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幕末の志士によく、○○藩を脱藩し各地を流浪、とありますが脱藩の罪は死刑がたいがいでは?
脱藩しなくても各地へは行けたのでは?彼らはなぜそのようなリスクをおかしてまで脱藩をしたのでしょう?

A 回答 (6件)

独裁政権の圧政下に有り、下級のものたちは、ひどい扱いを受けています。


上士などと呼ばれる、一部特権階級から見れば、害虫と同じ扱いを受けたりもします。
また、勝手に各地に行くなどは出来ませんし、行けば脱藩したとみなされます。
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藩に累が及ぶ可能性のある行動をするつもりでいる場合も当然脱藩した(させられた)でしょうね

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 一方では、私塾を中心として外国からの自由な思想が浸透しつつあり、これらに触発されて、どうしようもないジレンマの内に一大決心をしたのでしょう。


 脱藩すれば、家族もただでは済みませんから、相当の覚悟が要ったはずです。

 司馬遼太郎の「竜馬が行く」とかお読みになったら、アニメや漫画の「おーい!竜馬!」も良くできていると思います。
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>脱藩しなくても各地へは行けたのでは?


>彼らはなぜそのようなリスクをおかしてまで
>脱藩をしたのでしょう?

藩士が藩外に行くには、藩の許可が必要でした。
「竜馬がゆく」を読むとよくわかりますが、
「剣術修行」とか「(江戸で)学問を学ぶ」という
理由で藩庁に申請をしています。

それらの名目で藩外活動ができる場合は、彼らは
脱藩していません。

例えば長州藩の場合、勤王派が政権を握っている
時が多かったので、藩士の活動は野放しに近い
ものがありました。脱藩したのは高杉晋作くらい
でしょうか。
(その彼もわざわざ自藩に戻って、牢獄入りしたり
 しています。天才のすることはようわからん。)

しかし、藩内の政治的理由で自藩内にいられなく
なった場合、または政治活動のため藩外活動を
したいのだが許可を取れそうな名目が無い場合に
藩士が脱藩したと考えられます。

典型的なのは土佐藩ですね。
下の方が述べているように、上士と下士の対立構造
があり、勤王思想をもったのは下士の方でした。
政治の実権を握っている上士が下士の言い分など
聞くはずもないから、吉村虎太郎のように勤王の
ために脱藩したり、武市半平太のように藩内の
実権掌握のため政変を画策し、最後には獄死するなど
悲惨な運命をたどります。

そんな中で、超然と己の道を貫いた坂本龍馬は
いささか例外的な存在ですが、土佐藩にいる限り
彼が世に出る芽がないので、脱藩して新天地に
旅立ったわけです。
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幕末の諸藩の事情を、もう少し説明します。



幕末の志士は、たいてい下級武士でした。
しかし、それぞれの武士が属する藩の事情により、彼らの
境遇は様々でした。


長州藩は、家老など藩の要職に就くことができる身分の高い
武士まで勤王思想が広まったため、下級武士の行動は比較的
自由でした。

高杉晋作は上級層に属しますし、桂小五郎は生まれは藩医
の子で下級層なのですが、上級武士の家の養子となったの
で、上級層の立場で行動できました。

後には、彼ら自らが藩の要職につき、藩ぐるみでの討幕活動
を行います。


薩摩藩の場合、討幕・勤王活動をしたのはやはり下級武士
でした。
西郷隆盛・大久保利通など、主要人物のほとんどは下級武士です。

しかし、薩摩の島津家の藩主は名君が多く、幕末の非常時
に彼ら下級武士をどんどん抜擢します。
先ず、西郷隆盛が当時の藩主であった島津斉彬から抜擢され、
藩主の秘書的な立場で活躍します。

島津斉彬の次の藩主の父親であり、実質的に薩摩藩の権力
を握っていた島津久光は、西郷隆盛と仲が悪く、その他の
事情もあって西郷隆盛は島流しになるのですが、彼の同志
である大久保利通が島津久光に取り入り、抜擢を受けて藩の
要職に就くことに成功します。
大久保利通と彼の同志の協力により、西郷も遠島を許され
政治的に復活しました。

薩摩藩は藩士の統制力が強く、また薩摩藩士も藩の命令に
従順である傾向が強かったので、脱藩して勤王活動を行う
藩士はごく少数に留まりました。

|それでも、一部の薩摩藩士は藩の統制を離れて勤王活動
|をしようとします。それを力で抑えたのが寺田屋事件です。


一番悲惨なのは土佐藩です。
No.4の回答でも触れましたが、土佐藩の上級武士は山内家
が、土佐藩主になるにあたり外部から連れてきた人たちで、
それに対して下級武士の多くは、土佐の長曽我部の遺臣で
あり、進駐軍とも言うべき山内家に幾度か反乱を起こしました。
やがて土佐藩に組み込まれていきますが、上級武士と下級武士
の潜在的対立は、幕末までずっと継続していきます。

その土佐藩でも、幕末に下級武士を中心として勤王思想が
広まりますが、藩の実権を持つ職に就くことのできない彼ら
が、政治的な活動を行うことは通常の手段では不可能でした。

そこで、土佐藩下級武士の中心的人物であった武市半平太(瑞山)
は、公武合体論者であった参政の吉田東洋を暗殺し、藩上層部
の反吉田派と手を組んで、土佐藩の政変に成功します。

武市半平太が藩政に関わっている間、土佐藩は藩ぐるみで
勤王活動を行いますが、まもなく安政の大獄のからみで蟄居
していた前藩主の山内容堂が復権し、吉田東洋派であった
後藤象二郎を抜擢して巻き返しをします。
結局、武市半平太は失脚し、彼の同志と共に投獄され、やがて
切腹となります。

同じく土佐の下級武士ですが、武市半平太と行動を共にし
なかったグループもあり、彼らの多くは脱藩して京都を
活動の舞台とします。
しかし、藩の保護を受けない彼らの多くは、幕末の動乱の
中で、多くが命を落とします。

例外なのが坂本龍馬で、武市とも交流しますが仲間には入らず、
あくまで独自の道を模索します。

土佐藩内で志を遂げるのが難しいとわかると、やがて脱藩
するのですが、他の土佐藩士とともに勤王活動に従事する
わけでもなく、江戸にいって勝海舟の弟子になり、勝とと
もに神戸海軍操練所を開いたり、後には海援隊を創設します。

他の土佐藩の下級武士の行動が挫折していく中で、独自の
道を行く龍馬の存在が大きくなり、土佐の脱藩者をはじめ
多くの人材が彼の下に集まり、一大勢力となっていくわけです。

....書いていて止まらなくなってきたので、いったんこの辺で
打ち切ります。疑問点があったらコメントを下さい。
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 簡単に書いてしまいますと、当時の「藩」というのは、今で言う「都道府県」ではなく、「国」と考えるとわかりやすいと思います。



 今でも何らかの理由で国を捨て「亡命」する方もいますし、相手国によっては今でも「勉強がしたい」程度の理由ではビザはおりません。

 下関戦争が良い例ですが、あの戦争で英、仏、米、蘭の四国連合と戦ったのは、「日本」ではなく「長州」でした(ある意味「長州ってスゴイ!」ですよね(笑))。

 考えてみれば、日本人のほとんどが外国を知らず、外人がワインを飲むのをみて、「生き血を飲む鬼」と信じていた時代です。藩の壁は今の国境よりも厚かったのかも知れませんね。

 では、再見!!
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