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 『戦国大名の危機管理』黒田基樹氏著を読みますと、北条氏康が非常に進んだ戦国大名であることが理解できます。この中に「百姓に礼を尽くす」政策が様々上げられていますが、そこからは、一般によく言われる農兵を多数抱えた戦国大名軍というものは誤った認識であることが結論付けられそうです。農民を参戦させるための書状などは登場しますが、これがかえって動員が限定的で部分的・一時的なものであったことを示しています。
 天下統一段階の総力戦になると「御国」理論によって農兵の参加も少なからずあったかも知れませんが、それ以前の段階では寄親寄子制に基づく動員が基本であったと思われます。こうした見解は『戦国大名の危機管理』のみならず、きちんとした研究書が一般に指し示している傾向だと思われますが、そうなると集団戦法あるいは兵科別戦闘などは、ほとんど無かったように思われてきます。寄親寄子制では、家長である騎乗の武士に徒歩武士が数名、中間や小者が徒歩武士の倍程度の人数、といった構成が標準で、騎馬の家長を中心にまとまって行動していたはずです。
 こうした事情を踏まえた上で、
(1)戦国時代に農民は多数合戦に動員されたのか?
(2)戦国時代に集団戦法は本当にとられていたのか?
 を質問したいと思います。また良い参考文献などありましたらご紹介ください。

A 回答 (4件)

北条氏康の軍役帳より各家臣の禄高に応じて、軍役負担を決めているので、戦の経験のない農民を急に、兵士に徴用することはないと思いますが、その家臣の大半は半農半士の土豪というべき地侍で、兵士も半農半士でした。

    しかし氏康の軍は石高より推定される人数より少なく、余裕のある軍役で訓練もかなりされていると思われ、連戦連勝も当然のようです。    (川越戦の7~8千人は少ないようです、上杉謙信の常時8千人の軍も石高より見ると同様少ない)
武田信玄も同様家臣に軍役帳を発給していますが、軍法では
 「知行持ちの家臣が武勇のある者を除いて一般の農民、職人などを連れて参陣してはならない。」
とあり戦を知らぬ農民を徴集しての、員数合わせを禁止ししています。
尤も「家臣が自弁の兵糧を、軍役で決められた以上の人数をつれて参陣すれば、ふえた分の兵糧はこちらで支給する」
とあり増員の期待もあったようです。

多くの戦国大名では兵の大部分は半農半士でした。   ただ農業の合間の戦の訓練の違いが、家臣の掌握度と共に軍の強さに関係したと思います。
違うのは後半の織田信長は財力の強さにより、専業兵士を沢山持ちこれが天下取りにつながりました。    しかも直属家臣の数を少なく、規模を大きく統制の有る近代的軍団化しました。
他の大名は雑多な家臣の集団で、各軍団の規模も大小まちまちで、統制のある軍隊ではありません。
今川義元は国人と呼ばれる配下の豪族の統率がゆるかったと言われています。

集団戦法については難しいのですが、江戸初期の合戦図屏風などから見ると、鉄砲足軽(弓も)は集団ですが、穂先を揃えた槍足軽の集団は見られません。    各武士もばらばらで戦い集団戦法は見られません。

集団戦法は戦国末期に、小豪族が消えてからのものでしょう。
江戸後期の戦国合戦図には集団戦法が見られますが、江戸大名の組織化された軍団をもとにした時代考証不十分なものと考えられます。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
とても参考になる見解ですが、「家臣の大半は半農半士の土豪」という点が気になります。戦国時代の農村では、広く村請が成立し、村が非常に強力な自治組織となっていたと認識しています。「土豪」という言葉はそれなりに幅広い定義となっていると思いますが、基本的には村の名主など有力者階級で、一村に一人ないし数人が存在していたと思われます。彼らは相当の規模の田畑を経営しており、彼らが農業に直接従事していたとは考えられません。また「知行持ちの家臣が武勇のある者を除いて一般の農民、職人などを連れて参陣してはならない。」と回答されているように、土豪である当主が参陣する際に連れる従者も武士や当主の家の家人などであったと考えられます。したがって「半農半士」という言葉の意味は、「村に直接居住しその地の有力者である武士」という意味で農耕に従事するという意味はないと思われます。回答の趣旨はそのようなものであると理解しました。
信長の「専業兵士を沢山持ち」ということを裏付ける史料なり、文献をご存知でしたら是非教えてください。

お礼日時:2007/07/16 09:40

No.3です。


1.半農半士について
学研  歴史群像シリーズ (2) 「戦国(関東)三国志」の中の
p78 小和田哲男 三英雄が組織した家臣団とブレーン  をご覧下さい。
2.織田信長の軍団について
日本放送出版協会   歴史への招待 26 p31に 原田伴彦氏が書かれたものをご覧ください。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
確認してみます。

お礼日時:2007/07/16 20:29

戦国期に限らず当時の農村は自衛の為、半武装が当たり前でした。


従って半農半武士といえる状態が普通であったといえます。

戦争は数的優勢が勝敗を分けるということもあり、専業の武士階級だけでは不足が生じる為、屡々農民を動員せざるをえなかったのです。
農民側も恩賞や出世を望む者は自発的に参加したのです。

これが次第にシステム化され、領主側の法令化による義務化と変化しました。

2.集団戦法の採用は人数の増加と共に次第に発達し、武器の変遷の影響もうけました。
槍は最も有効な武器でしたからこれの操法は重要で、突く事は修練が必要であったので、叩き伏せる方法がとられることもあったようです。
多くの農民兵は同郷単位でしたから団結し易く、戦いが優勢な間は有力な戦力でした。
鉄砲の普及以後は猟師など農民以外も動員対象となりました。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

お礼日時:2007/07/15 16:01

(1)長久手合戦の後に家康の家臣が出した命令によると「5つの郷で相談の上、大きなのぼりばた1本と腰ざしの小旗を人数分用意せよ。

(中略)15歳から60歳までの者は、ひとり残らず、命令があり次第出動せよ。各郷の責任者は全員乗馬せよ」というのがあるそうです。
また、天正15年の北条氏の動員令にも「権力者の家来で本来は軍役を勤めない者や商人や細工人でも、15歳から70歳までの者は名前を書き出しておけ」とあるそうです。状況によっては総動員もあったようですね。

(2)ちょっと手元から資料が出てこないのですが、雑兵物語に「槍はみんなで心ひとつに合わせて上から叩くべえ」みたいなことが書いてあったはずです。

「戦国合戦の常識が変わる本」というのが洋泉社というところから出ていたのですが、絶版になったようです。(1)の回答はその本から抜粋しました。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
「天正15年の北条氏の動員令」と言われているのは、人改令のことであると思います。動員をかけるためには、事前に郷村の実態を把握しておく必要があり、そのために天正十五年からの豊臣政権との戦争を控えた時期に出されたようですね。

お礼日時:2007/07/14 19:42

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