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満州事変以前の東三省(満州)は、ハルピンあたりから以北はソ連の勢力圏内で、この地域には多数のロシア人が居住しており、また満鉄のようにソ連系の鉄道会社もありました。
満州事変の際、ソ連はこれらの保護を名目に東三省へ軍事介入できたと思うのですが、なぜ、静観していたのでしょうか。

A 回答 (3件)

理由はいくかあると思いますが、


最大の理由はソビエト内部の権力争いでしょう。
満州事変が起こった頃というのは
ちょうどスターリンの独裁が始まる頃で、
党内のトロツキー派の粛清などで
忙しかったので、対外戦争は無理だったでしょう。
また日本が満州事変を起こしたのは円ブロックの形成という
意図があったのですが、世界恐慌の後でも
ソ連は影響を受けなかったので
戦争をするよりも、前年に始めた五ヵ年計画を
完遂するほうが先と考えるのは自然です。
実際、関東軍の石原などはソ連のコルホーズの成功を
モデルとして満州で再現しようとしていたわけで、
ドイツの極右政党ナチスの台頭に警戒感を強めるソ連としては、
極東では安定を求めるのは当然です。
ソ連は1930年代には各国と不可侵条約を相次いで締結しており、
政策は明らかに内向きにシフトしていました。

ノモンハン事件は実に1939年です。
日本軍の侵略がソ連国境に接するまでは意図的に手を出さなかったのは明らかで、
ここで強い抵抗を見せたのは、これ以上進むなという警告といえますし
それが次の外交交渉、つまり日ソ不可侵条約への導入となるわけです。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2007/02/09 09:01

こんにちは。


前のお二方のご回答で的を得ていると思いますがもう一つ。
そもそもロシア・ソ連とはそうした国なのです。
つまり、軍事的な賭けを嫌うのです。
間違ってもパールハーバーなんてやりません。
大戦が始まって、ドイツ軍がポーランド軍を壊滅させてから
ソ連はポーランドに侵攻しています。大戦末期の対日参戦も
しかりで、もっと早く参戦すればより大きな発言権を確保
できたはずなのに、日本が満州の部隊をフィリピンに転用
するまで、攻撃を控えていました。これが防衛戦となると
異常な内弁慶ぶりを発揮します。ところが国を一歩でも出ると
フィンランド軍でさえ独力で屈服させることができません。
要するに日本軍に勝てるという保証がどこにも無かったのです。
以上よろしくお願いします。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2007/02/09 09:01

当時のソ連は革命後の混乱、共産党内の内紛に追われていました。


また彼らの重心はあくまでも欧州であり、シベリア周辺は辺鄙で追放者等訳あり人が住むところであり、新興共産国包囲網に対応して行動を起こす様な情勢ではありませんでした。アラスカを米国に売った様に、シベリアの一部を売却する可能性も当時ならあったと思います。もっともその後で取り戻されたでしょうが・・・。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2007/02/09 09:01

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