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現代音楽は、みな?おどろおどろしい感じがします。とても大衆一般受けするようなものはありません。専門家でさえ、陶酔するとか感涙にむせぶとかいうことはないと思われます。音楽の本来の目的である、心地よさから離れて現代曲はある。もちろん存在意義は別にあるのでしょうが。

そこで疑問なのは、ポピュラー界には半世紀かもっとか、多少楽器や編集方法の発展はあったにしても、同じ手法で同じものを作り続けているのに、クラシック界では決してそういうことがないのでしょうか?個人的には20世紀初頭くらいの手法でもう完成させてよくて、それ以上のことは追求すべきじゃなかったのではないかと。たとえば、第二「惑星」とかいって、冥王星を抜いた、ホルストが書いた手法と同様な巨大で機能和声非機能和声を折りいれた重厚長大な曲を、もう一度作ってみようという試みは何もないのでしょうか?

金の問題でしょうか?作曲がものすごい労力の割りに、過去の曲ばかりを客はありがたがるため、マーケットとして成り立たないからでしょうか?走行しているうちに、当たり前に当たり前のよい曲を作れるクラシック界の作曲家が消滅したのでしょうか?それとも潜在的にはいて、活動できないのでしょうか?

A 回答 (13件中11~13件)

>現代音楽は、みな?おどろおどろしい感じがします。



ラウタヴァーラやペルトにはおどろおどろしくない曲がたくさんあります。

>音楽の本来の目的である、心地よさから離れて現代曲はある。

この目的というのは質問者の決めつけでしょう。何が心地よいかはひとによりけりですが、探せばあるのではないでしょうか。ラウタヴァーラなんか神秘的で美しいですから、ひとによっては心地良い、という人もいるかもしれません。

>金の問題でしょうか?作曲がものすごい労力の割りに、過去の曲ばかりを客はありがたがるため、マーケットとして成り立たないからでしょうか?走行しているうちに、当たり前に当たり前のよい曲を作れるクラシック界の作曲家が消滅したのでしょうか?それとも潜在的にはいて、活動できないのでしょうか?

?? 確かにベートーヴェンなどの過去の巨匠と比べれば知名度は低いかもしれませんが、メシアンなんかは結構有名だと思います。ブーレーズ、ペルト、ラウタヴァーラ、リゲティ・・・現代音楽の作曲家はたくさんいます。

全体的に質問に決めつけや思い込みが多いようと思います。
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この回答へのお礼

ポピュラー音楽がなぜ隆盛を誇っているかといいますと、心地よさがあるから。それはどこから来ているかというと、機能和声を逸脱しないという限界性にある。ポピュラー和音進行は結局クラシック理論の焼き直しですよね?クラシックの演奏会で90パーセントくらいは過去のしかも100年以上前の作品で占められる。これは客層が機能和声の心地よさを求めている。つまり、客層のレヴェルというのはこういうものなのではないでしょうか。
つまり、現代のクラシック界は、どうして客にこびようとしないのかです。客が入りそうな曲を、どうしてここ何十年か作ろうとしなかったかです。

お礼日時:2007/11/09 08:49

音大で作曲を学んでいる学生です。


私も要するに質問者さんの言うとおり、心地よくない「現代音楽」を作曲することが専門分野です。おそらく答えはここにあります。

>ポピュラー界には半世紀かもっとか、多少楽器や編集方法の発展はあったにしても、同じ手法で同じものを作り続けているのに、クラシック界では決してそういうことがないのでしょうか?

答えを言うと「決してそういうことがない」は言い過ぎかもしれませんがほとんど「はい」です。なぜならばおもしろくないからです。

現代の純音楽の分野において、そのような作曲の方法をしても誰にも注目されません。なぜならば同じ手法で同じものを作り続けることは創造性がなく、つまらないからです。演奏も同じだと思いますよ?たとえ演奏するのが過去の作品だったとしても、ベートーヴェンの同じ曲を演奏するにしてもみんな同じような解釈で同じように演奏したらおもしろくないでしょう?やはりやる以上は新しいことをしたり、独自の個性を出さないと面白くないでしょう。

作曲も同じで、過去の人達と同じような曲を作ってもおもしろくないからです。コピーや過去の模倣だけで曲をただ量産してもそれはとても「創造性」があるとはいえません。
音楽史的にみると、もっともハイドンやモーツァルトの時代は貴族などによってそのような作品が求められていましたが、それは「芸術音楽として」ではなく、食卓のBGMや余興のためのちょっとしたものとして貴族が満足すればそれでよかったのです。だから作曲家が強い個性を発揮する必要もなかったし、むしろそれは余計なことだったでしょう。
また、「芸術音楽」においても当時のそれは「神に捧げるもの」であり、それはもっぱら声楽を伴う教会音楽で、その場で自分の個人的な感情をむき出しにしたりすることはタブーでした。だから「教会音楽はこう書く」という形式を重んじて多くの作品が量産されたのです。

しかしベートーヴェンによって「芸術」の在り方が変わったと思います。
ベートーヴェンが「芸術は個々の世界観や感情の表現であって、単なるコピーや量産は芸術の表現とはいえない」という考えを示し、ロマン派の扉を開いたところから音楽史は現代に続いていると思います。
そこから多くの作曲家が音楽で新しい技法や、感情やあらゆるものの表現を目指していったのだと思います。
だから機能和声が追及され尽くされたら、非機能和声が出て来て、調性音楽が追求され尽くされたら、無調が出て来て…という流れは当然だと思います。
質問者さんが「20世紀初頭で完成されたのではないか」と言っていますが、たとえそうだったとしても芸術家としてそこで追求をやめるわけにはいきません。芸術の追求に終わりはないのです。

今の世の中、ハイドンやモーツァルトの流れを受け継いでいるのはむしろポップスです。Jポップや放送音楽などの商業音楽の世界は受け手や演出家などのニーズに応えるためコピーや過去の模倣という形でとにかく量産することが求められます。そこで「この曲は新しい響きを追求しました。これは私の人生で追い求める音だ・・・」とかをやっても無意味どころかむしろ「勝手にやってろ」てくびにされるでしょう。

>音楽の本来の目的である、心地よさから離れて現代曲はある。もちろん存在意義は別にあるのでしょうが。

音楽の本来の目的が心地よさであるとは誰が決めたのですか?音楽は本来数学の一分野として、学問でしたし、音の追求という点において心地よい音もあれば、心地よくない音もあり、すべてを含めて音楽です。心地よくない音(不協和音)→心地よい音(協和音)への解決という発想はバッハやハイドンの時代からすでにありましたし、単にそれから発展したにすぎないと思います。解決されることがあるべき音の形ではないし、解決されない音もあってもよいのです。音の可能性は無限大です。むしろ現代の芸術音楽は本来の音楽のあり方である「学問的な音の追及」というものに立ち返ったかもしれません。

>たとえば、第二「惑星」とかいって、冥王星を抜いた、ホルストが書いた手法と同様な巨大で機能和声非機能和声を折りいれた重厚長大な曲を、もう一度作ってみようという試みは何もないのでしょうか?

試みはあってもよいですし、書いてる人はいるでしょう。それも「新しいものの追求」の一環として行われれば十分に意義のあるものだと思います。




ちなみに私はポップスも作曲しています。全く在り方も手法も異なりますが、どちらも音楽であることに変わりなく、これからもどちらも作っていきたいです。
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この回答へのお礼

回答者さんのレヴェルではそういう考えになるのだと思いますが、機能和声を逸脱しない曲に偏向することは、私個人の思い込み以上のものがあると思うのですが、そのマーケッティングの可能性に、クラシックの作曲家は乗らなかったのではないだろうかという考えです。

クラシックの機能和声をそのまま発展させずに、新しいものを作ることは、個人的には実に面白いと思いますね。客に合わせるという、一種の堕落がありますが、同時に美しいと感じる人間の本能にこびるという協調性もあります。新しいことをやらない、そこに一種の魅力とマーケッティングの可能性があります。創造性を放棄することです。

>だから作曲家が強い個性を発揮する必要もなかったし、むしろそれは余計なことだったでしょう。

それが前世紀初頭からおこってきた。実験的試みはそのようなものでは?
ベートーヴェンの姿勢は、現代作曲家たちと同じものということになるのでしょうが、なぜこうも回顧的な作曲家がいなくなってしまったのか?です。

ポップス音楽の心地よさを、どうしてクラシック編成の新曲にしてはならないのか?演奏会のプログラムにしてはならないのか?です。大部分の客は機能和声から逸脱できません。それが前世紀初頭までと違う。多分その当時の客は、新しい響きを求めた。そして、斬新な手法の新曲を聞いてい簡単感激した。なぜなら、まだ機能和声のあるいは非機能和声の均衡を感じさせる曲だったから。そこが、実は一般人の限界だったのではないでしょうか?それが、現在のクラシック客層が露呈していることです。

「心地よさ」こそマーケッティングの基本です。

それをあまりにもどぶに捨てるようなことをしてこなかったでしょうか?客のレヴェルにあわすという思想です。

お礼日時:2007/11/09 09:02

例えば、絵画を思い浮かべてみてください。


ダ・ビンチやレンブラントのような古典の部類の絵は宗教的な題材をもとにしていたり、形や色、光りと影といったものを忠実に捉えていてその手法から表現はきわめて具象です。
これらを観ると心が浄化させるが如く、とても精神的な安堵を覚えます。音楽ではバッハ~古典派の形式・様式をきちんと踏まえた上での表現方法でそこには確かに普遍的な美しさがあります。

ロマン派から近代・現代音楽は、絵画では印象派から抽象画といえるでしょうか。フランス印象派達の一瞬の光りの輝きを捉えリズム感のある色彩やデフォルメした形、さらには表面的からより内面へと極端に形を分析デフォルメしていったピカソやブラックらのキュービズム、点・線・面と明るい色彩で壮大なシンフォニーをうたいあげたロシアのカンディンスキーまで発展します。また、あえて古典の手法を極め細密画や具象画にこだわる画家もいます。

壮大な物語絵巻を観るかのごとく重厚な和声や魅力的なメロディーに溢れた色彩感豊かなロマン派の音楽の数々や、さらには強烈なリズム、変拍子等斬新な手法を盛り込んだストラヴィンスキー、あえて古典主義にもこだわったプロコフィエフ、正統派クラシック音楽の総本山ウィーン古典楽派(ハイドン、モーツァルト、ベートーヴェン)の現代版、新ウィーン古典楽派(ベルク、シェーンベルク、ウェーベルン)など。

このように各時代に於ける作家、作風を羅列するとお分かりだと思いますが、クラシック音楽の世界も過去何度となく先人達が古典に戻ったり、復活したりと試行錯誤を繰り返してきました。
形式、和声、対位法などを総合して音楽の様式・美学・学術・学問的なものは古典派でほぼ完成されたといっても過言ではないでしょう。

確かにクラシック音楽は決して歩みを止めたわけではなくて、現代でも作曲家はたゆまず新しい曲を作り続けています。
ただ、ポピュラー音楽のようにある一定のパターンがあり、単にそれに乗ってヒットメーカーのように次々と新曲を発表という風潮は現代にはありませんね。モーツァルトの時代では宮廷や貴族がそういった要求を作曲家にしていましたが・・・

つまり、正統的な純粋音楽であるクラシック音楽では過去に偉大な作曲家達が完成させた曲を忠実に再現(演奏)することに意味があり、そこに曲の解釈や音楽の本質を見い出すのです。
言い換えれば、現代音楽がメロディー豊かで標題的で重厚・壮大な曲を作るのは全くの自由だとは思いますが、個人的にはドラマ・映画やCM、アトラクション等の付随音楽、吹奏楽の新作音楽ではないかと思います。商業的に見て真っ先にお金になるのもこういったジャンルでしょうし。
では、どうしてあえて現代の作曲家達がロマン派や古典派の音楽に並んだり優ったりするものを作らないのか?・・・それは、どう頑張っても作れないからだと思います。
ロマン派~近代・現代の作曲家のほぼ全ての人がバッハ、モーツァルト、ベートーヴェンの作品を学び、奏で、徹底的に研究しています。そして異口同音に、普遍的で絶対的で音楽の全てがそこにはある・・・と。
人類の長い歴史の中の一時期にヨーロッパでおこり、宗教、芸術という人間の精神の深いところで継承されてきたクラシック音楽。
秋が深まるごとに日がな好きなクラシックを聴きながらご質問文を拝見し、かのように感じています・・・
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この回答へのお礼

現在モーツアルト愛好家が多いですよね!貴族社会の要請にしたがって、ある程度予想できるような範疇で作曲された作品がもてはやされている。それこそがマーケッティングですよね。この層をあまりにもないがしろにしなかったかということです。
わたしはどうも、ロマン派の作曲家がなしえたことを、現在よみがえらすことができないとは思えないです。その素質がないのではなく、環境がないのではと感じています。それをやる意義がまったく感じられない状況にあるのでは?

お礼日時:2007/11/09 09:05

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