【大喜利】【投稿~9/7】 ロボットの住む世界で流行ってる罰ゲームとは?

源頼朝は鎌倉幕府、足利尊氏が室町幕府、徳川家康が江戸幕府ですが
全員、征夷大将軍に任命されてから開設していますよね?
なぜアイヌを攻める大将軍が幕府開設なのですか?

A 回答 (4件)

まず、足利や徳川は、鎌倉時代に、武家の棟梁=征夷大将軍という概念が出来ていて、後でそれに乗っかっただけですから、源頼朝にとっての征夷大将軍はなんだったのか、って事を考える必要があります。


以前に、似た質問に対し回答した事があるので、参考にしてください。

一般的に言われるのは、
1.理屈の上では、征夷大将軍は天皇から節刀を受け、戦地に赴く存在だったから、という事がまず考えられます。節刀を受けるという事は、イメージとしては、「天皇の権力の一部を、臨時に代行する」という事で、例えば、征夷軍の副官が反抗したら、征夷大将軍は天皇に一々お伺いを立てなくても、自分の判断で処刑してしまっていい、という事です。これは、戦地に行く軍隊の大将軍だから、都度天皇に伺いを立てていたら戦争にならないので、節刀=非常大権を与えられる事で初めて認められる事です。右近衛大将では、都で近衛府を統括する常設武官としての最高位、というだけですから、そういう権限はなく、No.3の方がいうように、結構違います。また、征夷大将軍は、戦地に赴くものですから、都に常駐する必要がありません。
この二点から、東国で独立した政権を打ち立てるには、征夷大将軍が、最適だった、という説です。

2.もう一つは、頼朝がなる少し前に、源義仲が頼朝を討つ為に、武力を背景に無理矢理朝廷に征夷大将軍に命じさせた、という事があって、これにより東国の支配者としての「征夷大将軍」という考え方ができた、というものです。ま、有体に言えば、義仲がもらったタイトルは、義仲に勝った自分にぴったりなんだから、よこせ、って事ですね。
こういう理屈っぽい話は、参考URL↓に纏まっています。

ただ、実際には、本当に「征夷大将軍」と、他の(例えば)鎮守府将軍や右近衛大将とでは、頼朝にとって、決定的に意味が違っていたか、というと実は結構疑わしいものがあります。頼朝は1190年に右大将に任ぜられて、すぐに辞職しますが、その後、御家人に与える幕府の正式文書である政所下文は「前右大将家政所下」と書かれました。1192年に征夷大将軍になると、これは「将軍家政所下」にかわりましたが、そのうちまた「前右大将家政所下」に戻ってしまいます。この事実と、尊卑分脈に「1195年に征夷大将軍を辞任した」という記事がある事から、頼朝が1195年に征夷大将軍を辞したと考える説があり、これは必ずしも定説とは言えませんが、辞めていたら勿論の事、辞めていなくても、自己の権威を主張するのには「征夷大将軍」よりも「前右大将」の方がいい、と思っていた事を意味しますから、どちらにしろ、頼朝にとって、征夷大将軍という地位が、決定的に重要だった訳ではない、とは言えます。また、二代目の頼家は、1199年の頼朝の死の後、直ぐには征夷大将軍にはならず、1202年になっていますが、頼家が早く将軍にならないと困る、なんて話は残っていないです。
つまり、武家の棟梁=征夷大将軍というのは、頼家→実朝→藤原氏出身の所謂「摂家将軍」と言った形で、代々武家の棟梁(名目上のそれを含む)が将軍に任ぜられる事で、そういう概念が定着したのであって、頼朝がどういう理由で征夷大将軍を選んだか、という事を追求しても、それと『何故、征夷大将軍が、武家政権の開設の条件なのか』というのと結び付けるのは、あんまり意味が無いです。だいたい頼朝自身が、大して拘ってないんですから…。つまり、頼家以降代々任じられる事で、慣習上そうなってしまった、って事ですね。

なんで、(例えば)鎮守府将軍ではなくて、征夷大将軍なんだ?とどうしても追求するなら、頼朝がそれを欲しがったから、欲しがった理由については、既に呼べたような推測がされている、ってところでしょう。

中世は、引退した天皇に過ぎず、特別な公法上の地位が無いはずの上皇が、天皇家の家父長としての私的な権威を背に、天皇よりも圧倒的に権力を持つなど、公式の地位以外のものが表に出ていた時代です。あまり、表面の事に拘ると、かえって事実がわからなくなるような気がします。

尚、坂上田村麻呂が戦った相手は、アイヌではなく、東北地方に住んでいた(現代の言い方をすれば)日本人、という事になっています。だから、アイヌを攻める大将軍じゃないです。念の為。

参考URL:http://web.kyoto-inet.or.jp/people/tsuka/theme/s …
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 法理的に言いますと、将軍が外地に遠征にゆく場合、律令制下ではそこにかなりの裁量権が認められていました。

たとえば征服地からの租税を利用して軍備をまかなうなど、国司などを介さず、直接に軍政を敷くことができたといいます(幕府政権や将軍を大樹=大きな旗というのは、こうした軍政の名残)。
 こうした法律上の特例を利用して、将軍になることによって、名目的に私的な軍政を敷くことを天皇から勅許してもらい、朝廷-幕府の二重構造に正当性を与えるところから、武家政権は出発しました。律令制における上記のような特例は、あくまで「軍事上必要だから」という理由によって認められていたものですから、当然幕府の最高責任者は兵職の最高職を兼ねる必要があります。ただしこの場合、「兵職の最高職」は律令に定めのある「将軍」なら、近衛大将でもかまわなかったのですが(頼朝は最初近衛大将になって幕府を開きます)、やはり軍政にふさわしいのは外地の将軍であるというイメージがあったのでしょう。また、全権委任的な征夷大将軍のほうが、より幕府のトップにふさわしいという考えかたもあったのかもしれません。
 ちょうど、イギリスの首相が形式的には大蔵卿を兼ねるのと同じようなものと考えればいいでしょう。
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「奈良時代から平安時代には東国に派遣された将軍の呼称の一つでしかなかったが、


鎌倉時代以後は、源頼朝が征夷大将軍となり幕府を開いてから、
武家が政治を支配し、征夷大将軍は武家の最高権威となった」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%81%E5%A4%B7% …

蝦夷を討つ必要がなくなった鎌倉以降、同じ「征夷大将軍」という役職が武家の棟梁の役割に変わったのです。
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坂上田村麻呂が最初の征夷大将軍ですか。

 武士の棟梁の職のようです。 その後源頼朝が征夷大将軍を名乗り、源氏の棟梁(自称)が征夷大将軍になったようです。 織田信長は平氏の子孫と主張し、豊臣秀吉は藤原家の養子になってしまって、関白職になっています。 あまり参考になりませんか。
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