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 東京都台東区の山谷と吉原は現在はこのような地名ではありませんが、(山谷は日本堤、吉原は千束)隣同士にありますね。しかも、その土地の性質が180度異なっています。
 吉原は風俗特にソープランドが多いところです。ですから、カネの多い人が遊ぶ場所であるのに対し、山谷は日雇い労働者があふれていて、毎日あぶれた人でごった返しているところですね。この2つの地は江戸時代から今のような形態が続いているようですが、なぜこの対照的な性格の街が隣り合わせになって形成されたのでしょうか。
 私なりに単純に考えると、山谷の日雇い労働者達が吉原で遊ぶ男たちからカネを奪おうとする感じがして、(非常に失礼)治安上良くなさそうな気がするのですが、いかがでしょう。
 分かりにくくて申し訳ありません。

A 回答 (2件)

時代小説などを読んでいると、今の千束に遊郭が移転してくる前は、現在の日本橋から京橋近辺に吉原と称する遊郭があったとのことらしいですね。

幕府公認の遊郭
ですからそれなりの格式があったと推測されます。現在の千束も然りです。その名残がいまも続いているわけで。
そうした繁華街があるわけですから、江戸歓楽街浅草にも程近いこの地に仕事もたくさんあったわけで、いわゆる人足寄場てきな労働斡旋も集中していたのでしょうね。「侠客」という小説の播随院長兵衛などもこの労働斡旋の元締めとでもいうんでしょうか。
というわけで、いまは仕事にあぶれた人たちであふれる山谷地区も、昔はかなり活気のあった場所と推測されます。そこで働き得たお金で、吉原にくりだしきれいなお姉さんと遊ぶといった展開でしょうか。うらやましい・・・。
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この回答へのお礼

 ご回答ありがとうございました。なるほど、労働斡旋が集中していた頃は木賃宿に泊まる労働者も稼いだお金で吉原で遊ぶことができたでしょうね。今じゃ考えられないことでしょう。

お礼日時:2002/08/09 08:47

 日雇い労働者の宿泊地となったのは、あまり昔の事ではなく、戦前、戦後あたりのようです。


 江戸時代、山谷は日光街道と奥州街道から江戸への入り口となる宿場であったようです。
 

参考URL:http://www.tctv.ne.jp/members/iinacaya/sanya.html
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました。なるほど、日雇い労働者の宿泊地としての歴史は意外に短いものなのですね。でも、木賃宿としての歴史は長いようですね。

お礼日時:2002/08/09 09:39

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