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私のことなんですが、たぶん、人よりも多く憧れを抱いてしまいます。しかも、その憧れの大半が、一般的には、特に何もあこがれるようなものではない、「友達との過ごし方」というのが多く、いわば、「青春」に憧れを抱きます。理由として、高校時代にあまり遊んでこなかったせいなのだろうかとも思うのですが、友達の特に、語り明かすということにとても憧れを感じます。
例えば友達の家でお酒を飲みながら、朝まで語り明かす、友達と飲み会でただただ語る、他にもさまざまありますが、ほぼ、友達関係で、友達との過ごし方ばかりに憧れてしまいます。
ただ、特に、「語る」ということに執着があるようで、全部の憧れに語るというようなことがあるんですが、これはなぜなんでしょうか。
私は、高校時代に友達が少なく、遊ぶ機会が少なかったことがかんけいするのでしょうか。また、単に、友達と語るということが、自分の中で美化されてしまっているだけなんでしょうか。こういう私は何なんでしょうか。

A 回答 (2件)

憧れていると感じているのであればそれを実践してみれば答えが出るのでは。


憧れているということは未だ手に入らずということではないのでしょうか。昔の記憶を探るよりよほど簡単だと思います。

>こういう私は何なんでしょうか
どうしてそこまで思うのでしょうか。だれしも憧れや過去の後悔は一つや二つはあるものでしょう?
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わたしも、高校、大学の時は同じ憧れを抱いていました。



ロシア文学の中で、登場人物の貴族たちが、信じがたいくらい饒舌に議論しあっていることに憧れましたし、西欧では会話そのものがスポーツ、キャッチボールのように技巧を凝らして楽しまれるものだとかいう話に感銘を受けたり、と。

わたしの場合は、家族の中で会話が非常に少なかったことが、そういう憧れを抱いた理由だと思います。そうした家族で育ったわたしは、話すことが極めて下手で、友人もわずかでした。その言葉の少なさを補うかのようにたくさん文学を読んだため、実際の会話と理想の会話が分離してしまった面があると思います。

質問者様のケースが同じかどうかはわかりませんが。

理想の会話、というところから、マルティン・ブーバーというユダヤ人哲学者が「我と汝」という著書で、人と人が本来に向き合い対話することは本来どういうことなのかを述べています。人には元来だれかに向き合う実存的希求がある。だれかと語り合いたいという憧れは、つきつめれば、そういった根源的な次元にまで行き着くのかもしれません。

何の小説かは忘れましたがヨーロッパの小説の中で、「彼は青春を楽しむことができる幸運に恵まれた数少ない人間の一人だった」といった記述が出てきました。また、以前NHKのイタリア語会話に出ていたイタリア人(名前は忘れました。ジローさんではなかった)が、子供のころ通りで遊んでいたら、通勤途中のサラリーマンが、「君ほど楽しそうに遊ぶ子供は見たことがない。君を見ていると幸せな気持ちになる」と言われた、という話をしていました。若いころに人生を楽しむことができることは、むしろ稀であり、幸運に恵まれた人のケースだということを知って印象深かったです。

逆に、その幸運に恵まれないに人は、若いころに戻りたいとは考えず、年をとることに充実を覚える幸せがあるかもしれません。わたしはそうです。
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