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 二度と会わないであろう人間は、生きていても死んでいても
同じ事でしょうか?

A 回答 (16件中1~10件)

no7です補足ありがとうございます。


>二度と会わない人間が死んでると思う事も、生きていると思う事も
二度と会わずに実際のところは確認できないわけですから、生きていても死んでいても同じなのではないかという事を考えたのですが、どうなんでしょうか?

まったくそうです。
基本的にはそうです。
ただ潜在意識が超能力があればべつだと思います。
それはユングのシンクロにシティー理論や透視能力、霊能力
ESP等の現象が起きれば可能ではないでしょうか?
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この回答へのお礼

ご回答有難うございます。

やっぱり生きていても死んでいても同じたったのですね!
ユングやフロイトは何だか胡散臭いのであまり興味が持てなかったのですが、自分の考えを証明するには勉強しなくてはいけませんね。

お礼日時:2007/10/26 22:26

#3です。



このカテではこの質問は非常に答えにくいんだなぁと思いました。

会うとは、生死とは、確認とは、変化とは、私とは、他人とは・・・

恐らく質問者さんの意図するところではないと思いますので掘り下げても仕方ないと思います。

ご質問の回答としては、同じことですとなると思います。ただし同じ=変化しない部分はすごく限定的じゃないだろうかと思います。例えば生死を知らないのが本人だけだったら、と考えればその人が生きている環境は生死によって全く違ってくると思います。私(本人)はそんなことは知らないではすまないでしょうから。
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この回答へのお礼

再びご回答有難うございます。

>私(本人)はそんなことは知らないではすまないでしょうから。

この場合、死んだのは「二度と会わない人間」の方ではなく
「私」の方ですよね。
だとすればその通りだと思います。
自己の死と他者の死はそこが圧倒的に違うところですよね。

ただ、「二度と会わない人間」が死んだ瞬間から、それを知らずに例えば映画のマトリックスで出てくる装置のようなものに
入れられ、死んだはずの人間が生きているようにみせられたら(観てなかったらすいません)それが映し出す幻覚も現実も「私」にはどちらが本当なのかわからず、実際には「二度と会わない人間」が生きていても
死んでいても同じになってしまうのではないか、と考えたのです。
それがとても恐ろしくて、ある意味幸福であるような気もするのです。
現実にもありえますよね。
例えば、脳疾患系の病気になった場合とか。
今の自分の認識が本当に自分の認識なのか恐いのです。

お礼日時:2007/10/27 14:30

[生きていても死んでいても同じ事でしょうか?]


生死(しょうじ)を超えて生きるということですから「同じことです」
この意味は、人間が地上で命を持つ理由がわかったということなんですね。人間は本来、霊であり霊の住む国を天国(霊界)と呼びます。その国から数百年に一度、固定の世界、つまり地上に肉体を持って人間として80年ほどを生きます。地上にいる間を生とすればあの世にいる間は、地上の人間から見れば死ですね。逆も真なのですね。つまり個性ある霊体としては生死に無関係に永遠に生き進化し続けているわけです。それに気がつけば「生死(しょうじ)を超えて生きる」ことができるのですね。歴史上の人物もダイアナもすべての者は心に生きているわけではありません。実際あの世という広大無辺な世界の住人ですね。会いたいと思えば相手さえ合意すれば夢の中なり、霊媒師なら他人の体を借りて会うことができます。私も近年、父や子を亡くしましたが彼らとはたまに夢の中で会って話しています。いつぞやは吉田松陰先生に呼ばれて松蔭先生の霊界のご自宅でお話もしました。
このように[生きていても死んでいても同じ事なのです。」
参考までに
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#13です。

ちょっと訂正します。
私の回答の最後の文なのですが、貴方が「ダイアナ妃は私の中では生きている」、というのは貴方が現実を把握しようとする一つの手段として 広い意味で、物語なんじゃないかな、と思ったのですが よく考えると これは単なる心の認識(ダイアナ妃の死という事実の認識)の話だなという気がしてきたので、
>「私の中でダイアナ妃はまだ生きている」ということは確かに「そう」なんですが、これは貴方の心の物語でしかないです。
の部分の「心の物語」という言葉は、「心の話」に置き換えて下さい。
失礼致しました。
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そうですね。


確かに私の中でもダイアナ妃は死んでいません。
また、すでに多くの書物を残してくれた作家などが亡くなった場合にも、私の中でその方との関係性がどう変わってしまったんだろうと考えることがあります。絶望的に変わってしまった場合もあるし、ダイアナ妃のように変わらない場合もあります。(私の心の中の話や、勝手な私の物語の話です。)

このダイアナ妃の例などは 貴方がそう感ずる上ではそうなんだから「そう」なんでしょう、それは「そう」とかしか言いようがない気がします。別に相手の生死の話じゃなくてもいい気がしたのですが どうでしょうか?(例えば相手がどんな風に暮らしててもいいとか)
ただし当たり前のことですがこれらはすべて 貴方の主観認識レベルの話でしかないです。

それに、人間の関係性がいつつながるのかなんて全然分からないのだから、関係ないから生死はどうでもいいとはいいにくいと思います。
例えば、貴方の家族の誰かが外国で臓器移植をしなければならない大病にかかったとする。
ご存知のように(とりわけ外国)臓器移植にはアジアの貧しい子供達の生命が犠牲にされている場合があります。
そんな時貴方にとってもしかしたら一生なんの関係もなかったかもしれないアジアの貧しい子供達と貴方との間に、新しい、恐ろしい関係が築かれてしまうのではないでしょうか?そんな時二度と会わない人間の生死はどうでもいいやとは言えないと思います。
こんな風に、ただ私や貴方が気付いていないだけで、複雑に人間同士の関係はつながっているんだと思うんです。
もしかしたら、曼荼羅の絵みたいにすべての者の一挙手一投足が影響を及ぼしあっているのかもしれません。

死んでしまった人との関係についてや 私の主観が真実を知る上で、あるいは知らない上でどうような違いがあるのかについては(私の心の中の話ですが)まだ色々考え中なので、私は貴方に提起だけをしておくに留めます。

そして最後に付け加えたいのですが、例えば「私の中でダイアナ妃はまだ生きている」ということは確かに「そう」なんですが、これは貴方の心の物語でしかないです。それと事実は、混乱させないよう、均衡を保つ必要があると思います。
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No.8です。



○《生死の確認》をつけたい人の場合 《生きていても死んでいても 同じ事》ではないであろうというとき それは どのように違ってくるか。
――その相手の人との具体的な関係情況で決まります。生きていて欲しい人と死んでいても仕方がないと思う人とで 違ってくるでしょう。さらに細かくどう違うか 今は 人それぞれと言うしかないでしょう。

○~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
「二度と会わないであろう」という言い方はまずかったですね。
「二度と会わなかった」に変えます。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
こうだとすると すでに死んでいるということに決まってくるのではありませんか。それは それで 人それぞれの思いを持つのでしょうけれど。

○公理とは 証明の必要のないとされていることです。
《公理であるなら 生死にかかわりなく 人と人とは 時空間を超えて 心情・感情を別として 関係していると想定される》という意味です。

証明は不要と言っても いきなり そのような内容を受け容れよと言われても 困るという意味で 《ドグマ》と言いました。

○~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
例え歴史に現われたとしても生きているか死んでいるか確認できなければ「私」にとっては実際その人が生きていても死んでいても同じ事ですよね?(関係性とかではなく心情の問題で)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
《心情の問題で》は 人それぞれの自由です。

○~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
実際私はダイアナ元妃は今でも生きていると信じています。
どうせ生きていても死んでいても二度と会わないのですから実際にダイアナ元妃が生きていても死んでいても変わりありませんよね?
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
ですから 一般的に捉えた《関係性》としては 《生きていても死んでいても 人の思想信条や生活態度にとって 変わりありません》。それは 《二度と会わないのですから》ではなく――つまり その理由でもよいし そうでない理由でもよいという意味で 《二度と会わないから》というよりは―― 関係の絶対性が すでに想定された場合にはという意味です。

(想定は あくまで 仮定のことです。公理と言いながら それは 受け容れたくなければ 拒むことが出来るような性質のものであるかも知れません)。
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ANo.9 実際のところ相手の方が生きていようが死んでいようが


その心情には影響ないということですよね。

心情というのか知りませんが、抱いている気持ちは生死とは関わりなく、振り切ることは出来ないもので、いつでもここにいる。ということです。相手の気持ちがどうかは何分の一かは判るかも知れませんが。そのことには関わりなく。私も露出症ではないので、この辺でご勘弁くださいね。
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ANo.5 あと、


>そして死んだという情報がなくても、死んだという情報でも、自分の感情は続いていますね
これは質問内容とどう関係してくるのでしょうか?
すいません。頭悪いので内容があまり理解できていないかも知れません。
という再度のご質問がありました。
 これに対しての私のお話は: 自分だったら、死んだと知っても、そういう情報がなくても、そのお付き合いのときからの感情は、そして、あえなくなった事情の感情としては、生死に関わりなく、途切れないで、同じに、基底の中感情としてで続いています。生死に関わらず同じに続いています。苦しいけれども。そんな意味でしたが。
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この回答へのお礼

再度疑問に答えてくださって有難うございます。

はい。関係性があることは理解できました。
ただ「苦しい」という感情は相手が死んだと知ったからですか
それとも会いたいのに二度と会えないからでしょうか?
どちらにしても二度と会わずに実際の生死が確かめられないのですから
実際のところ相手の方が生きていようが死んでいようが
その心情には影響ないということですよね。
すいません。ちょっとわけわからなくなってきました。

ただよく、死んでしまってもいつまでも自分のこころのなかでは生き続けるといいますよね。こころの中で生き続けるなら実際、相手が生きていても死んでいても「同じ」という意味なりますか?

お礼日時:2007/10/26 17:10

Q:《自分が死ぬまで「二度と会わないであろう人間」の生死の確認がつかない場合、若しくは嘘の情報を聞いてそれを信じたまま自分が死んだ場合、実際相手が生きていても〔・〕死んでいても同じなのではないか》



A:前半は 《生死の確認》をつけたいかどうかの問題です。つけたいなら いくらかは違って来るでしょう。
後半は 《自分が死んだ場合》 もう分かりません。

《二度と会わないであろう》というとき 会う可能性のある場合や そうでなくとも もう会わないであろうなと推量するその自分の思いがある場合に 影響を与えると思います。

そうして こういった具体的な条件や情況の如何にかかわりなく 人間存在である限りで わたしたちはみな 互いに 絶対的に関係していると見る見方も あるようです。

(公理のようでもあるし そうではなく 証明のむつかしい命題であるようにも思われます。公理であるなら 生死は 問題になりません。つまり一度 歴史に現われたなら その人は 他の人と 関係しているというドグマです)。
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この回答へのお礼

ご回答有難うございます。

>前半は《生死の確認》をつけたいかどうかの問題です。つけたいなら
いくらか違って来るでしょう。

すいません。どう違ってくるのか全然わかりませんでした。
どう違ってくるのでしょうか?

「二度と会わないであろう」という言い方はまずかったですね。
「二度と会わなかった」に変えます。

>公理であるなら 生死は 問題になりません。つまり一度歴史に現われたなら その人は 他の人と 関係しているというドグマです

公理とは何でドグマとは何かよくわからないのですが(すいません、頭悪いですよね)
例え歴史に現われたとしても生きているか死んでいるか確認できなければ「私」にとっては実際その人が生きていても死んでいても同じ事ですよね?(関係性とかではなく心情の問題で)
実際私はダイアナ元妃は今でも生きていると信じています。
どうせ生きていても死んでいても二度と会わないのですから実際にダイアナ元妃が生きていても死んでいても変わりありませんよね?
 

お礼日時:2007/10/26 16:33

人の動きというものは何らかの形で外界の世界に影響を与えます


例えば人が生きていたということで外界の世界のごくわずか変化したと
しましょうもちろんそれは殆ど影響を与えません
が影響を与えないわけではなくてその人が認識できないぐらいの影響を
与えた事になります
ですから認識できないのを影響を与えないと言う事にするならば影響は
ないと言ってよいでしょう
しかし世界を2分化してその人の変化A後の世界と変化B後の世界では何か
しら影響を与えることになります
例えばAの世界の瞬きの回数が1回ちがったとしましょう
それだけでもその人の思考が変化するかもしれませんし
瞬きで空気の分子の流れが変化します
その変化の連動が何かしら一回瞬きをした世界とそうでない世界に
変化が生じます
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この回答へのお礼

ご回答有難うございます。

そうですね。その人が実際生きている世界と死んでいる世界とでは
「私」に対して何らかの物理的影響や思考の差はおきてくるのでしょうね。極々ささやかであったとしても。

でもなんでしょうか、頭が悪いのでうまく言葉にまとめられないのですが、二度と会わない人間が死んでると思う事も、生きていると思う事も
二度と会わずに実際のところは確認できないわけですから、生きていても死んでいても同じなのではないかという事を考えたのですが、どうなんでしょうか?

お礼日時:2007/10/26 16:13

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