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古代ローマ帝国について質問なのですが、この時代の封建制度についてよくわからないのですが、聖職者つまり牧師??がトップでそのしたに領主??と武士、その下に平民でしたっけ?(正しいか解らないので間違っているのなら直してください)
なぜこの時代に封建制度が出てきたのでしょうか??
また荘園制度についても簡潔に教えて下さい。この時代日本でもそうだったと思うのですが、土地を持っている人つまり大名???が有力だったのでしょうか?
最後にローマ帝国はなぜ分裂したのでしょうか?
質問攻めで申し訳ないです。答えられる箇所だけで結構です。
世界史の教科書を見ても理解できなかったので、すごく簡単な説明でお願いします。

A 回答 (7件)

参考にさらに、大雑把な流れです。


荘園制については、nacamさんが既に的確な回答をされてるのでそちらを参考にしてください。

古代世界
・最初、地中海の東に文明の萌芽がうまれる。これがギリシア世界
このギリシアと入れ替わるようにローマが勢力を拡大。
古代末期には地中海世界はほぼローマの領土に。

中世
・ローマ帝国が衰え滅亡。
それと入れ替わるように、ゲルマン諸民族とローマ・カトリック教会を中心にしたキリスト教が隆盛を極める。
また、王様や貴族などの世俗権力とローマ教皇との間で権力の主導権争いの世紀でもある。
このとき、キリスト教的価値観により、古代ギリシア・ローマの哲学・文化・価値観などは失われる(暗黒時代と言われる所以)

近世
・いわゆる、ルネサンス時代。
このルネサンスがもたらした古代ローマ・ギリシアとイスラム教の価値観により、カトリック・キリスト教の価値観が揺らぐことに。
また、それにより技術力の向上へとつながり、大航海時代、産業革命を可能にした。

近代
・大航海時代。これによって、世界規模でヨーロッパ人が活躍。
また、富や経済力の強化によって、イギリスを中心に産業革命が起こる。
また、啓蒙思想により、人権思想や民主主義思想など現代でも重要な思想が形成される。

現代
・二つの世界大戦が戦争のあり方を大きく変え、またマスコミなどの発達によって、そのインパクトも強くなる。
これにより、軍縮の機運も高まるが、各国の思惑が絡んでなかなか進まず現在に至る。

とまぁこんな感じです。

>ヨーロッパ全体の流れをつかんだほうが良さそうですね??

はい。個人的意見ですが、上記のような大雑把な感じで大きな流れをつかんでおくと、個々の時代の詳しい解説を読むときに、前後関係がつかみやすくなります。
たとえば、近代の啓蒙思想の根底には古代ギリシア・ローマの哲学が流れていますし、ルネサンスなんかがその切っ掛けを作ったりしています。
まずは、大きな流れから、徐々に詳しく、というのが私の持論ですね。

>小学生やそれより下の子供がわかるくらい簡単に書かれている本(教科書でも解らないですね)を探しているのですが、何か呼んだほうが良い本か何かありますか?

やはり、学習漫画と呼ばれるものが良いかと思います。
http://www.amazon.co.jp/%E5%AD%A6%E7%BF%92%E6%BC …

上記のような漫画は、たいていの図書館には置いてあります。
漫画なので、文字数も少なく、絵や図を使ってわかりやすく解説されています。
このとき、あまり年号を覚えようとかせず、大きな流れをつかむように心がけてください。
試験を受けるのでもない限り、年号なんて必要なときに年表を見るようにすれば良いので。
「1500年代の出来事だ」とか、「14~15世紀はこんな時代だった」程度に掴めれば十分だと思います。

大きな流れをつかんだ後、自分がもっとも興味をもった時代・国を中心に学んでいけばいいかと思います。

>回答者さんはどのように日本史・世界史を勉強されたのでしょうか??

私自身は、教科書は殆ど読んでないかもしれません。(笑)
上記のような学習漫画を中学のころに何度も読み返していましたね。
一社だけじゃなく、幾つかの出版社の物をよみました。
お陰で、高校での世界史の授業はすんなり頭に入った感じです。
日本史のほうはてんで駄目なんで、目下学習漫画講読中です(笑)
今は世界史の方は、古代ローマ~イタリアル・ネサンス中心に学術書を読んでます。

なので、学習漫画>高校レベルの教科書>学術書とレベルを上げていくと良いと思います。
ただ、このときいくら簡単に読めるからといっていわゆる「教養本(「学校で教えない歴史」、とか「真相○○」といった感じで大衆受けするタイトルの本)」は避けた方が良いです。
これらの本は、読みやすい文体の反面、学会ですでに否定されたネタや事実の歪曲などあることが多く、信じ込むと痛い目にあいますので。
ある程度、知識が身についてから読むほうが良いです。(学術書よりもレベルは上と思ってください)
兎に角、今は基礎力をつけるために学習漫画をお勧めします。
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この回答へのお礼

すごく詳細に説明していただきありがとうございました。
これから漫画を通じて流れを把握し、それから一般の本を読み力をつけていこうと思います。
本当に役立ちました・

お礼日時:2007/07/07 11:27

2番です。



>元々ローマは貴族と平民の上下関係だったじゃないですか?その後共和制になったり独裁制(カエサルの時代?)にたって、最後の三頭政治のオクダビアヌスが皇帝になったと思うのですが、これは三頭政治を行ったが失敗でローマを一つにまとめることを思い、この人が皇帝になったのでしょうか?

元々のローマは、王制でした。
王の横暴に対し、ローマ貴族たちにより王が追放されて共和制になります。
しかしこの共和制とは、ローマの有力者たちだけの共和制であり、貴族たちの集まりである元老院が、絶対的な力を持っていました。
それに対し、庶民が反乱を起こしたため、平民の代表である護民官をもうけて庶民の保護を打ち出しますが、基本的には元老院が絶対的な権力を握っていました。
しかし、戦争などの時は、いちいち元老院で決めていられないため、臨時の職として、「独裁官」という職を設けていました。
独裁官は、元老院の決議を経ずに政治運営ができる絶対者でした。
この独裁官が、実質的に常職化し、皇帝となります。

実質的にその最初が、カエサル(シーザー)で、カエサルを継いだ甥のオクタビアヌスにより、徐々に帝制への移行が行われます。

>また皇帝(帝政と本には書いてありましたが違いがわかりません)はその後どんどん交代していきましたが、これはどのように選ばれるのでしょうか??

当初は、オクタビアヌスの一族で継承してゆきますが、後には養子が継いだり有力軍人がクーデターを起こして帝位についたりしました。

>有力者が領土を得てと書かれていましたが、有力者は貴族のことなのでしょうか?

貴族である場合もありましたし、有力商人、有力官僚、有力修道院、有力蛮族などいろいろです。
荘園制が誕生したころは、まだヨーロッパでも身分制度が確立していませんでした。

>西ローマが滅亡した後、ゲルマン人とキリストの教皇が進出してきて前の西ローマの位置に来ましたが、そのときの荘園制度がよくわかりません。なぜこの荘園制度を取り入れたのでしょうか?西ローマ存在のときではなく・

荘園制は、ローマ帝国の滅亡によって生まれたのではなく、フランク王国の滅亡によって生まれました。
カール大帝の時代に、最盛期となったフランク王国は、その後分裂し、各王国ともフランク王国一族(カロリング家)が絶えてしまいます。
そのため、各王国に絶対的な力を持つ有力者がいなくなってしまいました。
さらにそのころノルマン人が、ヨーロッパ中を荒らしまわり、国王の力をあてにできない諸侯は、自力で自分達の領土を守る必要がありました。
また、ノルマン人の来襲の無かった地域でも、近隣との領土扮装が多発しても、仲裁する王の力が弱すぎたため、まともな仲裁ができなかったため、ここでも自力で領土を守る必要性がありました。
本来封建制は、臣下が王に忠誠をつくす代わりに、国王は臣下の領土の保全を約束するものですが、その国王の力をあてにできない諸侯の領土には、王権が及ばなくなります。
これが荘園制の始まりです。
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古代ローマに限定せず、ヨーロッパの歴史を大きな流れで整理してみますね。

(範囲が絞りきれないので、長文になってしまって申し訳ありませんが、、、)

まず、ギリシアよやオリエントで文明の萌芽が現れます。
で、ギリシア文明と入れ替わるようにローマが勃興してきます。

まず、ローマは今のイタリアにあるローマ市の当りに住み着いたラテン系の人々がその祖だとされています。
ギリシアのように都市国家としてローマも出発します。
そして、これもまた他の例に漏れず王様と裕福な人(貴族)と平民・奴隷という身分も出来上がります。
このときに、周辺の都市を攻めて併合していきます。(戦い仕掛けた理由は、お嫁さんが欲しかったからだとか・笑)
しかし、王様が私利私欲を満たすためだけになり、貴族が怒って王政を打倒します。
そして、今後王という独裁権力者が出ないように貴族制を形成していきます。(教科書では共和制と書かれることが多いですが、この時期は貴族のみが政治に参加していました)
しかし、生きていくための必要から戦争をすることが多くなりました。
当然、この戦争に駆り出されるのは平民なのでが、彼らは戦争の御陰で徐々に裕福になっていきました。
そこで、政治が貴族に独占されているのを不満におもうようになりました。そこに登場したのがグラックス兄弟です。
彼らは、平民代表として貴族との政争に勝利し、平民の意向を政治に反映させるようにさせました。
この制度のもと、ローマは徐々に勢力圏を拡大していきました。
そして、当時地中海域の有力勢力だったカルタゴを壊滅しました。

時代は下り、有名なユリウス・カエサルの時代。
この時、政治の要である元老員は腐敗しその機能を低下させていました。
また、イタリア全土はもちろん、ギリシア・オリエント・北アフリカ・スペイン等々、広大な領土を持っていました。
このままでは、崩壊するということを鋭く見抜いた彼は、元老員から政権を奪い1人の権力者が頭脳となって帝国を維持(これ以上の領土拡大はせずに)するほうが良いと考えました。
そして、ドナウ・ライン川を防衛戦として利用することも考えます。
この考えを実行するためのガリア遠征を行いました。
しかし、王政アレルギーのあったローマ人に帝政にしましょうなんて言えません。
なので、巧みに政治的に立ち回る必要がありました。
そこで取ったのが三頭政治でした。
その後、最大のライバル、ポンペイウスとの争いに発展、勝利しこれでカエサルの政策(野望)なったかと思ったところ、彼自身が暗殺されてしまいます。
そこで、白羽の矢がたったのがオクタビアヌスでした。
しかし、カエサルの元で戦い、自分こそが後継者だと自認するアントニウス
は面白くありませんでした。
で、この二人の戦いになったときにオクタヴィアヌスは養父カエサルに習い三頭政治をとりました。
その後、彼が勝利してから慎重に帝政へと持って行きます。
慎重に慎重を期したので、だれも帝政に移行したとは思わなかったほどでした。(なので、初代皇帝ですが彼自身は皇帝と名乗っていません)
※ドイツから北を除くヨーロッパとイギリスの南部、アフリカ北部と中近東が大体の最大勢力だと思ってください。(詳細は別途確認してください)

その後、帝政の元でしばしの平和を享受します。
しかし、栄枯盛衰の例に漏れず国力が衰えていきます。
国力の乱れで国が乱れ、とても1人の皇帝では対処しきれなくなりました。
そこで、1人の皇帝ともう1人の皇帝後継者という形で2人にし、東西に分担して担当しました。
その後、何度か1人に戻ったり2人になったり、皇帝交代劇を繰り返したりしながら、テオドシウス1世が帝国を東西に分け、息子に分け与えてからは、再び一つに戻ることはありませんでした。
テオドシウス1世自身は、東西に分裂させる意図はなく先例に習ったに過ぎませんが、結局、権力争いから再び帝国が一つに戻ることはありませんでした。

この国力低下したローマを狙ったのが、ゲルマン民族です。
彼らは北のフン族に押されて、色々と移動していました。
そして、西ローマ領だったとこに次々と自分たちの国を作ったりしました。
そして476年に自然消滅という形で、西ローマ帝国は滅んでしまいます。

変って、支配するようになったのがゲルマン人の制度を取り入れた人々とキリスト教の有力者となったローマ教皇です。
ローマ教皇が神の代理人として、王様や皇帝の権利を認めるといった感じになっていきます。
ゲルマン人の従士制が、所謂封建制につながりました。
これは、有力者と騎士が主従関係を結ぶ制度です。
そして、有力者は部下となった人に土地を分け与えます。
その土地には、小作農(他人に雇われ作物をつくる)が住んでいて農業に携わるのが主でした。(これが荘園)
そして、この荘園を幾つも持っていたり、広い荘園を持つ人が有力者となりました。
また、複数の人を主人に持っても構いませんでした。

その後、農業技術の進歩から生産力が向上し、人口が増えていきます。
また、ルネサンスによって、古代ギリシア・ローマの知識やイスラムの知識を取り入れキリスト教の価値観から解放されました。
この時に、ほぼ同時進行という形で「宗教改革」がおこなわれます。
このときに、ローマ教皇や教会の言うことなんか聞いてられん!!と言ったのがプロテスタントです。
そして、このプロテスタントの宗教指導者とカトリックの「神父」とを分けるためにプロテスタントの宗教者を「牧師」と呼ぶようになりました。

その後、大航海時代、啓蒙主義の台頭、産業革命を経て現在に至るといった感じです。

少し駆け足で纏めてみましたが、参考になれば幸いです。

この回答への補足

どうもありがとうございました。なんとなくですが流れがわかりました。ローマ史だけではなくヨーロッパ全体の流れをつかんだほうが良さそうですね??
最後の補足ですが、我慢して回答していただくことを望んでいます。
西ローマが滅亡した後、ゲルマン人とキリストの教皇が進出してきて前の西ローマの位置に来ましたが、そのときの荘園制度がよくわかりません。なぜこの荘園制度を取り入れたのでしょうか?西ローマ存在のときではなく・・・。また有力者と部下の従順関係と書かれていましたが、
有力者とは教皇の事をおっしゃっているのでしょうか?
すいません。なんせ調べても人からの簡単の説明ではないとよくわからないので・・・・お願いいたします・
最後に・・・・・・・
今すごく世界史を学びたいのですが、難しい本から読んでも訳がわからなくなるので小学生やそれより下の子供がわかるくらい簡単に書かれている本(教科書でも解らないですね)を探しているのですが、何か呼んだほうが良い本か何かありますか?
回答者さんはどのように日本史・世界史を勉強されたのでしょうか??

補足日時:2007/07/06 00:53
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まるで災害に襲われた家屋のようにメチャクチャで、いったいどこから手をつけていいのか途方にくれますが・笑、ま、自分なりに頑張ってみます。



まず、古代ローマは最初に王政で始まりました。伝説では7人の王がいたといわれています。
その後、ローマは共和制になります。難しい説明は避けますが、今の民主主義に近い制度だったと思ってください。
ローマが共和制から帝政になったのはアウグストゥスからといわれていますが、アウグストゥス自身は皇帝を名乗っていません。
395年にローマ帝国は東西に分裂します。ローマを首都とする西ローマ帝国と、今のイスタンブール(当時の呼び方はコンスタンティノポリス、別名コンスタンティノープル)を首都とする東ローマ帝国(別名ビザンツ帝国)です。
西ローマ帝国は、東ローマ帝国より早く滅亡しますが、フランク王国(後のフランス)のカール大帝がローマ教皇から西ローマ帝国の後継者と公認されて、これが後の神聖ローマ帝国になります。

まずこの歴史の流れを把握することから始めてください。あなたの質問は、掛け算割り算も理解できないのに二次関数を理解したいというようなものです。
ちなみに、牧師とはプロテスタントの聖職者のことです。プロテスタントは中世になってからカソリックから分裂して誕生しました。ローマ教皇はカソリックですから、カソリックの聖職者は神父です。
また武士は主に日本の武士に対して使うものです。欧州の場合は騎士を使うのが一般的です。ついでに、土地を持ってりゃ大名じゃありません。

この回答への補足

・・・・ありがとうございます。
最初は王政と書かれていましたが、共和制の前に貴族と平民がいてその後平民の不満がつもり、共和制になったと理解したのですが、まったく間違っていますか??
そのほかアウグストゥスも初代皇帝と書かれていたので皇帝だと思ったのですが・・・・。

私は日本史も世界史もまったく理解していないようですね?
何から始めればよいやら・・・・・。

ちなみにこの無知の私に大名とは何かまでも教えてください・

お願いします・・・・・・・・。

補足日時:2007/07/05 19:43
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もしかして「古代ローマ帝国」でなく「神聖ローマ帝国」の方では?



http://wpedia.search.goo.ne.jp/search/%BF%C0%C0% …
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質問内容に混乱や誤認が多すぎて、理解できると思われる回答できません。


とりあえず、個々の質問には答えてみますが。

聖職者とは、カトリック教会の司祭以上の人を言います。
ローマ帝国の初期は、キリスト教は認められていませんでした。
キリスト教を公認したのは、コンスタンティヌス大帝(311年)です。
ローマ帝国においては、聖職者と行政は完全に分離されており、聖職者が帝国のトップになる事はありませんでした。
また、各種宗教が認められており、完全な信教の自由が認められていたため、ミトラ教やエジプトのイシス信仰のようなものもローマ帝国内で盛んでした。

西ローマ帝国で、キリスト教が絶対的な力を持つようになるのは、テオドシウス帝以後ですが、この時以降も、最高権限は皇帝が握っていました。
当時は、ローマ教皇というシステムは無く、単なるローマ教会の総主教でしかありませんでした。
教皇という制度ができるのは、452年フン族が、ローマに侵攻しようとした時、当時の西ローマ皇帝が逃げ出してローマの総主教レオ1世が、フン族と交渉してローマを略奪から救った事によります。
西ローマ帝国は、その20年後滅びます。
東ローマ帝国では、皇帝が最高位で、コンスタンティノープル総主教を完全に支配化に滅亡までおき続けます。

また、ローマ帝国の時代には、封建制は行われておらず、官僚制が惹かれていました。
封建制や荘園の出現は、ローマ帝国崩壊後のさらに後のフランク王国の崩壊後に発生してきます。
東ローマ帝国においては、テマ制崩壊後に発生してきます。

封建制度が生まれたのは、当時の国王に実力が無かったため、完全に国を統治できなかったためです。

>土地を持っている人つまり大名???が有力だったのでしょうか?

逆で、有力者が領土を得て自立していったため、荘園制ができたのです。
つまり、有力者が、自分の領土から国王の権力を無くしたものが荘園です。
その荘園の領主たちを諸侯と言います。

>最後にローマ帝国はなぜ分裂したのでしょうか?

これを簡単に言いますと、各地域の発展方向が異なり、ローマ帝国という1つの国家として維持できなくなっていたためです。
そのため、ディオクレティアニス帝の時代に4つに分割され、コンスタンティヌス帝により1つに統一されますが、60年後東西にまた分割されます。
このローマ帝国の東西分裂は、ローマを中心としたラテン世界と、コンスタンティノープルを中心としたギリシャ世界との分裂でもありました。
この後東ローマ帝国は、急速にギリシャ化が進み、ビザンツ帝国と呼ばれるようになります。

この回答への補足

回答ありがとうございます。自分の意味不明な質問に答えていただき何よりです。何せ最近世界史を勉強し始めたばかりでまったくといっていいほど解りません。
補足なのですが、元々ローマは貴族と平民の上下関係だったじゃないですか?その後共和制になったり独裁制(カエサルの時代?)にたって、最後の三頭政治のオクダビアヌスが皇帝になったと思うのですが、これは三頭政治を行ったが失敗でローマを一つにまとめることを思い、この人が皇帝になったのでしょうか?また皇帝(帝政と本には書いてありましたが違いがわかりません)はその後どんどん交代していきましたが、これはどのように選ばれるのでしょうか??
もう一つ回答者さんが有力者が領土を得てと書かれていましたが、有力者は貴族のことなのでしょうか?
またまた質問の意味が解らないかもしれませんが、回答のほうお願いします。

補足日時:2007/07/05 15:43
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西欧における封建制は、西ローマ帝国滅亡の混乱により、最低限の秩序を回復しようとする動きの中で成立しました。


極めて簡単に申し上げれば、もう少し調べた上で質問してください。
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