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矢作橋(矢矧橋)は東海道53次の絵にもあったと思います。
徳川幕府は、軍事上の目的のため、主要な川には橋をかけなかったそうです。何川か忘れましたが、たしか天竜川か大井川か、静岡の川だったと思います。
どうして矢作川は橋をかけてもよかったのでしょうか?どういう橋が選ばれて、ある橋が選ばれなかったのは理由がありますか?

A 回答 (3件)

比較的



http://www.dokokyo.or.jp/ce/ce0505/essay.html

>川を越える方法には、橋、船渡し、徒渉(かちわた)しの三つの方法があった。このような違いは河川勾配と水深によって分類することができる。東海道の川は、急勾配の安倍川、大井川、富士川、酒匂川と比較的緩い矢作川、豊川、天竜川、相模川、多摩川の二つのグループに分けられるが、徒渉しであった大井川、安倍川、酒匂川は前者に、過去も含めて橋が架けられていた川は後者に属している。つまり急流河川には橋は架けられていなかった。そして常時水深が深いところでは当然のことながら船渡しになっていた。つまり渡河方法の違いは技術的な要因によっていたのである。

これが実情に近いと思う。
つまり橋の維持管理は大変で、お金がかかるから
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推測ですが降雨による出水で大河には橋が流される事が多く、その維持費が莫大になることが一つ、通行量が多い所は通行税などを費用にあてる事が出来ますが、当時の東海道はそのような通行量が予測できなかった。



この為大河の架橋は大都市に限られていたと思います。

矢作川は当初譜代の水野家の領地で、位置的に名古屋に近く、名古屋防衛の救援軍を送るにも名古屋から撤退する場合にも橋は有用だったからではないかと思います。
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江戸幕府にとっての仮想敵が矢作川の橋を渡っても、どこか、違う川で、食い止めることができると、判断したからではないでしょうか。

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