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ある作曲家の作品を網羅的に聞いていると、所々で他の作品にも使われているフレーズに気付くときがあります。そのようなときに、製作側の顔と言うのかそういうものが見える気がします。これは純粋に作品に感銘しているんではなくて、分析的になっています。こういうちょっと作曲者のクセを見抜くみたいなことは、クラシック鑑賞の作法として、いいものなのでしょうか?どうでもいい質問なんですけど。

A 回答 (1件)

面白いところに気がつかれましたね。



大作曲家といえども一人の人間ですから・・・
当然、その人特有のフレーズ、節回しというかクセのようなものがあります。
それを作品の中にどのように展開させたりするかが腕の見せ所でしょう。
メロディーが泉のように次から次と湧き上がったと言われるモーツァルトは別として大抵の作曲家はメロディーに苦心したと言われています。ロマン派きっての大メロディーメーカーのチャイコフスキーにしても然りです。
また、ベートーヴェンは出来るだけ単純化したシンプルなメロディーでフレーズを上手く構成して盛り上げたり変奏したりする名手でした。

ただ、質問者さんは分析的になりクセを見抜くみたいで・・・と仰せですが、いえいえどうしてそんなことはクラシック音楽のほんの氷山の一角に過ぎないのでは??笑
実際はまだまだ奥が深いのです。

例えば、次は「フレージングとアーティキュレーション」について分析されては如何でしょう?

つまり、音節の区切り方です。
西洋の言葉は日本など東洋のものに比べ、発声や発音が明確です。
音楽に於いても、強弱のアクセントや節ははっきりしています。
一見、流れるようなメロディーやフレーズといったものもこれら約束事をきちんと踏まえてあるのです。
その上に、その作曲家しか言えない「言葉」「語法」「言い回し」といったものがあるのです。勿論、音楽(音符)でですが。
スコアー等楽譜を細かく見ますと、スラーやアクセントなどのつけ方にその人のクセというかニュアンスがあるのですね。作品の個性とでも。
演奏する際、これを守らなかったり微妙にずれたりすると響きが変ってきます。(分かりやすく言うと「韻を踏む」という言葉がありますが、これがチグハグになるとでも。例えば「広島」、「長崎」をよく外国の人が「ヒロシーマ」、「ナガサーキ」なんて言いますよね?聞いててアレッ?って思いますよね)
すなわち、その作曲家の「音楽・表現」から遠ざかってしまうのです。だから、しっくり来ない・・・らしさが伺えないとでも。
極端な言い方をすれば、まったく(その作曲家の)音楽になっていないとでも・・・このように表現する上でそれほど大切なものなのです。
これらについては後の音楽学者や著名な演奏家が研究したり様々な解釈をつけたりしています。文献も沢山あります。
市販されている廉価のポケット版スコアを求められて、任意の曲のいろいろな演奏家のCDを聴きながら微妙な解釈の違いを見つけられるのも一興かと思います。
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この回答へのお礼

大作曲家と言えども、誰もかれも泉のようにメロディーを生んでいったわけではないし、どう起承転結させるかとか、唸りながら作ったんでしょうね。アーティキュレーションや解釈の問題とも絡んで、結局作家(文学とカビ中とかと結局同じと思う)と向き合う作業は大事だと思います。またそうならざるを得ない世界ですよね。
西洋アーティキュレイションの普遍性から、西洋そのものの考え方構造にも触れる事になりますね。

お礼日時:2007/01/07 23:02

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