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吉田松陰は密航に失敗してしまいました。その後、幕府に自首したのはなぜですか。

A 回答 (2件)

吉田松陰の養父は玉木文之進という人だったのですが、この方がなんというか、非常にスパルタというかすさまじい教育をされた人で、例えば勉強しているときに松陰が蚊に食われたところをかいていたらぶん殴ったんです。

理由は、今は勉強をしている、それは公式の席である、そして蚊に食われたところをかくのはプライベートな行為である、と。公式の席でそのようなプライベートの行動をするとは何事か、と。「お前は六歳にもなってそんなこともわからんのか」と。
また青年になった松陰は、あるとき友人と共に旅に出ると約束したため脱藩しました。そのとき松陰は交通手形の申請を出していて、あと何日か待てば手形は出たのです。それを「友人とはこの日に出かけると約束している。男子たるもの一度約束したことをやめるなどと卑怯なことはできない」と脱藩してしまったのです。
本来であれば脱藩というのはとんでもない重罪なのですが、なんというか、ある意味武士道を通しているし、しかも彼の行動はとても純粋な動機に基づくものなので、長州藩も出来る限り彼を大目に見てやっていたのです(江戸時代というのは、意外にも現代より情に篤いのです)。

さて、松陰の密航計画も(本人的に)純粋な動機によるものです。当時の学問と道徳の主流であった陽明学の考えに「知行合一」というのがあります。これは「知っていて行わないのは、知らないことと同じである」という思想なのですが、解釈により「考えるより先に行動せよ」ととらえることも出来ます。やりたい、と思ったらやんなきゃいけないのです。知行合一に基づけば、密航に失敗したらどうしようとか考えること自体が穢れてるのです。行きたい、密航してでも行きたい、と思ったらやらなきゃならないのです。
だから松陰としては思想的には正々堂々としたものですから、何も隠れることはない、と自首したのです。

No.1さんも書かれているように、本来は死罪ものですが、なにか変な野心があってやろうとしたことではないですし、そもそも江戸幕府の公式学問が陽明学で、その陽明学に基づいた行動ですから幕府も処分しづらいところではあったのです(やってることは大間違いだが困ったことにその思想は正しい)。

このあたりの思想は、21世紀現代日本人には理解しがたいところではありますね。でも、純粋な若者の無鉄砲な行動ってのは少し前まで日本人の心を打つものがありまして、あの日航機ハイジャックよど号事件では、実行犯の若者たちがあまりに純粋に行動したので乗客は思わず感動してしまい、乗客たちが解放されるときはみな乗客たちはハイジャック犯と握手をして「頑張れよ!」と声をかけて降りていったそうです。
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この回答へのお礼

歴史に、もし、は禁物ですが、彼が渡米に成功していたら、すごい政治家になったかもしれませんね。しかし、もうすこし柔軟性もあったほうがよかったかも。長文のご回答ありがとうございました。

お礼日時:2006/12/04 22:53

密航が見つかれば死刑。


逃げてもいずれは見つかる、逃げ隠れしたとわかれば誠意が伝わらない。
逃げるのは自分が悪いと思ってるからだと思われる。
誠実に話せば自分が言ってる事を理解してもらえると思っていたようです。
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この回答へのお礼

やはり逃げとおすことは無理と判断したからでしょうか。1度身を隠して再度トライすることはできなかったのでしょうか。ありがとうございました。

お礼日時:2006/12/04 22:47

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