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明治天皇が参拝するまで千年以上天皇家の伊勢参拝は無かったと聞きました

本当ですか?

そうならばなぜ皇祖神を祭る神社への参拝がなかったのでしょうか?

A 回答 (5件)

伊勢神宮の起源を知れば理解できます。


壬申の乱で大海人皇子(天武天皇)が、吉野から逃れ
伊勢に入った時、国司初め多くの国人の助けを受け、
これが勝利の元になった。
のちの柿本人麿呂の歌の中に

行く鳥の  争うはしに  渡会の斎宮ゆ
神風に  伊吹きまどはし

伊勢の神風で大海人皇子の勝利が決まったとの意。
天武天皇はお礼に国人の信仰厚い渡会(今の三重県
明和辺り)の狭く簡素な斎宮を、五十鈴川のほとりに
立派な社殿を建立し移すこととした。

生存中は完成せず、持統四年に完成し、伊勢皇大神宮
の第一回遷宮を行った。

天武天皇の私的皇祖祭祀場と見られたようです。

持統六年の伊勢神宮御親拝にあたり、強い反対が
あった。
それ以降明治まで約千年間天皇の伊勢御親拝は
行われなかった。

道鏡の事件で、御神託を仰いだのは、宇佐神宮、
後白河法皇は33回も熊野神社詣を行ったのに、
伊勢詣はない。

もうひとつ「逆説の日本史」の井沢元彦氏の説。
天武天皇の血統は称徳天皇で途切れ、光仁天皇から
まえの天智天皇の血統に戻り、それが続いたためでは
ないかと。
天武系の他の天皇の時代にも伊勢行幸はなかったので
これは関係は薄いようです。

それなのになぜ伊勢神宮は庶民に人気がある。
一つは天武天皇が、律令制度とともに定めた20年
式年遷宮が庶民の注意を惹くから。
庶民は大行事が好き。   戦乱で遷宮が中断された
時代は庶民の関心はありませんでした。
清流五十鈴川の畔で環境が素晴らしい神社だから。 
天武天皇の鑑識眼の高さです。

建立は勇み足かも知れませんが、お蔭で江戸時代j以降
民衆の楽みになりました。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます
個人の私的祭祀場という位置づけですか
それならよく分かります

お礼日時:2011/03/05 21:11

では私も。



たぶん本当。
過去に参拝したのは持統天皇だけだと思います(このときも
臣下が止めるのを振り切って行ってる)。
明治天皇も東京に来てから最初に行ったのは
大宮氷川神社でした。

なぜ?
元々天皇家には、伊勢神宮への信仰はなかったようなんですよ。
で、信仰の対象は、出雲系の神々および彼らを祀った神社。
大和だと大神神社(大宮氷川もこの系統)。
神武天皇が大和に入る前に、出雲系の人物がこの地を支配
していたことは、大和朝廷もみとめております
(書紀の崇神天皇紀を参照ください)。
つまり、自分たちの前の支配者に敬意を表しているのか、
屈服させた連中が祟らないように祀っているのか?

持統天皇の場合は、自分をアマテラスに擬えるためのご挨拶、
明治天皇は国家神道のためのプロモーション、といった
ところでしょう。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます
なるほど
一般庶民からすれば天照大神=伊勢神宮ですが
皇室はもっと複雑?なんですね

お礼日時:2011/03/05 21:10

>本当ですか?



本当らしいですね。
実際は、多くの文書を「宮内庁が公開しない」ので分かりません。
天皇陵とさる古墳でも、一切の調査が拒否されていますよね。
仁徳天皇陵ー>伝仁徳天皇陵ー>大仙古墳と、年代が進むに連れて呼称が変わっています。^^;

>そうならばなぜ皇祖神を祭る神社への参拝がなかったのでしょうか?

大化の改新まで、日本は蘇我一族によって全方位外交を推進していました。
唐・新羅とも、友好関係を保っていました。
ところが、突然歴史に現れた中臣鎌足による蘇我一族の抹殺によって方向転換。
百済一国と、何故か友好関係を結んでしましい唐・新羅と交戦。敗北しました。
(中臣鎌足は、人質として来日していた百済国王の王子・豊璋との説もあります)
日本書紀は、中臣鎌足を祖とする藤原一族の正当性しか書いていません。
それに何故か、意図的に(藤原一族にとって都合が悪い?)6世紀前半までの歴史を抹消しています。
また、この時代の古文にも、天皇=天照大神とはなっていません。
天皇家よりも、藤原一族が権力を握っています。
天皇と言えども、自由に行動できません。

鎌倉・室町から江戸時代まで、皇室は生活するのに必死です。
官位を授ける・坊さんの位を授けるだけの存在ですね。
行幸する程、財政状態に余裕はありません。
(信長が御所を建てるまで、雨漏りが多かったとの記述もあります)
幕末、(幕府の収入は、約200万両)将軍家の収入は約20万両です。
が、孝明天皇在位の時の皇室費は10万石に過ぎません。
この中から皇族・関白・地下までのお公家さんに支給を行います。
下級公家では、歌留多書きなど色々と内職をしています。
皇族には、約4万両しか収入が残りません。
御所の修復・抱えている職員の人件費・燃料代などで、天皇といっても家計は火の車です。
京都に残る伝説では、孝明天皇・男児(後の明治天皇)が町に姿を現すと「おカネの話は止めた」ようです。
こんな財政状況では、行幸は夢のまた夢に過ぎません。

また、皇室も基本的に神宮(伊勢神宮)行幸は何も思っていなかったようですよ。
幕末、反幕府勢力からの金銭的援助を多く受けていた時でも「大和・神武陵参拝目的の行幸」が発せられただけです。
(結局、長州藩・三条実美の目論見は破れて行幸中止。行幸を倒幕と解釈した天誅組の乱が起きます)

明治政府になり、「天皇=天照大君の子孫=神聖=伊勢神宮」との政策を協力に推進します。
天皇は、生きた神様である。現人神ですね。
(1945年。天皇自ら「朕は、人間である」と国民に向かって話しました)
これは、孝明天皇から国賊扱いされた三条実美が孝明天皇を暗殺したから!という説もあります。
三条実美が長州に逃れる時、後の明治天皇を伴って行った事+倒幕計画に孝明天皇は激怒しています。
「天皇に関する事柄は、一切不問・関与不可」という目的の為に、神聖化したとの事です。
暗殺か否か?犯人は誰か?は、一切闇の中になります。
しかし、孝明天皇から「朝的・国賊・追討命令」を受けた天誅組も、明治政府によって名誉回復して忠臣になっています。

まぁ、皇祖神といっても歴代皇居内で参拝していますからわざわざ伊勢まで行く必要もないのですよ。

※色々な説があるなかで、変わった説を記載しました。
※同じ回答ばかりだと、面白くないですからね。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます
確かに皇居内で礼拝はできますね
要は伊勢参拝は皇室にとって超重要事項ではなかったということですかね

お礼日時:2011/03/05 00:30

天皇が参拝するというのは「御幸する」ということです。


天皇は鎌倉幕府から江戸時代まで、幕府に「征夷大将軍」という役職を与える任命者だったわけですから、本来「権威」は幕府より上なのです。(下の者から上の者に任命しないでしょ)

ところが幕府は日本唯一の政府ですから「権力」として将軍よりも上のものがいると困ります。
明治維新は、開国を迫られた江戸幕府がアメリカなどに「天皇の許勅を得なければ・・」と逃げたために外国からは「江戸幕府よりも偉い存在が日本にはあるのか?」とバカにされ、天王周辺では「国難にあって、自分で処理できない政府はいらない!」と幕府倒閣運動が盛んになって、起こった部分があるのです。

つまり、天皇が任命して幕府が政府を作る、ということが二重権力を誘発しやすく、それを常に押さえる必要があったのです。

天皇が神宮(本来伊勢神宮は、ただの「神宮」)に行くということは、大名行列をしのぐお供の数をそろえ、神宮側も畳を取り替えたり化粧直しをしたり屋根を葺き替えたり、と莫大な費用がかかるのです。
もし天皇にそれだけのことが出来るお金を渡し、御幸行を許したら
そのお金を討幕運動に使うかもしれませんし、ちゃんとお金を使って御幸しても周辺の人々に「イヤー天皇の御幸は壮大で幕府よりも金がかかっているなーー」と幕府よりも上位の「権威」があることを宣伝されてしまいます。

ですから幕府が唯一の政府で権威と権力を維持させるためには、天皇に余分なお金を渡さない、余計なことはさせない、とコントロールすることが重要だったのです。

そのため、神宮にも行けなかったのです。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます
これも経済的な事情ということですね
しかし、、平安時代にも参拝はなかったことが不思議です

お礼日時:2011/03/04 10:26

天皇の娘が斎宮として単身赴任していたから。


天皇の行幸をすると大ごとになり、鎌倉~江戸幕府としては幕府よりも権威のある組織の存在を認められない。だから天皇家にそんなおがかりな行幸をする資金を廻さなかった。
だから斎宮(「さいくう」と読む)制度を続けた。

あと、伊勢神宮が「皇祖神を祭る神社」というのは、後付けの理屈だということは、みんな知ってました。もっとも、本当の起源は未だによくわかりませんが。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます
財政的側面があるということですね
皇女が常駐してるから本家はいかなくてよい、というのも分かるようでよく分からない理由です
もっと奥があるのでしょうか…疑問

お礼日時:2011/03/04 09:13

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