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こんにちは。僕は、現在総合格闘技をしている大学三年の男です。以前は小学校2年の頃から高校三年まで少林寺拳法を続けてきました。3段です。総合格闘技を始める以前からずっと思っていたことなのですが拳法の技は本当に相手にかかるように練習するのではなく大会(演舞)で優勝するために、つまりうまく見せることを目的としているのでしょうか?逆後手等でも練習する時は、先生なども少し引っ張れと言います。しかし、実際の護身の場面で相手が軽く引っ張るなんてことはないと思います。その時に使えなければ意味がないと思うのですが・・・?実際うちの道場に柔道3段の者が入門してきた時に先生が小手まき返しという技をかけようとしたのですがその柔道経験者が力を入れると全く掛かりませんでした。先生は体が大きいからかけるのは難しいと言っていましたが、僕は、それを見てやっぱりな。と思いました。拳法は女性でも大の男を倒すことができると言っていますが、まず無理だと思いました。みなさんは拳法の実用性や練習内容はどう思いますか?誤解を招くといけないのでいいますが、僕は、拳法は大好きです。ただ使えないのに満足する練習はいけないと思うので・・・

A 回答 (27件中1~10件)

俺の教わっていた先生は(受験で辞めているためまた教わると思いますが)


、演舞で世界大会?みたいなので優勝そうです。流石に上手いです。
俺も小さい頃その件ですごく気になったので、先生に聞くと「じゃあ俺が連れ去ろうとするから抵抗してみ。」と言われて手首を掴まれ、離せませんでした。力が強く、拳法で習った技や抜きを全く使えませんでした。
そして、「じゃあこうやってみ」と言われて、先生が抜く方向を教えてくれた途端、何度やってもどんなに先生が力を入れていようとも、するりと抜きが出来ました…。
その時気付いたのですが、拳法の技はそれまで力任せにやっていましたが、本当は力の方向にあることを知りました。

また、相手が引っ張ってくるのなら逆に押したり、また演舞にもよくあるように、熊手→抜き のように、相手のスキを作らせたりして使用する技がほとんどというか、そういう風に作られているんだと思います。

申し送れましたが中3までやってました2段です。

また俺は生まれつき、なぜかすごく腕の関節が柔らかいです。だから、腕に対しての固めは誰がどんな方向にやっても全く効きませんでした…。(よく、こいつとは演舞の練習にならん!!と言われました 泣)
だから、拳法の技はどの技もどんな人間に対してでも100%効くとは限らないと思います。その状況に応じて使い分けれなければ拳法での練習の成果は無かったということになります。
また、より上の段になればなるほど力の強い相手に対する技を教わると思います。(初歩の技は鍛えてる人に効かない理由はそこにあると思います。)

あとこれは教本に載っていましたが、演舞は上手さを「見せる」為だけでやっているのではないです。普段の練習の成果を演舞の技の上手さで競い合い、それによってみなで上達するためにやっているわけです。

聞いた話ですが、審査の人は技をかける「速さ」と、やはり先ほど言ったような「力の方向」を見ているらしいです。力任せの技を上手いように見せかけているだけでは点数低いらしいです。

この回答への補足

みなさんたくさんのご意見本当にありがとうございます。もう一つ疑問に思うことは、少林寺拳法の大会についてです。拳法は勝ち負けを争う大会をしないといいますが、少なくとも演舞も勝ち負けを競います。現に大会であそこの道院には負けるななどいつも大会に行けば聞いていました。おかしと思います。新体操等でも技を競い、相手より少しでもうまく競うスポーツと言っています。拳法もこれとなんら変わりがないと思うのですが・・・殴りあいの試合は否定して、演舞での大会は認める所がすごく疑問です。僕が見たかぎりでは大会のあとあいつに負けたなどくやし涙を流している者を多数みました・・・これは明らかに勝ち負けを競った為の結果ではないでしょうか?

補足日時:2002/10/04 10:57
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私も似たような経験があります。


私の経験は、1度目は神経科の疾患(多分てんかん)をわずらってると思われる友人なのですが、あるとき、数人の友達と一緒に街を歩いてるとき突然暴れ出して暴力をふるい出したので取り押さえたのですが、痛みで制止しようとして怪我はしないけど激痛を生じる技を使ったのですが、全くききませんでした。
また2度目(別な人です)切れて暴れてる若者を制止しようとして相手の後ろに回り組み伏せたところ、今度は簡単に制止できました。

このように技によっても使える場合と使えない場合があります。

ある意味、技とは相手の虚をつくものですから、相手がそれに対して待ち構えてるような場合には違う技にしないといけないでしょう。

ですからおっしゃるような場合は無効なのは当然のことではないかと思います。
稽古で、相手を状態設定してやるのは技の基本的な形を習得するためです。
実用するときは、相手の状態を見て適用できる技を選ぶ必要があります。

むしろその先生は、暗にそのことを示してくれたのかな???って事もないと思うけど。
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自分は腕力には自信があって 24で入門し逆小手を教えてもらう時、先生に恥じをかかせると思いましたがとんでもない、目から火花が出るかあっという間にゴローンでした。

体が非常に硬いのでよく効きます。逆に柔らかい体質の人は痛くなかったけど練習だで転んだと言ってました。やはり人によります。でもワザは覚えておいた方が絶対お得です。突き蹴りより相手を制するには柔法が一番だと思います
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私も過去に学生時代に総合格闘技。

小学、中学生時代に徒手格闘を
経験していました。
徒手格闘の原形は日本拳法だそうですが、徒手格闘の中では
関節技や返し技はあまりありません。(まったくではありませんが)
打突技や投げ技が中心です。
私も同様な質問を徒手格闘の師範にしたところ
「練度を要するから、徒手格闘向きではない」という答えが返ってきました。
最初は不思議でしたが、総合をはじめてから、関節や返し技の難しさを
理解しました。

前出の師範は、型や演舞は「熟練を短縮する為のもの重要な見本」とも
言っていました。
先にお応えの方もおっしゃっていますが流体(力や身体の向き)を理解し
なければいけない技であれば、ある程度の熟練度を要しますので、
「実用性はあるが練度も必要」ということではないでしょうか。
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少林寺かじってました。


あの受け流しとか受身の取り方は役に立ちました。
人が向かってきても恐くなく、間合いをはかれるようになっただけで、
私は満足だけど。
自分からかかっていって相手をやっつけることは少林寺では教えないですよね。
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アメリカで空手を教えている者です。



「技」と俗に言われている物は(名前のついても「技」は使うためのものではないんですね。 限られた数の「技」から何が起きても通用する「本当の技」を習う事が武道なんですね。

しかし、今では、この技を通用する物として教え、今回のように、通用しなければ「相手が大きい」と「言い訳」をしているんですね。 使える技を知っていれば通用するのです。 

技と呼ばれているものは英語のアルファベットであり、日本語の漢字なのです。 これだけでは通用しないんですね。でも、習わなくてはならないものです つかえる技の基本だからです。 この基本から、何千と言う要素(本当の意味での技)を習うための準備に過ぎないわけです。

初段テストのための技に成り下がってしまっているわけですね。ですから、その以上のことを習わない、習わしてくれない、おしえる実力がないと言う事になるのです。

ここで15年ほど伝統から手を教えています。 つかえない空手は教えられません。 年に12000人に人が銃によって殺されます。 これはつきに1000人、週に250人と言う事になります。 自殺や事故はこれには含まれません。

130キロ、200CMの人はざらです。 ちなみに私は70キロ、175しかありません。 教えている女性の殆んどはもっと小さいです。 彼らに130キロの男が襲い掛かってきて、「あんたは大きすぎる」では、どうしようもないのです。

限られた技の基本的知識(引っ張ってみればうまく行くよ)では、通用しないのです。 だから、柔道をやっている人には通用しなかったのです。 貴方に見せるためにしたのですから、通用しなかったら、通用するようにすればいいのです。 丁度いい機会だったわけです。 基本だけでは通用しないから、こういう風にこの基本を使うから、つかえる技になるんだよって。

本当のわざと言うものは、単一の物であってはならないのです。 言い方をかえれば、単一でないから通用する技になるのですね。 そのつなぎ、準備を怠る教え方をするから通用しないともいえます。

つまり、簡単に言うと、目潰しは非常に有効な技であるといいます。 本当ですか? 目潰しができる状況をつくことを知らなければ、目潰しは通用しないのですね。

このためにも、タイミング、間合い、バランスなどはもちろん、精神的誘導、精神的自信、などなどなど、274,000の要素を訓練しなくてはならないのです。

平常心を武道では大切な事であると教えます。 確かに大切な事です。 でも、どうやって平常心を保ち、緊張心から平常心に戻すのかは教えてくれません。

考えてください。 1.5Mはなれたところに、実弾の入った拳銃を持って、こちらに向けています。指は引き金にあり、今、それを引くところです。 腕を伸ばし、銃口の目の前にあるのです。 まさに、こて巻き返しの通用する場面です。

274,000物すべての武道の要素を使ってこそ、この場面でこて薪返しを使えるのです。 でも、教えてくれません。 そこまで、日本の今の武道はなり下げてきてしまった指導員がいるのです。 まさに、小学校で、感じを良く知っている優等生が先生気分になっているだけに過ぎないのです。

これを読んだ方がのなかで、礼儀の知らない、無礼なやからといわれるかもしれません。 しかし合えて、私は言わせていただきます。 通用しない武道を知らない人には通用する武道は教えられない、と。

反論をお待ちしています。
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この回答へのお礼

メールありがとうございました。先生のいうことは非常によくわかりました。たしかに犯罪の多いアメリカでは、使えない技をいくら覚えても役に立たないですよね。僕も以前からそう思っていました。拳法では、そのことを、支部長にいうと極端に嫌います。見せ掛けは大の大男も一撃で倒せると言うのに・・・練習では楽しく明るくが基本です。確かにそれは必要だとは思いますが・・・先日拳法3段の友人が街中でチンピラに絡まれて抵抗したのにもかかわらずボコボコにされました。その友人から聞いたところ拳法の技は何一つ使えないと言っていました。

お礼日時:2002/10/03 16:10

技一つを覚える事は大事です。



手首の技も力の方向も一つではなく幾千の方向が在ります。
技一つが裏表・陰陽の技術から始まります。使う人がそれに対応できる工夫をして自分の技に成ると考えます。

変化についても手関節がだめなら肘に変化し肩関節に移動します。

一つ一つの技が出来て対応できるものです。

もう一つは関節技は相手を痛めるだけでは無いです。
関節技が決まれば相手の力も出ない事も大事な要素です。

教えられた事を幾千万に変える事は自分の練習と工夫から始まります。そこから自分の武術と思います。
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#6です。



名前のついた技は使えないもの、と書きました。 ジャ、なぜ使えないものを習うのか、となりますね。

使えないから、何千、何万の事を習えるのです。 使えないということは、使えない理由があるからなんですね。 その理由は、自分が自己探求して習う物ではなく、基本的には、教える者が教えなくてはならないのです。

もちろん、その上で、自己探求をしたければすればいいのです。 守・破・離の観念はいつの世界でもあります。

名前のついた技を使える技としてしか教えてもらえないから、昇段テストにはパスするけど、実際には使えない、と言う事が起るのですね。

戦場で使う「武術」を自分の習う基準としてもつように、教えなければ、使い物にはならないということも知ってください。 つまり、武術とは、複数の相手に対して戦う技術だと言う事です。 一対一の場面は基本とはなっていないんですね。

ですから、一人の相手に注意を注いで、審判や観衆には気を取られるな、と言うのは、この観念から完全に外れているわけです。 この一人と戦う事に慣れてしまうと、相手はもう一人増えたら、それでおしまいです。

視線はふたりに寄せる技しか知らず、一人に対してからだの一部が必要以上に長く密着してしまう技を使い、空手をやっているからといって突きと蹴りしか業を知らず、柔道だからと言って投げしか知らない、などなどなど、から、コテンパンにやられてしまうんですね。

初めから、基本を習い、それに基づいて、275k(275000)を習い、戦いの基本に戻り、複数の相手に対する名前のついていない「本当の技」つまり、「使える業」を習わせてくれる「師範」レベルがいなくなったと言う事です。

きれい事で済まし、殺人でなく活人でなければならないと「いいわけ」をしていてはいくら経っても、つかえるようにはならないのです。

「練習では楽しく明るくが基本です」も良いでしょう。 しかし、それは基本ではないのです。 楽しく受験勉強出来ればどれだけよいことか、楽しく明るく仕事が出来ればどれだけいいことか。 しかし、それはあくまでも、二の次なんだと、ちゃんと分かっているはずです。

よく空手で「一撃で倒す」という言い方をします。そして、そうでなくてはならないのです。 きれい事を達成するためには、一撃で倒せるスピード、正確さ、パワー、そして275kが身についているからこそ、相手を「殺さない」戦いができるように、自然となるのです。

複数の相手に対しての護身術などを演舞会でよくやります。 すべて決まりきった事をやっているに過ぎません。 「師範レベル」だったら、「何でもあり」に弟子たちにかかってこさせ、怪我をさせないで、相手を倒す演舞をしてもらいたいと思います。 その実力があるからこそ、「師範レベル」といわれるわずなのですから。

もう一度言いますが、使えないけど、名前のついた「技」は習わなくてはなりません。 基本中の基本ですから。 アルファベットなんですから。 数字でもあり、漢字でもあるのです。 それらをきちんと習い、それをどのように使い、どのように次のレベルに自分を持っていくかを教えるのが指導員の役目なんですね。

幼稚園で、アルファベットをすらすら言えるようになって、喜ぶママの顔を見て喜ぶ幼児と同じになってはいけないということです。大人になった私たちは、すらすら言えるだけでは、通用しないよ、とちゃんと分かっていますね。 友達が「俺はアルファベットをすらすら言えるぜ!」といったって、「それがどうした?」となります。

なぜ、それが分かっていながら、武道ではわからないのか。 つまり、教える者が、アルファベットを知っているだけで良いとするからなんですね。 また、この幼児と同じように、アルファベットが英語を習うのに必要なんだとは夢にも思っていないということなんですね。

限られた数の使えない技があるからこそ、無数の使える技が自分のものにする事ができるのです。 使えない技で昇段テストをパスして、段をとっても、その段は通用しない段なんですね。 

基本のみっちりやれと言う事は、つかえるようになる準備をしっかりやっておけ!ということなんです。 その準備ができるようになったら、使えるようにしてやるから、と言うのが指導員の勤め。 「言い訳」に続く「言い訳」だけで準備が出来ても教えてくれないんでは、指導員の心の資格はないとしかいえません。

確かに使えない武道もあります。 でもそれは、使えないんだよ、ってはっきり言っています。 それはそれで大変良い事だと思います。 私自身、居合道を練習していますが、いい例を思っています。 矛盾はしていませんが、あえて言うと、刀は人を傷つけるために出来た武器です。 それを遭えて、使わないもの、として、使い方を教えています。 それで良いと思います。 

スポーツとしてやるなら、それもいいと思います。 でも、それならそれで、「つかえる武道じゃありませんよ」と宣言すべきものだと思います。 自信過剰にしてしまい、チンピラにコテンパンにやられてしまった、責任はどこの誰が取るのでしょうか。

自己主張でした。
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#8さんに別に対抗するつもりはありませんし、その考えが間違っているとは思いません。

流石海外で活躍されている人の言うことは違うと思いました。

しかし、拳法はあくまで武道を教えているものであって「ケンカに勝つ方法」を教えているわけではありません。あなたの主張はあくまで「空手」の話です。拳法には当てはまっていない部分が結構あります。

ケンカになりそうな時、少なくともケンカにならないように全力を尽くす、ケンカにならないようにするのが第一です。そうでなければそれはただのチンピラです。殴り合いのケンカが始まってしまった段階でチンピラと何ら変わらないと思います。すべての道院がそうなのかは知りませんが、少なくとも私は拳法でケンカにならない方法を学びました。
2段の私が言うのもなんですが、質問者さんの3段の友人はおそらく3段の資格は無いです。私はチンピラに絡まれた時に「抵抗しろ」ではなく「逃げろ」と教わりましたし、避けようとすれば避けれたはず。それを変に強がって抵抗するからボコボコにされるんです。当たり前です。


また、#8さんが勘違いされておられましたが、
拳法で言う「武道」(むしろ拳法だけでなく本来の言葉の意味なのですが)とは「二つの矛を止める」と言う事であり、ケンカの駐在をするために使うのであって、それ以外で使うのならそれは拳法の教えに逆らったと言えるでしょう。武道を「私用」してしまった段階で武道ではありません。


あと、剣道の本(っていうかマンガ)で読んだことがありますが、「柔よく剛を制す」というのは「剛」よりもさらに「剛」であることが前提で「柔」が成せるわけです。相手より力が弱いのに「相手を殺さない」なんて事は不可能です。
ある程度の差まではできると思いますが、すごく差がある場合には絶対不可能です。

それと、「拳法は女性でも大の男を倒すことができる」と言ってるとありますが、教本ではその様なことは書いてなかったと思います。「可能である」、つまり「出来る事もある」であって「絶対にできる」という意味では書いていないはずです。そう思っているのは確実にあなたの勘違いです。
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私も少林寺拳法を修行しております。



武道とは?という話になっておりますが、少林寺拳法では武とは止矛なりと教え、勝たなくても良い、負けなければ良いといい、目的は自分自身に自信をもち、相手のことを考えられる人になることだといいます。
もちろん、「武道は殺し合いの技術として発達した」「相手を倒してナンボ」との考え方もあるかと思いますが、現在の世の中では、特殊な状況下でないとそれを具現することはできないと思っています。たとえば、pancraseさんのように総合格闘技の土壌に行くとか、戦争状態とか・・・
その他で生かせるとすれば、護身であり、喧嘩の仲裁であり・・・と勝たなくてもよい場面だけがのこる。と思います。
そこに共感して、わたしはこうして続けています。
もちろん#9さんのように、「いざとなったらまず逃げる」ようにはしてますし、そもそもその状況を作り出さないようにする努力をしております。また#8さんのおっしゃる過信にならないようには十分注意しています。

ところで、「拳法の実用性」というのは「技」の実用性ということだと思うのですが、pancraseさんは本山の先生とか高名な高段者の方に技をかけてもらったことありますか?どうがんばっても投げられてしまう技がそこにはありますよ。

>僕は、拳法は大好きです。
私も拳法は大好きです。

>ただ使えないのに満足する練習はいけないと思うので・・・
確かにそうです。でもって使えるように練習を重ねるのですが、まだまだ道は遠そうです。
私が満足するのは、入門したときはもじもじしてた少年が自分の考えをはっきり言えるようになったときとか、自分のことしか考えてなかった子が、他の子の世話を始めたときとかですね。

乱筆すみません。
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