィィィ」って思ってるのです。)

他の芸事なら傍目に優劣がすぐ判明しますし、学校の成績なら点数という客観的な判断基準が付いて回りますが、哲学(しかも脳内の)には誰も優劣を付けようがありません。ですので、常に自らが頂点なのです。
そんな人は「一般人?フン!オレ様を誰だと思ってんの?経験者?まだまだァ!専門家?うーん、これ以上の位は無いからこれで良いかな?」
といった心理状態じゃないかと思います。

勿論、100年に一度の天才が専門家を名乗って回答している可能性もありますが、書いている内容を見れば真偽の程は明らかではありませんか。(もしかしたら私たちが凡人なので理解できないだけかも知れませんが)

参考になれば幸いです。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
「根拠なき全能感」という言葉はそのものズバリですね。そういう人は自分の書きたいことを書ける質問しか回答しないですし。哲学がプライドのよりどころになるんでしょうかね。
自分の至らなさを実感するのが学問というものだと思うんですが、優劣のはっきりしない哲学はそういう人たちにとってうってつけなんでしょうか。

お礼日時:2006/08/17 21:17

おまりにも稚拙なのでスルーしようと思いましたが、一応参考までに・・・


僕は専門家(自称)というのはプロではなく勉強によって得た知識に共感し、表現したい欲求に駆られた人だと思っています。
自然、自分の意見ではないので、変な自信が出て奥義を極めたような気になるのではないでしょうか?
要は知識があるけど実戦出来ない人たちです。
人間は本能的に自己顕示欲があるのです。
ですので、質問者さんももう少し許容を持って世の中に接した方が良いと思います。
表現の仕方はもっと色々ありますよ・・・
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この回答へのお礼

確かに誰だって自己顕示欲はあると思いますが。だからといってみんなが専門家を自称するわけじゃありません。ごく一部の人だと思います。
>知識があるけど実戦出来ない人たち
質問したのは、明らかに知識がない人たちについて聞いたつもりですが。
>もう少し許容を持って世の中に接した方が良い
できればこの質問を許容してもらえませんか

お礼日時:2006/08/22 21:05

専門家・一般人・経験者と回答する際に回答に対する回答者の自信によって、選択されるチェックが、専門家になるのかもしれませんね。


回答されている方は、自信がかなりあると言うことをこのチェックによって強調されているのかもしれません。
回答の内容によっては、真剣な回答にも他の回答者が質問に答えずに回答者をバッシングされることがありますので、その人の心の持ちようなのかもしれませんね。
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この回答へのお礼

どうもありがとうございました。
「すごく自信がある」=「自分は専門家」という思考回路の人がいるわけですね。

お礼日時:2006/08/22 21:00

たとえば知識が必要なことに対して、まったく何も知らないのに、強引にウソでもなんでもいいので作ってまで知っていることにしたりするのは、自己顕示欲を哲学によって満たしているのでしょう。



しかし、このような人は少し極端だなと思います。

もう少し一般的なレベルでは、そこまでいかなくて、「語ることに主眼があるタイプ」の人と「理解することに主眼があるタイプ」の人とでは、哲学に対する対応が違ってくると思います。普通両方の面を一人の人間が持つでしょうし、度合いもいろいろだと思います。語ることで理解するという合成形や、理解したことを語って確認するという形を持つ人もいるでしょうし。

哲学というのは、結論の部分は簡単なこともあるようですね。たとえば、「一切の存在の本質は(無常)苦である」というブッダの世界分析があります。私自身は、いやはやこれまたすごいことを言ったものだと思いますが、これを簡単だと思えばこの部分だけを切り取って、吹聴しても別に間違いでもウソでもありません。哲学(この場合は宗教になるのでしょうか)の頂上の部分はシンプルですので、つみ取りやすいです。こう簡単には、つみ取れない分野もあるでしょうね。

反対に「世界は常住であり、美しい。楽を本質とする」という哲学(世界分析)もあるんです。前のと逆ですね。これもこの結論の部分だけ取り出して語っても別にまちがいでもないし、ウソでもありません。

前の世界分析と後の世界分析と、結論はシンプルです。結論だけ理解しても、誤解は生じる場合があるでしょうが、だからと言って間違いではありません。

世界は苦を本質とするという哲学と、楽を本質とする哲学と、単に意見の違いでしょうか?、実は同じものを見ているが表現の違いでしょうか?・・疑問はつきませんし、考えることはたくさんあります。でも、こればっかりやっていると、どこまでも他人の考えの分析だけで終わってしまうという場合だってあるかもしれません。分析研究が目的でない限りは、どこかで見切りをつけないといけない場合もあるかもしれません。そこのラインが人によって、多少の幅があると思います。

見切りの早い人の言葉は、遅い人から見れば軽く聞こえることもあります。反対に、遅い人は早い人から見れば根拠の部分ばかりいじっていて、ちっとも結論が出てこないように見えることもあると思います。

あまりにも結論だけを急いでつないでしまう人は、言葉が上滑りになっているとは思いますが、では慎重を期するあまり遅ければ良いという問題でもなく、幅がある問題です。これが回答や哲学(分析や真理把握)に対する態度に出ていると思います。
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この回答へのお礼

どうもありがとうございました。
確かに見切りのはやさの問題でもあると思いますが、プロセスを理解せずに結論だけに飛びつくのは、結果が間違っていないからといって、専門家の態度とはいえませんよね。見切りが早いからといって専門家だと自称できるのはどういう神経なのか…。

お礼日時:2006/08/22 20:58

一般的に、人より自分の方が優れていると思いやすいという思い込みが起こりやすいという研究はあります。

それで説明できるような気がしますが、専門家をかたるという定説はないように思いますが確証はありません・・・専門ではありませんので(笑)

私見ですが、もっと単純に、専門家のボーダーラインが明確ではないからではないでしょうか。

例えば、
臨床心理士=専門家
は成立するのか。

私は、イメージとして、プロ≠専門家だと思っていますので・・・
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この回答へのお礼

どうもありがとうございました。

お礼日時:2006/08/22 20:54

男の子が「将来は野球選手になりたい」と言うのとか、


女の子が「私、セーラームーン(古いか? )」とか言うのと似たような心理でしょう。

同じように微笑ましく見てあげればいいんじゃないでしょうか。
無論、本物の野球選手だったり、本物のセーラムーン(みたいに可愛い子)もいますが、それはそれで検証できることでしょう。

私のように「一般人:自信なし」と書いているからといって、必ずしも「>素人のくせに奥義をきわめたような気に」なっていない、という証明もまたできないわけですから。
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この回答へのお礼

>私のように「一般人:自信なし」と書いているからといって
別に証明できるとかできないといった論理的な問題じゃありません、他人の頭の中なんか誰だってわかりませんから。普通なら謙遜して、嘘でも「素人ですが」なんていうわけですし、それが謙遜だとこっちもわかったうえで話をするもんですが、それができない神経はどういうことかなあということです。
どうもありがとうございました。

お礼日時:2006/08/22 20:53

専門家、プロというのは


一人賢くなって偉い人というのではなく
(そんな人居ませんし)
先人が残してくれた知識や技量を
正しく社会に還元出来、
そして報酬(主に他人が苦労して稼いだお金)を
受ける実力を満たしていて
その肩書き(印籠?)を名乗って責任を認められている人。

一般人やアマチュア経験者は
知を共有することが楽しいからお節介にも
無報酬でしてるだけですね。


哲学に詳しい人でも自由にお節介で参加するなら
別に専門家を名乗ることもないと思います。

専門家の心理(?)について、
学問とは固定することで
自分から見解を撤回するとなると
偉くも何ともなくなり、
唯の一般人になるし
今までの知識や努力が無駄になっては惜しいので
固定していたのです。

哲学は固定はしないものですけどね。
哲学は根拠を探ったり可能性を探ったりする作業ですから。
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この回答へのお礼

どうもありがとうございました。

お礼日時:2006/08/22 20:47

「頭の悪い人は自分以外の人がえらそうにしていると鼻に付く」


という心理ならあるかもしれませんね。

この回答への補足

 

補足日時:2006/08/17 12:25
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この回答へのお礼

 

お礼日時:2006/08/17 21:10

哲学というのは、職業ではないので、専門家という概念自体がおかしいのです。

専門家でも一般人でも経験者でも、みんな同じ意味になるのです。その点、国家試験などがある法律や医療などでは、資格を持っているかどうかで客観的に分かります。そういうのは、心理ではなく、本来の姿と考えられます。

この回答への補足

ありがとうございます。別にこのサイトに哲学で食べてる人間が出入りしてるわけはないので、おっしゃることはよくわかるんですが、尋ねたいのは、哲学好きだということと、専門家をすぐ名乗りたくなる心理の関係のようなことです。

補足日時:2006/08/17 12:27
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