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神功皇后は大正15年の皇統譜より歴代天皇から外されたみたいですが何故なのでしょうか?約70年も天皇がいなかったのでしょうか?

A 回答 (3件)

おっしゃる通り約70年間、天皇はいなかったということです。

『日本書紀』によれば、神功皇后は天皇に即位しておらず、その治世は摂政ということになっています。神功皇后を歴代天皇の代数にカウントして第15代とする歴史書は、古くから数多くありますが、皇后を天皇と称したり、即位したと記述しているものは一つもありません。推古天皇や持統天皇などの女性天皇と違って、そもそも天皇になっていないわけですから、歴代天皇に含まれているほうがおかしいといえるでしょう。
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まあ、あの時代は天皇を立てようにも皇子が幼さすぎたので、母親が摂政として政治のすべてを見る形ですね。

武内宿禰は大臣で、天皇ではないですが、ほとんどは神功皇后と武内宿禰が決めるということですね。
70年は日本書紀のいう69年の四捨五入値ですか。
古事記ですと仲哀が392年崩御。新羅遠征が3カ月は嘘。実は3年くらいかな。
これは古事記と新羅本紀の結論。
365年帰国して乱鎮圧して大和帰還。すぐ皇后が元年始める。実際天皇と呼んでいいでしょう。応神即位は皇后崩御ですね。応神崩御は394年。だから神功と応神2人合わせて30年。平均15年。
ということはいうなれば、約15年天皇いず。

でもそういう論理は日本書紀までね。
日本書紀は推古を最初の女帝にして神武~推古までが天皇33人ならゴロいいで外しただけ。
続日本紀以降は歴代に加えてずっと数えてきたはず。
国が戦争中はそういう歴史見直しは無理。江戸時代の元禄時代から国が太平になり、漸く昔の歴史見直し。だからその昔となれば、推古以降なら信じるに値してもその前は日本書紀の歴史改竄鵜呑み。
今は中国史書も手伝って卑弥呼は崇神頃とか騒ぎますね。
ともあれ、古事記説で神功の在位期間は70年ではなく、15年位としましょう。
応神も15年ですね。

ところで大正になぜ外したかですか。あれは推古以前を御陵は決めても、歴史はさわらず、日本書紀鵜呑みで、応神が仲哀の後にいて、神功は摂政という記述に従っただけでしょう。
この程度でいいですか。
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私も詳しく知りたいw



流れとしては、武家社会で男尊女卑の考えが助長され、明治になったときに、その流れで女性天皇は”つなぎ”でなっただけで実権のある者は居なかった→今後は天皇は男だけね、という決まりにしたかったからじゃないでしょうかね。
何々してたら天皇とかしてないから天皇じゃないとか、細かいことを言ってるはずですが、つまりは実権のあった女性天皇の存在が邪魔だったから、いちゃもんつけて天皇じゃなかったとしたのだと思います。

日本書記では天皇扱いであるのは常識なのですが、ウソを言い張るバカウヨク?も居るようで、困ったものです。
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