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ゴジラは第五福竜丸事件が下敷きになって作成されたという
ことが一般に信じられているようです。
調べてみると1954年3月1日に第五福竜丸事件が起き、
同年11月3日に「ゴジラ」第一作が封切られています。
その期間が8ヶ月しかありません。
ゴジラはその特撮の規模からいって、もっと前から企画されていたと思われます。
真相はどうなんでしょうか?

よろしくお願いします。

A 回答 (4件)

関係はありますが、事実はちょっと複雑です。


長文ですが、どうかお付き合いください。

終戦後8年経ち、日本でもまた戦争映画が作られるようになり、昭和28年に本多猪四郎監督、円谷英二特技監督のコンビで製作された「太平洋の鷲」続く翌年の「さらばラバウル」の成功で、特撮はいける!と確信した田中友幸プロデューサーは引き続きインドネシア独立に尽力した旧日本兵の映画(「栄光のかげに」)を企画しましたが、当時政治的理由(戦時補償問題が未解決)からインドネシア外務省の反対で企画が頓挫し、急遽新しい企画を考えなければならないことになりました。29年の初春のことです。
まさにその時期、3月16日の読売新聞で第五福竜丸被爆の世界的スクープが大々的に報じられ、日本中が震撼したわけです。近隣の操業船855隻のマグロからも放射能が検出され、500tのマグロが廃棄処分にされました。衝撃を受けた我が日本人の一人でもある田中は、「水爆実験で眠りを覚まされた太古の恐竜が人類に復讐する」というイメージが脳裏に浮かんだそうです。
田中は早速、核兵器の脅威を盛り込んだ「海底二万里から来た大怪獣」(前年のアメリカ映画「原子怪獣あらわる」の原題と同じ)と言う代替企画を当時の森岩雄製作本部長に提出、森の了承と、当時の東宝の小林社長の了解を得て、ゴジラの製作にあたったそうです。
これは推測ですが、森氏は前年公開されたワーナーの「原子怪獣あらわる」のヒットで、怪獣が世間に認知され、破壊スペクタクルものが、頓挫した「栄光のかげに」のスタッフをそのまま流用できると考えたのではないでしょうか?
ゴジラのデザインは当初、検討用台本を担当した香山茂の推薦で、彼の作品のイラストを手がけたイラストレータに依頼したところ、頭部がそのまんまきのこ雲のデザインで使い物にならず、彫刻家の利光貞三氏や東宝の美術の人たちが恐竜をモデルに作成したそうです。
森氏は「前年同功異曲の作品がアメリカから来たが、当事者本人の自分が両者の比較は出来ないが、彼らの3分の1の予算で、これだけのものを作れたのは立派なのではないか」と、語っておられました。
(なんで質問者様の質問と直接関係ないことをダラダラ書いたかと言うと、いまだに「原子怪獣あらわる」を「ゴジラ」の元ネタだと思ってるカンチガイ人間が多いので)

当時の東宝は労働争議の後遺症で疲弊し、小林社長は「黒澤君の『七人の侍』、稲垣さんの『宮本武蔵』、この『ゴジラ』で東宝の再興を世間にアピールしましょう」と田中に言ったそうです。ですので、当時の1ヶ月で製作するプログラムピクチャー、(今の2時間ドラマみたいなもの)とは違い、破格の制作費約1億をかけて製作されました。企画提出からプロットの練り直しまでで相当の時間を費やし、実際のクランク・インに扱ぎ付けたのが同年8月7日、完成が10月25日、公開がほぼ1週間後の11月3日でした。

質問者さまの「下敷きになっている」部分は、初期のシナリオで、
・晴天なのに死の灰を恐れて傘をさして歩く被害妄想の男性
・「当店は原子マグロ売りません」と張り紙した魚屋
といったシーンが冒頭にありました。

その一方、円谷英二監督は、「第五福竜丸事件」のかなり以前から、憧れの「キングコング」(RKO)のような怪獣映画をいつか作ってやろうと密かに企画を練っていたそうで、そのプロットはもともと噂話に聞いた、「インド洋には巨大な蛸がいて、漁船を襲う」と言うものでした。しかし田中の企画を聞かされたとき、さすがに蛸では怖さに欠けると、タコ案は却下したそうです。いくらなんでもクレクレタコラじゃなえ。
(まとめ)
田中:企画頓挫→第五福竜丸事件にショック→「ゴジラ」プロットのヒントになる
森:頓挫した「栄光のかげに」のスタッフが流用できる、特撮への先見性
小林:娯楽映画で東宝再建のイメージが出来る
円谷:元々怪獣映画を作りたかった。タコ怪獣の企画を持っていた。
と言うことでしょうか。
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「ゴジラ入門」という、公式本?には、水爆実験で、すみかが破壊され、怒ったと、あります。


第5福竜丸は、たまたま、日本の船が、巻き込まれた実験で、それ以前に、水爆実験が行われていたのではないですか?
神ならぬ身の人間が持ってはいけない力に対する象徴として、生まれ、プロットがたっていたら、製作過程で、印象的な事件が起こり、映画界に長く影響を与える怪獣がより、パワーアップしたかもしれません。
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現在とは異なり、50年代~60年代は日本映画の最盛期です。


毎週の様に新作映画が上映される時代で、企画から公開まで半年足らずというのも珍しくなかったようです。
そう考えれば、事件から8ヶ月後の公開というのはそれほど難しくはなかったのかもしれませんね。
ちなみに、ゴジラには原作とも言うべき映画が存在しています。前年に公開されたアメリカ映画「原子怪獣現わる」です。

ここからは予想ですが、田中友幸さんが「原子怪獣現わる」を見て怪獣映画を作ろうと企画、円谷さん達にも話をしていたところにビキニ環礁の事件が起こり、プロットを練り直してゴジラが誕生した、という感じなのかもしれませんね。
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いや、8ヶ月「も」ですよ。


現に第2弾の逆襲は「翌年4月公開」で第1作から5ヶ月しかないです。
昔は短期間でも作成可能だったです。
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