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大学のゼミで「『日本人という概念』がいつごろ生まれたのか?」を探るという課題を出され、目下資料をあさっております。

http://okwave.jp/qa2462440.html でも指摘されているように、日本人という概念と「明治維新」は切ってもきれない関係のようですね。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%8E%E6%B2%BB% … を読む限りでは、版籍奉還、廃藩置県などの動きを関連しているように思われますが、どなたか当時の詳しい状況を記した書籍などご存知ないでしょうか?

「日本人」という概念が、藩の行政レベル・住人レベルでどのように浸透していったのかを調べたいのです。フィクション的な小説でも、学術書でも構いません。よろしくお願いいたします。

A 回答 (7件)

他の方の書かれている通り、多くの人が日本を意識するようになってきたのは尊皇思想が広まり出してからになるはずです。



ベースは江戸時代の武家の学問の基本であった儒学・朱子学、これの上に水戸学を中心とする尊皇学派の影響が江戸中期以降強くなり、更には夷狄により印度・支那が植民地かされてきている状況が日本に伝わり、夷狄の脅威を実感しだしたことにより広く武士階級が主上を頂点とする日本と言う国を意識することになったのだと思います。

江戸初期の人物で後の尊皇学派に大きな影響を与えた山崎闇斉あたりを調べてみると面白いかもしれません。
倒幕派の考え方の基盤となった強烈な尊皇思想にも大きな影響を与えておりますが、佐幕派の代表的な会津藩の立藩時に招かれて朱子学を教えていたのも山崎闇斉です。
山崎闇斉は朱子学以外にも神道を学び国家神道の初期の構想者であり、尊皇学の立役者であり、日本と言う国を意識することになったことを調べるにはかかせない人物の一人だと思います。

武士階級の一部が意識しだした後、江戸の大役を担う者や大藩の藩主、または尊皇学の影響を強く受けた下級武士の間で日本という国家を強く意識するようになり維新に至っています。

庶民に広まったのは、この考えを強く持っていた薩長土肥を中心とする下級武士が明治政府を担い、彼らの思想を色濃く反映した教育を行うようになっていったことによると思います。
このため明治初期ではなく、中期以降に庶民が意識するようになってきたのも教育の浸透までに必要だった時間によるものだと思われます。

専門書だと何に書いてあったか探すのがきついため、最近読んだ小説でこれらに関係した内容があったものを紹介いたします。
津本陽 巨眼の男 西郷隆盛
この本でも山崎闇斉の影響を受け、皇国論のベースとなっていることを示す箇所が上中巻に多数出てきます。
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この回答へのお礼

山崎闇斉、ですか。恥ずかしながら、初めて耳にした名前です。提示してくださった文献をさっそく読んでみます。良回答ありがとうございます。

お礼日時:2007/05/27 11:45

結果から先に言いますと、「日本人」が形成されたのは日清戦争時期です。


「日本」という活字が出てきたのは皆さんが仰っているように8世紀頃からです。(そのころはヤマトとよんでいたそうですが)
さて、我々はどのように自国を意識しだしたのか、それは丸山真男も言っているように開国、他国の存在でしょう。(『日本の思想』という本に書いています。詳しくはそちらを読んでね)
さて、ではそれが、庶民にどのように浸透していったのか。それは日本国初の対外戦争である日清戦争です。(蒙古が攻めてきたのは違うのか、という反論がきそうですが、あの時代は「国家」ではなく「幕府」ですから。)
そのことについては大濱徹也『講談日本通史』が詳しいです。
「歴史と国民の創出」という箇所がよいのではないでしょうか。
国語が国民形成を促したとか、詳しいことが書いてあります。
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この回答へのお礼

>(日本の思想』という本に書いています。詳しくはそちらを読んでね)

押入れの中から引っ張りだしてきました。昔は、「難しい・・・」と思って読み進めるのを中断してしまいましたが、今読み返すと大変勉強になります。

参考文献の紹介、ありがとうございます。もっと、勉強していきます

お礼日時:2007/05/27 11:38

> 確かにおっしゃるとおりだと思います。

ただ、その「われわれ」
> を「日本人」と呼ぶようになったキッカケは何だったのでしょう
> か?そのあたりがひっかかっています。

 例えば私のハンドルが Roman0 であることの本質は、単にこれが他のハンドルに対してユニークな文字列だからです。知っている単語を適当に使ってみたに過ぎず、深い意味などありません。

 が、周りがいろいろ想像するのは自由でしょうね。その中にはもっともらしい、しかし現実とは違うストーリーがあるでしょう。

 「日本」という文字列に意味を求めるのは、その程度の話です。

 ちなみに、史書に「日本」という文字列が現れる初出は、702年の遣唐使の様子を描いた「続日本紀」の記事のようです。先にあげた高森明勅の本に記述があります。
 日本書紀自体の成立が720年ですから、その前に既に国号を改めて、その上で歴史書のタイトルにしたということでしょう。
 無論それ以前の国号は、「倭」です。魏や漢などのシナの諸国がそう呼んでいたので。

 まあ、想像すれば、例えば西の大帝国に対し、その冊封体制から離脱したいと考えて国号を考えたとき、西から見たら東だから日の昇る国という位置づけをイメージして着けたとしても、不思議はありませんが、所詮想像です。
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この回答へのお礼

>ちなみに、史書に「日本」という文字列が現れる初出は、702年の遣唐使の様子を描いた「続日本紀」の記事のようです。先にあげた高森明勅の本に記述があります。

貴重な情報をありがとうございます。「日本」という国号が、遣唐使の時代から存在していたとは…。「日本書紀」という書物名から察するに当然のことなのでしょうが、改めて考えますと時代の流れの壮大さを感じます。

お礼日時:2007/05/27 11:26

>地方自治が強ければ、つまり「自分は国民であるまえに信濃の国の人間だ」みたいな考えを藩の人がもっていたら、それは国家統合や国民意識の形成を阻害するのではないかと思うのですが。



先の書き込みでは一般庶民を主語にして論じましたので、教育などと比較して「版籍奉還は重要でない」と書いてしまいましたが、日本国民としての自覚を徹底させたい明治政府を主語とするなら、版籍奉還は決定的に重要です。
質問者様の重心がそちらにあるのでしたら、庶民サイドと権力サイドの両者を比較するのも面白いか、と思います。
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この回答へのお礼

>庶民サイドと権力サイドの両者を比較するのも面白いか、と思います。

今まで、どういった切り口で書こうか・・・と頭がモヤモヤしていたのですが、なるほど!出口が見えた気がします。ありがとうございます。

お礼日時:2007/05/27 10:44

「Aという概念を意識する」という態度は、「非Aという差別を意識する」行為で浸透する、と考えますので、とっかかりは攘夷思想について調べればいいのではないでしょうか。

構造としては攘夷のための、日本統合の中心を求め、尊皇思想と結びつくわけです。

さかのぼって考えると、卑弥呼のころの倭は、多数の小国によって構成された国家連合なので、対象となる意識は国家連合の支配層にしか生じないでしょう。
日本と称するのは天武天皇からですが、これは大陸との緊張関係を反映しており、一般庶民のレベルでは、異人もよそ者も似たような感覚だったかと。

一般庶民へ、国民という意識を植え付けたのは、明治政府です。国語の統合、天皇への信仰、大日本帝国の臣民となる教育などが重要でしょう。地方自治は国民意識と矛盾しないので、版籍奉還は重要ではないと考えます。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
>構造としては攘夷のための、日本統合の中心を求め、尊皇思想と結びつくわけです。

なるほど。まずは「攘夷」をキーワードに調べてみます。
一つ気になったことがあります。
>地方自治は国民意識と矛盾しないので、版籍奉還は重要ではないと考えます。

そうでしょうか?地方自治が強ければ、つまり「自分は国民であるまえに信濃の国の人間だ」みたいな考えを藩の人がもっていたら、それは国家統合や国民意識の形成を阻害するのではないかと思うのですが。

私が知識不足なだけでしょうか?

お礼日時:2007/05/21 01:14

 日本人という概念が生まれるためには、日本人でない人との接触が不可避です。

逆に、そういう人との接触があった時点で、彼我の差異を認識して「われわれ」の意識が明確になります。

 その意味では、既に卑弥呼は魏を頼っていますし、その前にも漢倭奴国王の金印も出土していますから、そこのレベルで生じていたと考えるべきでしょう。

 住人レベルとしても、既に6世紀には百済に援軍を出すなどしているので、異国と戦っています。百済は日本の親族だったという説もあるので、百済に対しては異国とは思わなかったかもしれませんが、そこと戦っていた新羅や高句麗などは、敵として異国として見ていたでしょう。当時は帰化人もけっこういましたから、そこと交流のある人は、やはり彼我の意識を持ったと言えます。
 その後、7世紀には白村江での戦いで大軍を失っていますが、それは多くの人間を徴兵したことを意味しますし、どこで戦うか(戦ったか)は徴兵された人が郷に戻れば話をするので周知されます。また、その後に防人という制度もできましたから、防人経験者からも郷に異国のことは伝わります。

 そういう蓄積があったから、聖徳太子は「東の天皇」と書いて、隋の冊封体制からの離脱を宣言したわけで、つまりこの時点で政府レベルでは日本人という概念は明白にできていると言えます。

 文献としては、とりあえず2件上げておきます。

 高森明勅の「謎解き「日本」誕生」
 西尾幹二の「国民の歴史」
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この回答へのお礼

参考文献を提示してくださってありがとうございます。西尾幹二さん、非常に議論を呼ぶテーマを扱われている方ですよね。これまでにも何冊か読ませていただいてます。今後も色々と勉強させていただこうと思います。

>彼我の差異を認識して「われわれ」の意識が明確になります。

確かにおっしゃるとおりだと思います。ただ、その「われわれ」を「日本人」と呼ぶようになったキッカケは何だったのでしょうか?そのあたりがひっかかっています。

お礼日時:2007/05/21 01:08

意識は浸透して行くので、途中経過を見るのは難しいです。


逆説的に、概念から外された人の扱いを調べた方が分かりやすいと思います。差別問題ですね。
同和問題、在日朝鮮人問題、思想犯。現代も続いています。
差別は災害があると顕著になりますので、関東大震災、東京大空襲、原爆などを順に追って行くのがいいかもしれません。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。確かに「途中経過」をみるのは難しいですよね。でも、意識が浸透していくにいたった「なんらかのキッカケ」はあったんじゃないかな…という思いで資料を読んでいます。

「差別問題」に注目なさっている点は非常に興味深いです。
dogdayさんのおっしゃるとおり、「災害」もなんらかの影響を及ぼしていそうですね。こういった切り口からも論文が一本書けそうです。

お礼日時:2007/05/21 01:00

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