プロが教えるわが家の防犯対策術!

個人的なことをかくと、

キリスト教凄い、聖書は素晴らしい。
と思ったらカルトだった。→ふざけるなよとカルトやらキリスト教批判。
傷は深く、神は信じたいが、教会など大嫌い。

正統な教派一覧を見たら、自分ところはキリスト教扱いすらされてない。
なんだよ、いままで。自分はキリスト教徒ですらない。

しかし。その気になれば、キリスト教否定も肯定もできる。

で。本当に教会が大嫌いな私ですが、キリスト教徒の方に話をきくと
必ず、教会へ。ということになります。
いつかはどっかに行こうかなぁ、とも思いますが

大前提として、別に教会行かなくてもキリスト教徒ですか?

A 回答 (27件中1~10件)

人と話すの疲れた


そうだよ。人と会話すべきではない
聖書は私(イエス)のところに来なさい。あなたがたを休ませてあげよう・・・・
ここだからね。旧約を見てください。洗礼を受けましたか?
終わりの時には火と聖霊によってバブテスマを授けようと書いてます

要するに、信じるものは救う。ここが中心です。
この信じる芥子だねの信仰があればいい。(ほんの少しでいいの)
教会に行くかどうかは考えるひつようはない。主の御心なら神様はすばらしい教会を与えてくれるさ。だから待ち望みましょう。
クリスチャンは洗礼を受けるためではないからね。
    • good
    • 3
この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
あちこちいろいろと失礼、迷惑をかけました。
ここで今回の質問は終わろうと思います。
ありがとうございます。待ち望みます。

お礼日時:2008/02/29 19:18

おつかれです!!大変ですね カルトは何度か経験したら、どれが


カルトでカルトじゃないかわかってきます!!自分の理論ですが強制はもちろんあなたの生活を色々指示したりする所は駄目です。悪霊(サタン)とか異言とかという言葉をやたら(生活行動抑止に)使い、あなたの考えを束縛するのもちろん即アウトです。それはカルトです。イエス・キリストに祈ればその通りになるとイエス様は言っておられます。いい教会にめぐり会えるように毎日祈りましょう!!(笑)いい教会は指示はしません、ただ教えてくれるだけです!!洗礼受けても受けなくてもクリスチャンですただ信じる心だけです。願いを祈りましょう!!そして、全てを愛してください。それが、救いです。悪口を言うものに祝福せよともあります。その時相手の救いもイエス様に祈ってください。洗礼受けても、教会に行かなくても別にいいのです。それはあなたが行きたい時に行くだけですから。
教会の親分はイエス様です!!牧師じゃありません!!
走り続けて、そして障害物をよいっと、乗り越えるのがクリスチャンの
毎日です!!あなたの平安を祈ります!!
    • good
    • 2
この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
紆余曲折これからどうなるかもわかりませんが
応援感謝します。

お礼日時:2008/02/29 19:14

今朝読んだのが偶然にヘブライ8章だったのでbrageloneさんに書き上げます。

                                                                                                                                 聖書は人を3種類に区別します。ユダヤ人、教会、異邦人です「ローマ1:16」。                                                                                        聖書はいつもユダヤ人を「一つの家」として扱います。そして、ユダヤ人と異邦人の中から救われた人々の集まりを教会として扱います。旧約時代に神様は3番目の空におられたけれども、今は救われた人の内におられます。ですから、救われた人は神様がおられる聖殿であります。「貴方達が神様の聖殿である事と神様の霊が貴方達の内に留まる事を知らないのですか?コリント前3:16」。聖書は、その人の内に聖霊様が居ない人は神様の人では無いとはっきりします「ローマ8:9」。                                                                                                  イスラエルは長い間、彼らを救ってくれる王様が来られる事を待ちながら過ごしていました。しかし、いざ王様であるイエスキリストが来られると、彼を王様として受け入れません。受け入れるどころか、返って殺してしまいます。神様は、これを「天国=王国」は暴力によって奪取されたと言われます「マタイ11:12」。ですから、マタイ書はイエスキリストを王様として受け入れなかったイスラエルの滅亡と彼らが受けるべき苦難、そして独立、7年の艱難を通じて1000年王国が成立する事が予言されてあります。神様の予言の通りにイスラエルは滅亡し、予言の通りに約1900年ぶりに独立します。そして、この世の中が悪に満ちた時に裁かれ、7年の大艱難に陥ります「ヨハネ啓示録4章~19章」。                                                                                         今の時代はイエスキリストの血が自分の罪を贖ってくれた事を心で信じる人は救われるけれども、7年の大艱難にはイエスキリストを信じながら、律法を守りながら、666の数字と呼ばれる獣の表を受けなかった144000人だけがイスラエル人の中から救われ1000年王国に入れます「啓示録20:4」。いつもイスラエル人は「家」と呼ばれ、一つの家族として扱われて来ました。                                                                                      救われた教会がイエスキリストの体として一人の[純潔の乙女=a chaste virgin]だと呼ばれるのと同じです「コリント後11:2」。                                                                                           しかし、啓示録14:4は乙女達と呼んで144000人が信心だけではなく、信心と行為によって求められた艱難聖徒である事を表します。今まで団体として神様に導かれて来た彼らに団体の概念が無くなり、144000人だけが救われるので乙女達と呼ぶのです。このように、聖書は文字一つも正確に使っておられます。そして、マタイ書で暴力によって奪われて延期された王国が成立するのです。                                                                                                                 その時は、誰でも分かるようにイエスキリストがエルサレムの聖殿に座っていらっしゃいます。ですから、その時は「主を知れ」とイエスキリストを述べ伝える人は呪われるのです「ゼカリヤ書13:3、ヘブライ8:11、エレミヤ31:34」。                                                                                                             testamentは血によって結ばれた神様の約束です。旧約は羊や雄牛の血によって、新約はイエスキリストの血によって結ばれた神様の口約束です。ですから、言約、或いは聖約と呼ばなければなりません。契約と呼ぶ人がほぼ100%ですけれども、契約は同等な立場で結ばれた取引を意味するからます。イスラエルのみに結ばれた神様の言約はcovenantです「ヘブライ8:11、エレミヤ31:34」。                                                                                                      ヘブライ書とヤコブ書はイスラエル人に書かれた手紙です「ヘブライ1:1、ヤコブ1:1」。ですから、ヘブライ8:7~13、エレミヤ31:31~37は1000年王国の福音なのです。                                                                                                           ヨハネ4:2で言う浸礼は待ちに待ったイエスキリストがイスラエルの王様として来られたので、王様として受け入れる為の清潔儀式です。今まで犯した罪を悔い改めさせ「マタイ3:1~3」、イエスキリストが来られたとイスラエルに知らせる意味を持つ浸礼なのです「ヨハネ1:31」。                                                                                             ローマ書6:1~14でいうのは十字架の浸礼です。                                                                                                          救われた人はイエスキリストの死なれた体の中に浸礼された人です。死んだ人は罪を犯す事が出来ません。酒も飲めません。喧嘩もできません。嘘もつけません。聖書を自分なりに解釈できません。自分の考えによる聖書解釈は夢にも思えません。人を憎む事もできません。「このようにあなた達も貴方達自身を本当に罪には死んだ者であり、イエスキリスト私達の主によって神様には生きている者だと思いなさい。ローマ6:11」。                                                                                                                     救われた人はイエスキリストと供に十字架で処刑された人、即ち十字架によって主と供に死の浸礼を受けた事を述べているのがローマ6章です。                                                                                                                              ちなみに、私は人を非難しません。間違った事を指摘するだけです。知りながら黙っている人を聖書は吠える事が出来ない犬だと言われます。イザヤ56:10」。
    • good
    • 1

 No.27です。

議論を いま しようと思わなかったので 答えを しぶっていましたが ひととおり お答えしておきたいと思います。 
 たとえば パウロが ヘブル書で エレミア書の《新しい契約》を取り上げて話しをしているところ これについて yukiyama20さんは どう捉えておられるのか 逆にこうお尋ねすればよいと思うのですが。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 もし、あの最初の契約が欠けたところのないものであったなら、第二の契約の余地はなかったでしょう。
 事実、神はイスラエルの人々を非難して次のように言われています。

   「見よ、わたしがイスラエルの家、またユダの家と、
    新しい契約を結ぶ時が来る」と、主は言われる。

   「それは、わたしが彼らの先祖の手を取って、
    エジプトの地から導き出した日に、
    彼らと結んだ契約のようなものではない。
    彼らはわたしの契約に忠実でなかったので、
    わたしも彼らを顧みなかった」と、主は言われる。

   「それらの日の後、わたしが
    イスラエルの家と結ぶ契約はこれである」と、主は言われる。
   「すなわち、わたしの律法を彼らの思いに置き、
    彼らの心にそれを書きつけよう。
    わたしは彼らの神となり、
    彼らはわたしの民となる。
    彼らはそれぞれ自分の同胞に、
    それぞれ自分の兄弟に、
    『主を知れ』と言って教える必要はなくなる。
    小さな者から大きな者に至るまで
    彼らはすべて、わたしを知るようになり、
    わたしは、彼らの不義を赦し、
    もはや彼らの罪を思い出しはしないからである。」

 神は「新しいもの」と言われることによって、最初の契約は古びてしまったと宣言されたのです。年を経て古びたものは、間もなく消えうせます。
  (ヘブル 書8:7-13)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
    • good
    • 0
この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

議論をしようとは思いません。もう私は疲れてしまって
前覚えていたことも出てこないありさまです。

だから憩いをイエスに求めようと思います。

彼はこういっています。
ルカによる福音書12章49節
「わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである。その火が既に
燃えていたらと、どんなに願っていることか。しかし、わたしには
受けねばならない洗礼がある。それが終わるまで、わたしはどんなに
苦しむことだろう。あなたがたは、わたしが地上に平和を
もたらすために来たと思うのか、そうではない。
言っておくが、むしろ分裂だ。

…以下略。」

私は私の洗礼が終わっていません。私は苦しみつづけます。

お礼日時:2008/02/24 17:46

教会にいかなくとも、洗礼を受けずとも、悔い改めた者はキリスト教徒です。



もう少し突っ込んで言うと、この世の教会にいかずとも、この世の教会でいわゆる牧師から洗礼を受けずとも、キリストを頭とする真の教会の教会員であれば、キリスト教徒です。
つまり全生涯に渡る悔い改めをした者が、クリスチャンです。

さらに突っ込むと、洗礼があって悔い改めがあるのではなく、悔い改めて洗礼があります。
すなわち、救いの条件は悔い改めであって、洗礼ではありません。悔い改めることにより十字架の上からでも今日イエスと共にパラダイスに行けます。

洗礼やこの世の教会、牧師制度などの形式主義に捕らわれることを、パリサイ主義といいます。イエスが最も嫌ったものと思っています。
もし、洗礼をしてもって救いに近づく、あるいは神に近づける、あるいは洗礼をなんらかの条件にする考えを持っているのであれば、洗礼は躓きの石となります。受けない方がよいと思います。
悔い改めたことの証として洗礼を受けるのであれば、祝福されると思います。

教会では共に祈ることも、学ぶこともできますので、できれば行くことがよいと思いますが、それも条件ではなく、いかずとも神に忠実に生きることはできます。
世の中には、教会もなく、牧師もなく、洗礼もないキリスト教の宗派、団体もあります。

教会員でなければ救われないとか、洗礼を受けなければクリスチャンではないという考えは、反聖書的と思っています。
    • good
    • 3
この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
そういえば、イエスが磔になったときに一緒に磔になった
二人の罪人のうち、一人がイエスから「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われていますね。

>世の中には、教会もなく、牧師もなく、洗礼もないキリスト教の宗派、
>団体もあります。

以前回答してくださった方の中にも、
無教会主義を教えてくださった人がいました。

ちょっといろいろ霧が晴れてきました。
私は人間的な慰め欲しさに、道を踏み外すところだったかもしれません。

お礼日時:2008/02/24 16:18

 聖書記者ヨハネによれば 《洗礼を授けていたのは、イエス御自身ではなく、弟子たちである》(4:2)とありますが 授洗者が誰であれ そのバプテスマの権能は キリスト・イエスに属します。


 洗礼について 避けているわたしが言うのでも変ですが たとえ堕落した聖職者の手によるものであっても そのバプテスマが イエス・キリストの権能によって授けられたことに変わりはありません。
 ですから さらに もし その聖職者が ペテロからの授受の伝統の内にないとすれば それは 今度は 考えようです。キリストの権能に基づく聖霊によるバプテスマであれば それだけで よいと考えるか それとも そこに飽くまでも水による洗いもなければ だめだと考えるかです。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
この話題って関心が高いのでしょうかね。
たくさんの意見をいただきました。
brageloneさんが洗礼を避けている理由もわかりませんが
私は素直に洗礼を受けたほうがいいと思いますよ。

お礼日時:2008/02/23 19:32

23ですが


ダメだしなどしてしていませんて。

洗礼しないと、
教会行こうと行くまいと、キリスト教徒ではないというのが
世界的に「ふつう」ですよと、お伝えしたかったまでで、

教会に行くか行かないかと考えているあなたは、
ほんとに「洗礼」を受けたいのか と
いまいちど自問をおすすめしたかたっただけです。

聖書は書物にすぎず、信仰は心の道しるべにすぎない。
聖書を読んで、信仰して、神と向かい合うだけですと、
知的好奇心をみたす勉強会には参加できても、
キリスト教の根源的な立場である共同体のなかに参加できないですよ。
人間同士で しるしがついているかどうか
まちがいなく気にする宗教です。。。
世界旅行すれば、ひとりぼっちの厳かな信仰は身の助けになりません。
大体の文化的な言語地域で、そういうのを信仰とよばず、信念とよぶからです。
放浪の求道者にでもなるなら別ですが。
洗礼だけして、教会に行かないほうが、まだしもキリスト教徒として人間の世界で無難というものですよ。ほんとうに。
    • good
    • 2
この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
いや、この質問は別に洗礼しなくてもキリスト教徒か?
というんじゃなくて、
「洗礼を受けた後に教会行かなくてもといいのか?」という意味です。

見返すと…なんか違う意味にも取れますね…。
これは質問の仕方が悪かったですね。

お礼日時:2008/02/23 13:59

ローマ書8:9「しかし、神様の霊が貴方達の内に留まれると貴方達が肉体の内にいるのでは無く、聖霊の内にいるのです。

今は誰でもキリストの霊がいないと彼の人ではありません。」                                                                                                             キリスト人は、その人の中にキリストの霊、即ち聖霊様が臨在されておられる人です。                                                                                           しかし、数多くの人々が自分の内に聖霊様がいないのにも係わらず、キリスト人だと言っています。貴方に、答えた人々の中にはキリスト人は一人もいません。
                                                                                                  教会はその人の内にキリストの霊がおられる人々の集まりです。ですから、教会は建物ではありません。                                                                                                               今 凄く 疲れて 眠くなりました。短い返事、本当にすみません。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
>貴方に、答えた人々の中にはキリスト人は一人もいません。
いや、そんなことは無いんじゃないでしょうか…。

お礼日時:2008/02/23 13:53

わからないなら書いてね。

あなたの状況やどこまで信じてるのかわからないから・・・まあ色々な方がいます。それがキリスト教徒の面白いところで神様は信じるものをすべてをお救いになる方ですね。

あなたと神様の関係があるならそれでいいと思う。変な教会に行って傷つくなら行かないほうがましだしね。もちろんそこから神を信じるものは救うんだけど、牧師の洗礼ほど意味のないものもあるかな?
牧師の主観ではいクリスチャンです。それならイエスはいらない
    • good
    • 0
この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
まぁうまくいかない人もいた。ということです。
質問したのは失敗だったかもしれません。
いろいろ、すみませんでした。

お礼日時:2008/02/22 21:55

キリスト教凄いですか 聖書素晴らしいですか。


けっこうけっこう
ほかの古い宗教も同じくらい凄いですよ ほかの経典も問答集も素晴らしいですよ。

あなた、知的興味を持っただけじゃないでしょうかね。
一つだけ触れる機会があった、それにビビッと来たんじゃないですか。
機会や縁、これは諸々の宗教の教えのうち。
カルトに縁があったなら、あなたの宗教的準備がカルトにふさわしかったんだと思いますね。。。いじわるでなく。
それできびすを返したなら、それが答えだと思いますけれどもねえ。

で、洗礼受けなきゃキリスト教での来世はないですよ。
なんのために洗礼があると思っているんです。
ただしあなたがそんなにキリスト教の来世に行きたがっているようには見えませんけれども。
死に方を選ぶということは生き方を選ぶということ、
生まれ方に不服がなければ、与えられたものそのままが一番なんですけれどねえ。。。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

>一つだけ触れる機会があった、それにビビッと来たんじゃないですか。

その問題は私自身が気づいています。
だからいろいろやってます。こうしてネット上で
あーでもないこーでもないと、余計なことをしているのもそれで。
傍迷惑だから、そろそろやめると思いますけど。

あなたが何者か知りませんし、わざわざ回答してくださったことも踏まえて
駄目だしされたのであれば受け入れましょう。

それに最悪。まぁ、神に逆らって地獄に行くやつは
神の存在を否定したわけではないでしょう。

まぁ、出逢った物がカルトでそれに結局支配された
悲惨な人間。救いもなし。それでいいんじゃないんですかねぇ…。

お礼日時:2008/02/22 17:43

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!