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何故悪いことをしてはいけないのか?

A 回答 (18件中1~10件)

「してはいけないこと」を「悪いこと」と呼んでいるのです。


この説明で納得する子供はいないと思いますが、具体的な理由が殺人・窃盗などそれぞれによって異なること(生命はかけがえがない・盗まれた人が困るなど)を教え、「してはいけないこと」が世の中にはたくさんあり、それらを一括して「悪いこと」と呼んでいるだけであって、「悪いから悪い」という理不尽な説明さえしなければ、子供にもいずれ理解できるのではないかと思います。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。しかし、「してはいけないこと」=「悪いこと」という答えでは、子供の疑問では「してはいけないこと」(様々な(倫理的に)悪いこと)は何故してはいけないかというものになり、それに対し(生命はかけがえがない・盗まれた人が困るなど)倫理的な理由でこたえては、答えになってないのでは?何故なら私達の言う悪いことは、倫理的に悪いことであり、こどもはその悪いことを何故してはいけないかと訊いてきているのです。ですから、「しかえしされるかもよ!」と、忠告するなら別として、その疑問に倫理的に悪いからだと答えても子供は納得できないのではと思います。

お礼日時:2001/01/17 07:02

幼いお子さんに対する説明ということで;


『自分がされたら嫌でしょう?』というのが一番じゃないかと思うのですが。
自分がされて嫌なことは人にしない。
それを認識して行動することは大切だと思いますので。
以上kawakawaでした
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この回答へのお礼

答えてくれてありがとう。でも、「別に自分がされても嫌じゃないよ」といわれるかもしれません。

お礼日時:2001/01/17 06:37

「どうして地獄で生きてはいけないの。

」と同じ質問だと思うのですが、どうでしょうか。

悪いことをしているときが本当に嬉しいのか考えてみてください。悪いことをしている人にすでに地獄の苦しみが与えられ罰せられているのです。

自分の心や生き方の中に、よりよい生き方を目指すとき、心の安らぎがあるのではないですか。

「誰もがよりより生き方を求めている。」このように断言してもいいですか。
そうして、「誰もがよりよい生活を求める権利がある。」と。地獄でなくて天国のような世界で生きたいと願うとき、悪いことをしてはいけないということになります。
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この回答へのお礼

ご意見ありがとうございます。ですが、よりよい生き方は個人の育ちや個性によりばらばらに価値判断されます。まして、それが自分にとってよい生き方かどうかなんてことはきわめて個人的であるので、まだ良心のかせがないこどもには、他人の苦しみなんて気にもしないでしょう。ですから、「誰もがよりよい生活を求める権利がある。」のなら、他人の不利益をわかっていても、自分のよりよい生活を求める権利を尊重するでしょう(大人でさえ)。なぜなら、「誰もがよりよい生き方を求めている」からです。

追伸:{悪いことをしているときが本当に嬉しいのか考えてみてください。}
ある悪いことをしたい人がいます。その人は不運です。したいことをすれば、現代では、制裁を受けるかもしれないからです。なりたくて「悪いことをしたい人」になったわけではないのにです。

お礼日時:2001/01/17 07:22

しないほうが良いと考えてる人が、そうでない人を一般的に否定したがるから


です。その行動ベクトルが一般論か個人論かどうかで変わるということでしょうね。社会の大多数の人はそうした判断の良識の尺度を持っていると思います。
悪いと言われることでも生産的なことで仕組みが改善されるのであれば
誰が悪いと言おうが信念に基づいて実行するべきでしょう
タバコは体に悪いと誰もがいいます。 タバコをすわないと気分が悪い人もいます。 だから迷惑をかけない範囲で、自分だけのリスクでタバコ(体に悪い)ことをするのです。 ただし、その行動のリスクは自分だけが負うべきで周囲の人間を不幸にしたり迷惑をかけるものであれば、否定され報復されるでしょうね。
反面、交通事故と保険の関係などでは、加害者はゴメンで済むし、被害者は
へたをすると生涯苦しんでいく事実があっても。それらを金で解決すれば
それで良しとしている一般論もあります。ようなしくみが続いているのは、
社会に根ざす精神が個々の自分への事件と認識されるまで、それで良いと考えるからでしょうね。 ネットワークの新世紀にはそうした個と全体が調和する
社会になりそうなので、僕は楽しみにしていますよ。
悪いことをしては当然いけないですが、悪いことを直視しないことはもっと悪いことですよね。 一人はみんなのために、みんなは一人のために
ただの奇麗事でなく、実現できるテーマになると思いますよ、ネットワークが
ちゃんと進化すればね。 今までの理論で進化したら、つまらないメディアに
成り下がる気がしますけど(爆)
でしょうね。 
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この回答へのお礼

ご意見ありがとうございます。やっぱり、「しないほうが良いと考えてる人が、そうでない人を一般的に否定したがるから」と現状を伝えるのが一番でしょうか。疑問には答えられないけど、、、。

お礼日時:2001/01/17 09:04

何故悪いことをしてはいけないのか?


何故、倫理的にしてはいけないことをしてはいけないのか?

他人に迷惑をかけないためってのはどうでしょう?(例えば、○○ちゃんを泣かせてはいけない。かわいそうでしょう。とか、電車のいすに土足であがっちゃいけない。よその人がよごれるでしょう。とか。)
お子さんに説明される時、他者との利害関係(ギブアンドテイク)や自分の損得を持ち出すのはあまりよくないと思います。他者を一方的に思いやる気持ちを説明すれば理解はされるかわかりませんが、納得させることはできると思うんですが・・・
甘いですかね?
以上、子供を持たないcoolriverでした。
回答になってない気がする・・・
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この回答へのお礼

いえいえ、ありがとうございます。

お礼日時:2001/01/17 11:17

この問題は難しいですよね。


「悪いこと」は、その成員が属している社会的共同体によって決まる倫理なのか、それとも絶対的な倫理として決まるのか(宗教のように)、という時点でその位相も異なってきます。
また「してはいけない」はある倫理に基づく行動ですが、これも社会的共同体が慣習的に決めてきた行動的規範であるのか、あるいは絶対的な規範であるのか。
もちろん、社会的共同体というのもくせ者で、ある狭い地域か、グローバルな範囲かと、階層が変わるたびに倫理が変わることもあります。
またここではあえて「倫理」と行動的「規範」を分けましたが、規範も倫理の範疇の一つ(表現型の一つ)とも思えます。
結局、特に宗教的な背景が無ければ、それが絶対的な正しさを担保するできるものはないという前提で言えば、社会的共同体の一員であることに根拠を求めるしかないと思います。
子どもに答えるのであれば、これまでの暮らしの営みの中で、そのように決めてきた(意識的な決定があったにせよ、慣習的であったにせよ)ことで、皆がお互いによりよく生きられる、と考えたから、というところでしょうか。
もちろん、そうであるから、ある倫理が、ある個人の存在や利益を疎外してきたことは歴史の中に数々見受けられるところです。
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この回答へのお礼

なるほど。ここでは、ある倫理が、ある個人の存在や利益を疎外しうることを子供には言ってあげるべきですよネ?。

お礼日時:2001/01/17 11:30

この質問はお子さんがされているのですね。

で、それを分からせるのが目的なのですね。
あなたが「お礼」の中で述べられていること(「倫理的に悪いからだと答えても子供は納得できないのではと思います。」「『別に自分がされても嫌じゃないよ』といわれるかもしれません。」「まだ良心のかせがないこどもには、他人の苦しみなんて気にもしないでしょう。」)から察すると、お子さんにはいくら大人の理屈を並べても納得しないということになります。まだそこまで成長していない年頃なんじゃないですか。そういう子供には悪い事をしたときに厳しい顔で叱り付けたり、時には拳骨のひとつでもくれてあげて「悪い事をしたら困るんだ。」ということをまず分からせたほうが良いと思います。そして少し成長して社会(幼稚園や学校といった社会)に目を向け始めたらきちんと理屈で分からせていったほうが良いのではないでしょうか。
私はそうやって育てられました。
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この回答へのお礼

ご意見ありがとうございます。しかし、はたして、私達のように倫理を体得すること(良心のかせをえること)が、子供の幸せになるのでしょうか?

お礼日時:2001/01/17 15:39

私もすぐ下のmasmasさんのアドバイスに賛成です。


最近とみに「体罰」「暴力」といわれるような問題が増えていますが、これはひとえに、マスコミの過剰な報道などが原因で、本来であれば「しつけ」で済む話まで問題視されるようになっているからだと思います。(もちろん、本当に「しつけ」では済まないレベル=相手の肉体に著しい損傷を与える、はダメなんですが。)
結局、小さい子供(赤ちゃん)というのは、動物と同じなんですよ。口で言ってわからないことは、身体で覚えさせるしかない。「めっ!」といって、手をぴしゃり、あまりにも危険なことをしたら、「こら!」といって、おしりぺんぺん。これは基本です。(もちろん、相手に合わせて、「痛い」とぎりぎり感じるくらいの弱さでやらないと、単なる暴力になっちゃいますけど。)

ちなみに、ある程度大きく(幼稚園から小学校低学年くらい)なったら、
「それが社会(あるいは幼稚園、学校、地域など)のルールだから。ルールに理由はない。嫌ならママ(あるいはパパ、友達など)と離れ離れになるしかない。」
といえばよいのでは。その頃には、
「自分がされて嫌なことは相手にもしないようにね。」
というのが、感覚的に分かっているかもしれませんね。
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この回答へのお礼

ご意見ありがとうございます。しかし、「自分がされて嫌なことは相手にもしないようにね。」 というのが、感覚的に分かっている」状態に子供を育てあげるのは子供にとって幸せでしょうか?良心の責め苦と言うのは、しばしば自分にとって不利に働くことがあるのでは?そのことで、自分を犠牲にしたことが我々にはありました。

お礼日時:2001/01/17 15:47

年齢によるでしょうが...小学生ぐらいだとしたら


どこまでが悪いか、どこまでがいけないか、という規範論、低レベルの議論にならないよう注意することをお勧めします。

こういう質問は、分かってて言ってるんですよね。(そう思いたい....)

むしろ、「何が良いか、良いと思っていても、他人から見ればそうではないことすらある。迷惑かどうかは自分が判断するんじゃない、相手が思うことだから。」「例えば、家の鍵をあけたまま外出して泥棒に入られた。泥棒だけが悪いの?もし鍵を掛けておけば、そのヒトは泥棒にならずに済んだかもしれない。」
そのそういう、善の難しさ、という方向で話をされてはどうでしょう。

質問の目的の半分は、大人がしどろもどろになるのを見て権威を相対化しようということにあります。
とても歯が立たない、というところを自信満々、ばっちり見せつけてやりましょうね。
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この回答へのお礼

ご意見ありがとう。しかし、こどもは自分が得をすることを何よりも優先します。そこに良心の呵責は存在してないのです、、、

お礼日時:2001/01/17 15:50

 masmasさん、atsuotaさんの御意見に賛成です。



 中学校の教員を目指す学生に、「援助交際している少女と、それを止めようとする教師」とか、「人を殺すことが何故いけないかわからない子と、教えようとする教師」という割り振りで、ロールプレイングのようなことを毎年やらせています。やってるうちに熱くなってくるのが楽しいです。はっはっは。…あ、失礼。
ところが、ですね…勝てないんですねえ、教師が…。(「勝ち負け」と言うのも変ですが)

 善悪の基準は、時代により地域により文化によって変わってきます。決して普遍的なものではない。「教えようとする側」は、確実な基盤を持つことができません。ちょっとやそっとの「根拠」は援交少女レベルの知性・語彙力でもカンタンに突き崩せてしまいます。実際、そうなんです。
 でも、かといって、大人が諦めてしまっては元も子もないわけです。現実の問題として、譲れないところは譲れない。大人として、絶対に引くことができない一線というのは、確実にある。ではどうするか。
 現場での実践的な問題としては、「理詰めで納得させる」のは不可能です。また納得させる必要もないでしょう。ある意味、「ダメなものはダメ」でいい。「強制」でいい。「押し付け」でいい。そう思います。
 でも、そこには「愛と情熱」が求められます。自分で書いてて赤面してしまうようなクサい言葉ですが、実際そうです。
 最初に「教師役の学生は勝てない」と言いましたが、後で援交少女役の学生に聞いてみると「ちょっとあぶなかった」(説得されそうだった、という意味)と言うケースがあります。そういう場合、教師役が理詰めで説得するタイプ「ではない」ことが多いのです。かといってまた、一定でもないのが興味深い。若さと勢いに任せて情熱的に語り、叱咤するタイプ…聞き7、しゃべり3くらいで接する冷静なタイプ…ある程度の共感を示しつつも優しく諭すお姉さんタイプ…など。一定ではありません。一定ではありませんが、その共通するところはと言うと、「まごころがおもてに出ている」という点以外には思い当たりません。「自分のことを本気で考えてくれている」ということが伝われば、それは何かしら心の中のスイッチを動かすことになるのだろうと思うのです。
 実際には、これでもダメな場合が多いでしょう。しかし、少なくとも、子どもの心に何らかの種を蒔くところまでは、何とかいきたいものです。その種をどう育てていくのかは、もう子ども自身の力になってくるでしょう。

 ただ、今は教師と子どもの関係で話をしたわけですが、親と子になると別です。親が子に対して「愛と情熱」を持つのは当たり前。それが、親と子という距離の近さ故ゆえに空回りしてしまうことが考えられます。効果がなかったり、逆効果になって、かえって傷を広げたり…。そこがまた、難しい問題です。
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この回答へのお礼

実体験をもとに書いてくれて、参考になりました。ありがとう。親が子に対して「愛と情熱」を持つのは当たり前。親が思う子どもにとっていいことと、子ども自身が思う自分にとっていいことは、しばしば食い違うものですね。

お礼日時:2001/01/17 15:35

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