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性格や人間関係(女性関係など)を教えてください

A 回答 (3件)

歴史家の書いた伝記をまず読んでください。



平清盛 人物叢書 新装版
http://www.7andy.jp/books/detail?accd=30492599

清盛について史実と認められる、史実と思われることはこの本に全て網羅されている筈です。まずこの本で、歴史家が整理した清盛像を掴んで下さい。

その上で、現代語訳・抜粋で十分ですので「平家物語」を読んで下さい。軍記ものですので虚構も相当含まれる筈ですが、人物叢書で確実な史実に基づいて知った清盛像に肉付けができるでしょう。

この辺が手ごろでしょう。
平家物語 角川ソフィア文庫 ビギナーズ・クラシックス
http://www.7andy.jp/books/detail?accd=30870725
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武家の出で初めて太政大臣まで上り詰めた清盛ですが平家が意図も簡単に滅んだのは清盛の女性関係にありました。

本来ならば首をはねられたであろう頼朝を継母の願いを聞き入れて伊豆に流し、ライバル義朝の愛妾の美しさに目がくらみ義経3兄弟を寺に入れることで許しています。後に平家が滅ぶ原因を作った清盛も人情味ある男だったのかもしれません。
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からかっているわけではありませんのでご了承下さい。


当時の事を、現在に正しく広めなければならない立場でお話させていただきます。

武家の出といわれておりますが、当時の平家は公家風の暮らし向きをしておりました。
(清盛が皇族の血を引くという噂も御座いますが、本当のところは知りません。)

性格も板東平氏とは異なり、おおらかな方が多かったと記憶しております。

女性関係については、当時は現在と観念的に大きく違います。
一人の人を愛さなければならないと決められたのは、戸籍というシステムが出来てからの事。
それ以前の日本では、特に平安時代では、自由恋愛が当たり前の時代です。
(妾が出来たからと言って咎められる事はありません。あくまで奥方は除いての話しですが。)

清盛殿は、おおらかな中にも、激しい気質もお持ちでした。
ただ、とても信心していたために、無益な殺生はなさらない。
心では煮えたぎっていても、人にはそれを見せないのです。
人を心から許さず、生殺しのような状態にするために、最後は色々な方から恨みをかい、死しても安堵する事無く、成仏する事無くおられます。
(良く浮世絵などで、清盛がドクロを目撃するようになったり、最後は熱病に侵されて高熱のうちに亡くなったとされていますが、その噂どおりの人生を送られました。)

人の上に立つことで、人の物を奪い続けたり、人の自由を奪い続ける人生でしたので、人から恨みを受ける立場にありました。
(残念ですが、人の愛する者を奪ったり、自分を裏切った者から家族を奪い、生きながらの苦しみを与える。という事が実際に幾つもあったようです。)

信心が、逆に生殺しの状態を生んでしまった、悪い例だと思います。

義理の父上としては、私を大切にしてくれていたと思います。
(一度決めた事を翻すような、情けない事は当時の武士はしませんでした。)
今もお墓に行くと、わが子が来た様に喜んでいただけます。
(実際には皆様に言われているほど、当人同士は仲が悪いわけではありません。)

平家の方々は、現在京都付近には殆ど留まっておらず、また当時、町を焼くなどして咎めにあった方も多く、大変気の毒にも、死して後も咎を受け、縮こまって暮らしている方が殆どです。
(大火を起こしたり、公家や京の町人からの非難を受けなければ、町に留まる事も出来たと思います。今の日本政府のように、国民から非難を受けるような政治手法を特権階級の方々がされておりましたので、逃れる事が出来なかったのです。)

少しでも早く平家の皆様の名誉の回復がなされる事をお祈りしています。
(私には当時の事は前世の記憶として残っております。)
その外の事(当時の平家や源氏の事)について、詳しくは、ブログをご覧下さい。

参考URL:http://yoshitunem.seesaa.net/
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