
No.5ベストアンサー
- 回答日時:
貧したため、悪税『人頭税』をかけた唐津藩の例はどうですかな。
・頭割り:老若男女を問わず一律の頭割り
・日銭:10歳~60歳の男女に一日2文
これじゃ、藩の人口が減る方向に行きます。その悪循環を断ち切るため、藩はいろいろ苦労しているようです。
ちょうど今の日本と同じ・・・年金で老後が安心だと、子供に老後を養って貰う必要がなくなり、みんな高い養育費がかかる子供を作らなくなる。
こんなことを言っているのは、小生だけですかな。
お金で老後資金を貯めても、大インフレが起こり『預金封鎖』をされるとパーになります。戦前のサラリーマンはこれにやられました。
http://www.tkc.co.jp/kaze/backnum2005/0503/koram …
○○守の参考URLのアドレスに最後の『l』が抜けていたようで、すみませんでした。でも参考になりません。
大石内蔵助は官名かどうか、実は本当のところは知りません。堂々と名乗っているようなので、官名風だろうと決め付けてしまいました。先祖が公家に仕えていて、朝廷から本物を貰っていたのかも知れません。
前の大名と旗本の関係や○○守についてですが、武家に対する幕府の処遇は『ここから上はこの線で』というように、一律で見るわけにはいかないように思います。
幕府の扱い方というのは『実績追認主義』的な色彩が非常に濃いと思います。
江戸幕府が開かれる前から、大小様々な個々の武家が厳然として存在していました。徳川時代になっても、それらが実力と家門の名誉にかけて、そこかしこにバン居しているわけです。
そして徳川時代になって、それらを便宜上区分して、大名や旗本と呼んでいるだけであって、大名の中にも旗本色の強い家もあればまたその逆もあり、中々一律に線を引くわけにもいきません。
一旦取得した権利権益を引き剥がすことは、幕府をもってしても難しいと思われます。○○守にしても新たに授ける場合は一定のルールはあっただろうと思いますが、その家の由緒に基づくものは、それぞれ個別の事情があると思いますのでよくわかりません。
小生はズルイですから、「江戸時代の幕府の武家統制は『実績追認主義』の色彩が濃く、個々の武家の事情を個別に細かく管理して、それぞれ承認しているのだろう」と大づかみに捉え、そこから先は知らぬわからぬ、という整理の仕方をしています。
というわけで、小生よりも質問者さんの方がお詳しいと思います。
お役に立てなくてすみません。
唐津藩は人頭税をかけていたのですか。アフリカアラブあたりのイスラム朝が採用していたのは有名ですが、近世日本でもやっていたのでうsね。累進課税もないですし大所帯になればなるほど大変だったのですね。それでは逃散する民も多かったのでしょうね・・・
>幕府の扱い方というのは『実績追認主義』的な色彩が非常に濃いと思います。
前例があれば一律ではなく例外も認められていたようですね。そういった些細な格式の違いを認めることで、大名の自負心も満たされたということもあったのでしょうね。
>お役に立てなくてすみません。
とんでもございません。日々勉強させて頂いております。
ありがとうございました!
No.7
- 回答日時:
渡辺崋山が居た田原藩もかなり貧しかったです。
彼自身は重役武士の家の生まれではあるけれども、幼少時の生活は貧窮を極めてました。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%A1%E8%BE%BA% …
なぜ田原藩が貧しかったのかというと、愛知県の渥美半島ですから潮風を大きく受けやすく稲作に向かない土地だったからです。(他にもいろいろ理由がありますけど)
また、ケネディ&クリントン大統領が尊敬してる日本人偉人で有名な上杉鷹山がいた米沢藩も彼が藩主に就任当時も凄まじいくらい貧窮のどん底で、幕府に領土を返上もやむなしという話もあったくらいです。それから人々が安心して暮らせるようになるまで、立て直した努力には頭がさがる思いです。
田原藩は1万2千石の小藩だったようですね。
ただでさえ、このクラスだと家老といっても家禄は2、300石でしょうから重臣としての格式を保ちつつ生活していくのはホントに大変だったのでしょうね。
鷹山も守旧派抵抗勢力との対立には苦労していたみたいですね。
120万石が15万石(内高三十万石)ですから並みの改革じゃすまなかったと思います。
上杉家は治憲を養子に迎えて、ホントに幸運だったと思います。
ありがとうございました!
No.6
- 回答日時:
困窮大名の筆頭は薩摩藩ですね。
文政末年の藩債が500万両でした。 一石一両の時代ではないですが、想像を絶する借財です。
財政改革を任された調所(ずしょ)は札差しを集めて宣言しました。 「今後元金の返済は250年賦にする」札差しどもは青くなりました。 結局大幅な借財棒引きを飲まされました。
札差し残酷物語ですね。
先賢の書かれた唐津藩、「もう藩民より搾り取る余地が無くなった」こちらは藩民残酷物語です。
調所広郷は毀誉褒貶相半ばするようですが、札差残酷物語や密貿易の上に藩財政を持ち直させた功績はあるのでしょうね。
山田方谷や村田清風と違って、個人的にはあまり好きではないですが・・・
水野忠邦もいた唐津藩は内高が表高の数倍ある富裕な藩だと思っていましたが(もしかしたら長崎見廻役としての役得ってありませんでしたっけ)、領民に弾圧まがいの人頭税を課さざるを得ないほど窮乏していたのですね。
私は呼子町(現唐津市)のイカが好き(新鮮なイカ刺しとイカしゅうまいは最高です!)で、何度も隣りの唐津市にも行っていますが(模造天守ですが)海沿いに建った唐津城はなかなかの名城だなぁと思っていたのですが、そんなに財政は苦しかったのですね。
ありがとうございました!

No.4
- 回答日時:
ANo.1さんの回答に補足します。
その肥後細川家は明治以降、侯爵となり、日本有数の富豪となります。それなのに、江戸時代は貧乏とはどういうことでしょう?
実は、細川家というのが、熊本周囲を領有していた地方政権(大名、藩)の君主ですから、全部が自分のポケットマネーにはなりません。税収が入っても、様々な公益事業や人件費などで領民や家臣に還元しなければならず、それが大きな負担だったのでしょう。その上に、徳川幕府の要求で莫大な建設事業等を行わなければならず、どこの大名も大なり小なり苦しんだことでしょう。
それに対して、明治以降は地方国家の君主ではなくなり、基本的には、明治政府から与えられた金禄公債は細川家だけで使える財産となりますので、それや先祖伝来の財産を元手に、いろいろな事業に投資し、不在地主として地代を受け取るだけで、朝鮮にも工場を持つ大富豪となれたのです。
細川侯爵家は日本有数の富豪だったのですね。
>全部が自分のポケットマネーにはなりません。
そうですよね。ただ、竜造寺以来の重臣や内分の支藩の知行が大きな割合を占めた肥前鍋島家や、かつては西国将軍・姫路宰相百万石と言われ石高に見合わず1万石を超える重臣が多かった岡山池田家に比べれば、熊本細川家は、丹後の中大名が関ヶ原の軍功で一躍豊前小倉の大大名となり、さらに加藤家の改易に伴い天下泰平の世となった後に熊本54万石の日本有数の大大名となっていますから石高に占める家臣の知行分は鍋島や池田に比べれば少なかったのかなと思っていました。関ヶ原で4分の1に減らされた上杉や毛利が家臣数の多さから幕初から慢性的に窮乏していたのは分かりますが、細川家の場合、彼らとは逆に戦争などの大きな出費なくして大幅な加増を受けているので、彼らに比べたら余裕もあったのではないかと思ったのですが、実際は金気もよらない貧しい藩として知られていたのですね・・・
九州中部からだと、参勤交代の出費も大きかったのでしょうね。
ありがとうございました!
No.3
- 回答日時:
信濃の岩村田藩(内藤家)は財政が逼迫して領民から搾れるだけ搾ってもなお足りず、「内藤志摩守」の貧乏ぶりを揶揄する狂歌のようなものがあったはずです。
これはNo1さんの言われることと似ていますね。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%A9%E6%9D%91% …
大藩である会津藩松平家ですが、他の大名同様に窮乏していた所を、幕末に京都守護職を引き受けて京都での莫大な出費に苦しみ、そのツケを領民に回して厳しい搾取を行った結果、会津戦争に従軍した外国人が見た会津領内の農民は「極度に貧しく、他領の農民より体格が小さいのがわかった」そうです。「住民の体格が目に見えて悪化する」ほどの搾取(飢餓)は現在の北朝鮮に見られますが、会津藩の財政窮乏ぶりが周囲の藩と比べても酷かったのでしょう。
会津藩の統治に対する領民の恨みが深かったことを示すエピソードが多くあります。「官軍」に会津藩の弱点を手引きする、会津戦争の最中に、官軍の侵攻で会津藩の役人がいなくなった地域で一揆が多数起きた、官軍に囚われて会津を去る藩主一行を領民が完全に無視していたなど。
会津藩を顕彰する、「官軍」の酷い仕打ちを糾弾する著書を多く書いている星亮一氏の著書でも、「会津藩の領民からの不評」について触れられています。
「会津戦争全史」
http://www.7andy.jp/books/detail?accd=31601855
会津藩を擁護する立場の作家でも、会津藩の民政が良くなかったことは認めざるを得ないようです。
会津を攻略した「官軍」による略奪暴行は、会津藩士やその屋敷に対するもの、会津藩領の庶民を問わず酷いもので、満洲に攻め込んだソ連軍を思わせるエピソードが多くあります。ただ、会津藩の領民は「官軍に略奪される前に会津藩に徹底的に搾りつくされていた」のが実態のようです。
内藤家は「かねは内藤志摩守 すそからぼろが下がり藤」と詠まれるほど貧乏っぷりが知れ渡っていたそうですね。
会津藩は石高外の御蔵入領を幕府から預かられていたのにそれでも窮乏していたのですね。
確かに京都守護職の経費は膨大なものだったのでしょうね。
ただでさえ、東北地方は飢饉も続いたでしょうから会津領民の生活はひどかったのでしょうね・・・
官軍の仕打ちもひどかったけど、会津の民にしてもれば、それまでの領主の仕打ちの方が長く続いた分、恨みも深かったということでしょうか・・・
国際法の概念もない近代以前の戦争に関して、現代の視点から当時の官軍の仕打ちを糾弾しても仕方ないですし、当時の戦とはそういうものだと思いますが、150年経っても長州(官軍)憎しの人も実際にいるのですね・・・
ありがとうございました!
No.2
- 回答日時:
こんにちは、zzz33301さん。
神坂次郎著「猫男爵」?大名なのに、1万石以下の貧しい大名のお話です。猫の絵を売って、藩の財政を補い、明治政府にも参議かなにかで登用された
不思議なお話です。
http://www.bk1.co.jp/product/2228005?partnerid=0 …
参考URL:http://www.bk1.co.jp/product/2228005?partnerid=0 …
この本前々から読みたいと思っていました。文庫化されるのを待っているのですが・・・
わずか120石の交代寄合・岩松家のお話ですよね。
交代寄合には、他にも松平松平家(440石)、大崎中嶋家(600石)といった小身の家も多いですが、120石では貧乏どころの騒ぎではないですよね…
これでも名前を源氏の名流・新田姓から岩松姓に変えた事を評価?されて100石加増されての120石なのですよね…。それ以前はたった20石しか認められていなかったようです。よほど、自称源氏の徳川にとって血統上、新田家が目障りな存在だったんだと思います。
ありがとうございました!

No.1
- 回答日時:
肥後熊本藩主、細川家は「町人孝見録」に「わけて細川家は前々より不埒なる御家柄にて度々町人の借金断りこれ有り」と書かれており、世間には「新しき鍋釜には細川と申す文字を書きつけ置かば金気は出ず」とも言われるほどでした。
細川家はそんなに貧乏だったのですか。
54万石の大大名といっても内情は火の車だったのですね。
池田家や鍋島家あたりと違って、江戸時代に入ってから小倉から熊本に転封となり大幅な加増を受けている分、藩財政に占める家臣(重臣層)の知行はそんなに多くないのかと思っていましたが、大所帯だと出費もすごかったのでしょうね。
ありがとうございました!
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