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歴史か文化かの質問なんですが、いつも伝統文化に興味を持ってて、最近、「全世界華人新年祝賀祭」(http://www.ntdtv.jp/gala)のことを友達から聞きまして、”中国古代の唐の文化の影響を受けた日本では。。。”という話があって、漢字の以外、ほかはまだ何かあるでしょうか?

A 回答 (6件)

神韻芸術団は今年3回目東京に来ます。

2月11日昭和女子大学で行います。見に行きましょうか?
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座敷の定義が畳敷きの床であるのなら、私の発言は間違いですね。

板敷きも含めて、「履物を脱いで床面を一段高くした構造の部屋に上がる」と言う意味で言ったのですが、言葉を誤ったようです。
確か、司馬遼太郎氏も履物を脱ぐ文化について、何かに書かれていたように思うのですが、これも私の勘違いですかね。まあ、氏は小説家ですので、どこまで信用できるか不明ですが。

>現地の社長さん(中国人)」の歴史知識をウノミにしない方が良いと思いますよ。

その通りです。この人は「私は始皇帝の子孫です」なんて事を真面目に言う人ですので、私もあまり信用していません。ですから、「参考意見」なのです。「事実間違い無い」と断定しないように書いたつもりでしたが、これは拙い回答だったようですね。
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「以前中国の企業に出向した際に現地の社長さん(中国人)に聞いた話ですが、履物を脱いで座敷に上る、と言う居住法式は、唐以前の中国の文化だそうです。

遣唐使が廃止されて以降、日本には座敷文化が残り、中国は宋代以降、土間の文化に変わったらしいですね。」

現代に伝わる日本の平安時代頃の服装である「衣冠束帯」や「十二単」では、室内でも履(くつ)を履いて木の床の上を歩きます。現在でも、皇室の方がそのような服装で儀式を行うことがありますので、気をつけて見て下さい。室内用の履と、屋外用の履を分けるのかどうか定かではありませんが。

また、絵巻物などを見ますと、鎌倉時代頃の武家の時代になると、室内では履物を脱いで素足で木の床の上を歩いているようです。この時代には畳敷きの座敷と言うのはなく、床の上に畳と同じ機能のマットを敷いて座ったようです。既にこの時代「家の中に入ると同時に履物を脱ぐ」のが常識になっていたようです。

「畳敷きの座敷」が出てくるのは、室町時代に今の日本建築のベースである「書院造」が出現してからのことで、「唐以前の中国の文化」とは関係はないと思われます。「現地の社長さん(中国人)」の歴史知識をウノミにしない方が良いと思いますよ。
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以前中国の企業に出向した際に現地の社長さん(中国人)に聞いた話ですが、履物を脱いで座敷に上る、と言う居住法式は、唐以前の中国の文化だそうです。

遣唐使が廃止されて以降、日本には座敷文化が残り、中国は宋代以降、土間の文化に変わったらしいですね。
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唐の進んだ文化を取り入れるため、『遣唐使』が派遣されました。

 

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%A3%E5%94%90% …

これで見ると、前半(七回目まで)と後半(八回目以降)とは大きな違いがあります。 前半は朝鮮半島の百済の先導で、朝鮮半島沿いに中国の山東半島に入港しています。 その後も百済使節の先導で唐の皇帝に拝謁が許されています。

ところが、7世紀の後半に百済が滅亡した後は航路が大きく変わっています。 東シナ海を横断する危険な航路を取らざるを得なくなったのです。 当時の日本の造船技術では、東シナ海で嵐に遭ったら難破、漂流やむなしだったのです。 従って、百済滅亡後は遣唐使派遣もむつかしくなっています。 命の危険が現実にあり、進んで名乗りを上げる人材がいなくなったのです。

そんな逆境の中で、第18回目の遣唐使がこのプログラムのハイライトといえるものです。 中心人物は空海・最澄というふたりの僧侶です。 特に空海は密教だけに止まらず、ゾロアスター教、景教の聖職者とも接触を取り、進んだヨーロッパや中東の文化をも日本に取り入れています。 

空海が日本に伝えたとされている雅楽の名曲『越天楽』の原曲は、グレゴリオ聖歌です。 彼が伝えた灌漑技術や鉱山冶金の技術もヨーロッパにあったものです。 当時の唐の都、長安は世界最大の国際都市で、当時の世界最先端の技術に触れる機会があったのです。 
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つい 100年ちょっと前まで、公式の法体制は律令制度でした。



幕府は基本的に私的あるいは臨時組織なので。
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