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松涛館流空手では、武器術(棒、ヌンチャク、サイ等)練習しませんが、元々無いのでしょうか?船越義珍翁からその次の世代で失伝しているのでしょうか?それとも流派立ち上げ時から、武器術は取り上げなかったのでしょうか?糸洲安恒翁で同門下の摩文仁翁の糸東流には武器術があります。この辺り、ご存知の方いらしたら教えてください。

A 回答 (1件)

松涛館、つまり首里手の系統を辿ると元は武器術と深い関係があることがわかります。

首里手の祖は有名な唐手佐久川、佐久川寛賀で棒術の達人でした。佐久川は何度か北京に渡り中国武術と武器術の修行をしています。佐久川とともに北京に渡り修行した弟子の松村宗棍も棒の達人でしたし、薩摩に渡って示現流の免許も得ていました。そして松村宗棍の弟子が安里安恒、糸州安恒で、この二人から習ったのが松涛館開祖、船越義珍です。

松村宗棍は弟子に「徳嶺の棍」を、松村の孫はサイや鎌の技法を伝えたといいます。糸州安恒は唐手(空手)の本を出版する資格を有する者として三つの条件を挙げ、そのうちの一つに「武器に精通していること」とあったことを糸州の弟子である遠山寛賢が自著の中で書いています。ですから沖縄の糸州の系列では徒手の拳の他に武器術を修行する道場があります。

船越義珍の棒術の演武写真は残されています。しかし、船越がどこまで深く武器術の修行をしたか、この点は不明です。現在本土の松涛館の系列では武器は稽古しないところが多く、やっている者は独学かもしくは琉球古武術を別に修行している場合が多いです。唯一、船越直系の武器術と認められるのは、三男義豪が雑司が谷の松涛館で弟子とともに考案した棍(棒)の型「松風」です。この型は現在、日本空手道松涛会に受け継がれています。

船越の弟子であった平信賢は後に屋比久孟伝に師事、琉球古武術を修行しています。屋比久孟伝は糸州門下でしたが、琉球古武術の保存振興を考え「琉球古武道研究会」を発足、技の収集、体系化、保存に努めその技を平信賢に伝えました。平の技は井上元勝(琉球古武術保存振興会)に受け継がれています。

琉球では武器は「佐久川の棍」などのように受け継いでいる者の名前や地名などで多くは呼ばれていましたが、これはそれぞれ個人に単独で受け継がれている場合が多かったことを示しています。ですから習っている道場以外にも他に武器を習いにいくということもあったと思います。ちなみに今日の「佐久川の棍」が佐久川寛賀の伝えたものそのものであるかどうかは不明です。

糸東流空手の開祖、摩文仁賢和は13歳の時より糸州安恒から首里手を習っていますが、19歳で東恩納寛量から那覇手を習い始めた時から同時に他に琉球古武術(新垣の棒、多和田のサイなど)の修行も始めています。武を多岐にわたって修行、研究された方でした。甲賀流忍法の藤田西湖とも交流があり柔術を修めたり合気道の研究もされています。その集大成が糸東流と言えるでしょう。
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この回答へのお礼

詳しいご回答大変有難う御座いました。日本空手道松涛会に武器術の型があった事は始めて知りました。義珍翁が教えた松涛館系の大学空手部でも体系的な武器術稽古をしているのを聞いたことがないので、(1)義珍翁が最初から教えなかった、(2)かつてのJKAと松涛会の分裂、あたりがミッシングリングのようですね。当方は松涛館流なのですが、まあ他流派との交換稽古の機会に、武器術を練習させて頂くことにしております。

お礼日時:2007/06/19 14:32

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