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中国や、ヨーロッパなどの歴史を見るとひとつの
国が滅んでまた新たな国が起こるというのは、常識ですよね。でもなんで日本だけが、二つの権力が両立していたんですか?武家は、天皇制を何で完全に排除しようとしなかったんでしょうか?専制君主せいだったらなおさら天皇が疎ましくなると思うんですが。不思議です。

A 回答 (12件中1~10件)

うーん、中国の歴史をいくら読んでも日本の歴史はわかりませんよ(^^;。



ただ、誤解があるようなのでもういちど。

> 源頼朝も足利尊氏も織田信長も太閤秀吉も徳川家康も、
> すべてを掌握したあと(すべての権力を手中に収めたあと)
> 天皇を排斥して自分が史上最高、名実ともに支配者への野望はなかったのでしょうか?
> (織田信長なんか生きていたら天皇を排斥してそうですけど(^^;)

日本の事実上の最高権力者である条件は、天皇を意のままに操ることです。
日本人が神聖なものとしてあがめていた天皇家を操ることができて、
はじめて最高権力者として君臨できたのです。

となれば、誰も天皇家に取って代わろうとは思いませんよね。
せっかくの権力の象徴を、自分でつぶしてしまっては、元も子もありません。

織田信長なんぞ、戦国の混乱ですっかり衰微していた天皇家を、
自らの権力の象徴として見出して、再び栄えるように手を打ったくらいです。
もともとは足利将軍家を権威として担ぐつもりだったのですが、
やはりそこは武家の棟梁、信長ごときに操られるのを潔しとしなかったため、
より無害で、かつ足利将軍家に官位を与えることができるほど
高い存在である天皇家を利用することを思いついたのですね。

徳川家康にいたっては、天皇家の地位と名誉のみは残しましたが、
公家も含めて事実上京都に幽閉状態とし、財力も極端にそぎ落とし、
一切世俗権力には近づけませんでした。
ここまで無害にしたものをつぶそうがつぶすまいが、
徳川家の天下になんら差しさわりがあるものではありませんね。

織田家や徳川家など、信長や家康の何代か前はほとんど素性も明らかで
ないほどの家(豊臣秀吉にいたっては自分の氏素性すら不明確)ですから、
自分が天皇に取って代わっても、権威の裏づけに乏しいことはみんな
自覚していました。それに、日本全土を自ら制圧したわけではなく、
既存勢力を傘下に入れての国内統一ですから、それらを心服させられる
手段が多いに越したことはありません。

ただ、信長は最終的には封建制を廃し、中央集権制にすることを考えて
いた節がありますが、本人は無神論者でもキリスト教を認めていた男です、
天皇家が政治に口出しをしない限りは、やはり象徴としてのこしたのでは
ないでしょうかね。
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一言で言うのなら、皇室と他の勢力が、お互いにうまく利用し、利用されたということではないでしょうか。


たとえば、藤原氏に代表される公家勢力は、皇室と姻戚関係を結ぶことで、政治権力を手中にします。また、多くの武家政権は、天皇から征夷大将軍の任命を受けることに基礎を置いてきました。ところが、いかに強大な権力を得ても、皇室を倒し、新たな王朝を創始することなど考えもしなかったようです。これは、おそらく、新たな王朝を起こすより、天皇を利用したほうが、円滑に国家を統治できると考えたためではないでしょうか。この場合、天皇の利用価値とは天皇と国民の間の協働関係ということになるでしょう。つまり、古代から、天皇は国民に慈愛を施し、国民は天皇に敬愛の念を注ぐという協働関係が定着しており、時の政権も、この天皇と結びつくことで、国民の支持を得んと考えたのではないでしょうか。
一方、天皇からすれば、実際の執政を他人に任せることで、自分は、政治責任を追わなくて済むというメリットがあります。この、非親政が、皇室を長年にわたって維持させた最大の原因とする考え方は、和辻哲郎らにより、広く支持されてきました。
こうした、他の勢力との共存はその後も続きます。
たとえば明治維新後、列強に対抗して独立を確保するため、旧来の幕藩制を脱し、近代的統一国家に生まれ変わることが余儀なくされました。このとき、明治政府は、先述した天皇と国民の協働関係を、最大限に利用したものとかんがえてよいでしょう。
また、敗戦後、マッカーサーは、終始天皇の戦犯指定に反対し、擁護しようとしています。ここにも、日本軍抗戦派と占領軍が、ゲリラ戦の泥沼に陥るのを回避し、占領政策を円滑に遂行するため、天皇と国民の協働関係を利用しようとする意図がうかがわれます。
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どうも日本のことだけを皆さんは見ていらっしゃるようですが、世界史の中には良く似た事例があります。

これは国というより文化圏の問題です。また、権力と権威を混同してはいけません。

まず少し長くなりますがイスラム文化圏についてです。
7世紀の前半ムハンマドが新しい宗教を起こし、教団国家を作り、アラビア半島を統一します。ムハンマドの死後、この教団国家は「カリフ(後継者)」と呼ばれる指導者を選んで征服活動を続け、ササン朝ペルシアを滅ぼし、ビザンツ帝国から領土を奪って広大な帝国を作り上げます。この帝国はカリフが指導者でしたがそのカリフ位は初めは有力信者の選挙で、その後にムハンマドの遠い親戚であったウマイヤ家が世襲し、さらに革命が起こってムハンマドにより近い家系のアッバース家がカリフ位についてイスラム帝国を形成します。ここまでは、イスラム教団国家としてカリフは政治的な指導者であるとともに信仰上の指導者でもありました(なお、ビザンツ帝国も皇帝=教皇であり政治・宗教の長でしたが、政治的性格の方が勝っていました)。

さて、このイスラム帝国の東方のはずれから同じイスラム教国家でありながら、政治的にはアッバース朝から独立しているサーマーン朝が生まれ、それ以後も武人政権が成立しますがバグダード周辺はアッバース朝の支配が及んでいました。ところがブワイフ朝、セルジューク朝という武人政権が成立しますと、西へ進撃してバグダードを征服してしまいます。ただ、この時に両政権ともアッバース朝カリフの宗教的権威を認めており、その地位にとって代わるのではなく、政治的指導者の地位を得るだけで満足しました。セルジューク朝ではその地位はスルタンという称号をカリフから得ています。つまり、カリフ=天皇、スルタン=将軍と考えられるわけです。こうして形式的にアッバース朝は続き、カリフはイスラム統合の象徴となります。また、このアッバース朝が滅びるのは文化的にイスラムとはなんの縁もないモンゴル人フラグの遠征によってということになります。

また、西欧においても旧西ローマ帝国の範囲ではカトリック教会がゲルマン侵攻時の混乱に際して文化的統合を維持しています。ただ、ビザンツ帝国とは異なり、政治的実力を持たないローマ教皇は政治的保護者を求めてフランク王国に接近し、ピピン(カロリング家)によるメロヴィング家からの王位簒奪黙認、カール大帝の戴冠の演出などで目的を果たして行きます。この後、教皇は一時は政治的な権力も持つようになりますが、世俗の権力者と争って結局は負け、後には宗教的権威として生き延びていきます。

日本の天皇もいわば神道の親玉のようなもので一種の宗教的権威としての側面を強く持っています。

さらに、中国においてはそれだけの強い宗教は存在しなかったこと、皇帝=天子とされて皇帝位そのものが一種の宗教的な地位でもあったことから、政治的立場を離れた宗教指導者がでなかったと思われます(失敗した反乱の指導者が宗教家であったことは太平天国の乱を初めいくつもありますが・・)。

結論を言えば、同一の文化のもとで、政治的権利を主張せず、宗教的権威のみを維持しているような存在に対して、その文化圏の人はその地位にとって代わろうとはしないものです。つまり、日本の天皇家の存続もこの文脈のもとに考えれば不思議でもなんでもなくごく当然のことです。
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すいません、補足です。


「現人神(あらひとがみ)思想」という言葉があります。
この思想が高まったのは大和時代とだいぶ昔ですが、「天皇は生きた神のようだ」という、天皇を称え神秘性を持たせる思想のことです。
この思想が綿々と続いていたというのがひとつの回答になります。
万葉集のなかで、「大君は神にしませば・・・」というフレーズが多々見受けられるのは、この思想によるものです。
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No.8の方と意見はほぼ一緒です。


現在天皇は国民の「象徴」ですよね。そういう意識は形は違えども、昔から綿々と続いてきたのだと思います。天皇を利用して権力を握ろうとする者はいても、天皇に成り代わろうとするものは一人もいなかった。それは民衆も武家も将軍も、天皇が象徴的存在であるという認識が根底にあったからです。天皇=天だという考えですね。

余談になりますが、No.7の方、欠落していたという天皇のお名前を教えていただけると嬉しいです。資料がどこかにまぎれてしまって誰だかわからず非常に気になっております・・・。初期か末期だとは思うのですが、今ひとつ思い出せなくて。
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中国の帝は天の命がその人に下った=民の声がその人を支えたものです。


日本の天皇は天の子孫なので血族で世襲します。
今日でもほとんどの国民が初詣に出かけます。

「まつりごと」は政治と先祖祭です。
先祖を祭り子孫繁栄・国民の幸せを祈る仕事は天皇家にいまも伝わっていて、これを替わろうという人がないし、あっても国民に反対されます。

そして政・祭を比べた場合、地位の高いのは祭ということで、政治家の給与や恩給はその一代かぎりですが、国民の税金から皇室費が出ていて国としての重大な仕事をしていただいています。
2つの権力と見ずに2つの役割と見たら不思議はないでしょう。
中国では皇帝が政治も天の祭りも行うのですが、それが合理的でしょうか。
個人的には政権が代わろうといつも国家国民を祈ってくれている天皇制が好きです。外国も安心して国交できるでしょうね。日清戦争で負けたのは中国ではなく清朝だと言う中国より。
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天皇の家系図を良く見てください。


平安に3代の欠落が有ります。当時.天皇を名乗ると確実に殺されるので本当の天皇家の人間は証拠を一切隠して命を長らえました。
その時に.3代前は天皇だったと名乗る人間を見つけてきて天皇家を継がせました。これを滅んだと取るか.続いていると取るか.解釈が分かれる所です。
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合理的という観点からいいますと。


天皇(朝廷)という機関:システムを道具として有効に利用したのが日本の歴史とも言えるのではないでしょうか?
そういった意味では、根本部分(何故天皇か?)を除き合理的であったと言えると思います。
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天皇家はなぜ続いたのか 「日本書紀」に隠された王権成立の謎


と、いった本があります。
古来より宗教上のシンボルとしての天皇家の存在があったということです。
多くの権力者が、天皇を権威の象徴みずからを権力の象徴と考えていたのでは
ないかと思います。
蘇我氏藤原氏、平清盛、源頼朝、足利尊氏、織田信長、豊臣秀吉、徳川氏、
明治の薩摩、長州、土佐、・・・アメリカ
いずれも、天皇の存在を利用しても、なりかわってはいないのは、世界的にも類をみない存在です。
     

参考URL:http://isweb28.infoseek.co.jp/feminine/hanabana/ …
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No.#1さんの言われるとおりですよ。

日本の場合、天皇家は専制君主とは言えませんね。武家は天皇家をうまく利用したところもあって、つまり、排除せずに、言葉を選ばずに言えば、政治の実権は武家が握っていたという図式で統治していったという形態があったのではないでしょうか。上手く言えませんが、日本史をかじったことのあるものとして、日本の歴史をヨーロッパ等と同一視して語れない一面として、島国という地理的背景は否定できないのでは?という考えを持っています。国内では群雄割拠した戦国時代も、新たな国が興る=征服・征伐のもとに=ということになりにくかったのは、島国であり、四囲を海に囲まれていて内にまとまりやすい構造があったこと、狩猟系民族ではなかったこと等から、征服という発想が出にくい構造があったのではないでしょうか。答えになっていませんね。すみません。≦(._.)≧
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