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明治天皇には15人の子女がいて
男子が5人女子が10人お生まれになりました。
うち、死産が二人(ご側室もともに死産の影響でご他界)、
夭折なされたのが八人、
成人まで存命された方が五人。
成人まで存命された方で長寿を全うされた方は二人だけ。
ほぼ死亡当時の平均寿命まで存命することが出来た方が三人。

このうち男子で当時の平均寿命まで存命されたのが
大正天皇ただ一人でした。

確かに乳幼児死亡率が高く、
一般国民では死産や産後の母親の死亡率も高かったため
出産が命がけであった事は事実です。

しかし、当時の日本で一番最高で
最新鋭の医療を受けていたはずの皇族が
二人の死産を出したばかりか
ご側室までも死産の影響でともに他界しています。
またいくら死亡率が高いとはいえ
3分の2が死産や夭折で天寿を全うしていません。
これって当時としては当たり前なことなのでしょうか?

母体に体力がなかったことが原因
といえばそうなのかもしれませんが・・・
(当時の女性で高貴な身分のものは
身の回りのことは何も自分ではしないで
おつきが手伝ってするのがふつう。
極論すれば子供を産むことのみ
自分でやる唯一の作業と言えた)

そこで質問です。

1.この皇子皇女の死亡率は当時では皇族といえども
  異常ではなく、当たり前にありうる話だったのでしょうか?

2.このとき大正天皇と同じように
  生まれた男子が当時の平均寿命まで存命出来たら
  今の世の皇室の継承問題はなかったといえるでしょうか?
  おそらくGHQも明治天皇の直宮家を
  皇籍から削ることはしてなかったと思います。

不敬は承知の上での質問です。
ご批判は甘受しますが、
質問にも答えていただけると幸いです。

A 回答 (4件)

一番大きいのはDNAの問題でしょう。


明治天皇の側室ならば二条家、三条家、鷹司家、冷泉家などの限られた家柄しかありません。
これがずっと繰り返されているのですから、DNAは他からのデータ訂正ができず、
遺伝情報がどんどん弱くなっていくのです。

ですから、今上天皇の配偶者は民間から選ばれたのです。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
なるほど短命の理由はDNAの問題ですか。
DNAの問題は大正天皇や昭和天皇のように一夫一婦制を取られた方は考慮に入れてましたが、明治天皇は側室を置かれていたので顧慮から外していました。
確かにおっしゃる通りです。気が付きませんでした。

お礼日時:2012/06/06 09:04

乳児の死亡率ですが、総務省統計局の資料によれば、明治32年で153.8人/1000人で、率としては15.38%、うち新生児は5割程度を占めます。


100人を割るのは昭和15年以降で、10人を割るのが昭和51年、平成16年で2.8人/1000人になっています。

明治天皇の子どもは15名いますが、死産を含め1年以内に亡くなったのが8名、率で53%、同時代の統計から見ても異常な率で、大正天皇自体も新生児の時点で亡くなってもおかしくない状態です。

なお近世の天皇でもっとも偉大な帝がこの大正天皇で、同じ后から4人の健康な男児を得ており、いずれも成人されていますから、大正天皇は皇統の安定化にはもっとも貢献された天皇と言えると思います。

この回答への補足

確かに大正天皇から一夫一婦制に移行して三笠宮をはじめとして昭和天皇、高松宮、秩父宮と当時の平均寿命を上回る長命を保った方が生誕されています。この功績はやはり大きいですよね。

大正天皇が新生児の段階で亡くなっていて、宮家から養嗣子を迎えて皇統を継がせていたとして、その後に大東亜戦争があったとしたら皇統が絶えていたかもしれません。

そう思うとたった15年されど15年、大正天皇の偉大さが改めて痛感させられました。

補足日時:2012/06/06 14:10
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この回答へのお礼

大正天皇の功績は確かに気づきませんでした。
立憲君主としての体裁を築いた功績は存じ上げていましたが、子孫を残すという意味では顧慮していませんでした。ご指摘ありがとうございます。

お礼日時:2012/06/06 14:10

明治時代前半に最新鋭の医療など存在しません。

北里柴三郎がペスト菌を発見したのは明治27年のことです。当時は脚気の原因が細菌だと主張する東大教授がいた時代です。大正天皇が誕生されたのは、明治12年のことです。明治時代前半はまだ栄養、衛生、病気のことが全然わかっていない時代なのです。高貴もへったくれもなく江戸時代と何も変わらない。野口英世が生まれたのは明治9年で、北里柴三郎が所長を務める伝染病研究所に勤め始めたのが明治31年です。不敬でも何でもいいけど、当時の時代背景を認識した方がよい。

この回答への補足

時代背景は認識していましたが、記憶が錯そうしておりました。
ご指摘は感謝いたします。

補足日時:2012/06/06 13:56
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この回答へのお礼

あまり江戸時代と変わってなかったのですね。日清戦争前夜には少しは医学の進歩があったのかと思ってたのですが、劇的な変化は明治期以降だったのですか、10年ほど認識がずれておりました。ありがとうございます。

お礼日時:2012/06/06 13:58

徳川将軍家でも乳児死亡率が高いので、私は水銀や鉛中毒の影響もあると思います。


また栄養の偏りも大きいのではないでしょうか。

鉛中毒は鉛を含まない鉛白粉が出たのが1900年で、それ以降でも昭和に入るまで鉛入りの白粉を使う人が多いようなので、身分が高い人たちは残留濃度も高く、子どもに影響が出ることは容易に想像できます。

また庶民は栄養のある胚芽や麦飯、獣肉なども食べますが、高貴な方々は精米された米を食べるのでビタミン不足になり、徳川14代家茂も脚気で亡くなっていますけど、栄養バランスが悪かったんではないかな。

これ以外だと、遺伝的な問題。
近親交配を繰り返すと劣性遺伝が顕在化して弱くなりますが、天皇家も特定の家から妻を迎えているので弱いのではないかと思う。

現在は妊婦さんも体を動かした方が安産になるといわれています。
高貴な人は運動をしないから弱いのでは。

こういった諸々のファクターで、子どもの死亡率が高いと予想します。

この回答への補足

実は私も11代将軍家斉の事例を知っていてたとえ将軍家といえどもかなりの乳児死亡率が高く、その原因がおしろいであることも顧慮していましたが、家斉の時代からは50年以上時間が経過しており、西欧から近代医学も急速に導入されていました。そのため宮中にも医療革命のようなことがひょっとして怒っていたのかなと勝手な推測を立てていましたが、鉛のないおしろいが出たのが1900年ということは明治天皇の皇子皇女はみなそれより以前に出生されているのから鉛中毒の件も疑いの要素に入れておかなければなりませんでしたね。

鉛を含まないおしろいの改良年は知らなかったので非常にいい勉強になりました。ありがとうございます。

脚気は確かに明治まで続いていた病気でしたね。迂闊でした。
完全に顧慮の外にしていました。脚気の特効薬は鈴木梅太郎博士が確か明治43年に開発されたのですよね。自分の祖父の生誕年の事例なのにすっかり忘れていました。タカジアスターゼと混同していました。

補足日時:2012/06/06 13:55
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

記憶違いを指摘していただけるヒントを頂戴し助かりました。

お礼日時:2012/06/06 13:55

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