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『ヒューマニズム』と『パターナリズム』についての信仰生活での悩みそうだんです。

近年、私の信仰生活上、
最も気になってきたテーマのひとつである『ヒューマニズム』

しかしながら、
昨今のキリスト教会の現場の現状現実の有り様在り方は如何なものなのでしょうか?

『ヒューマニズム』以前の問題が起きているという現実を往々にして垣間見ませんでしょうか?

私はタダでさえ精神疾患PTSDグリーフケアが必要な中にあって、だからこそキリストに出会い教会に出会いキリスト教徒になりました。

ところが実際は、人の人格を認めるどころではなくどこへ行っても蔑ろにされ虐げられてきた
『パターナリズム』そのような認識にしかなれずにいるキリスト教会の現場の有り様を感じています。

『カルト化教会』も大いに叫ばれていますし。

どなたか回答感想よろしくお願いします。

A 回答 (2件)

> どなたか回答感想よろしくお願いします。



① 宗教や信仰、文化、信条、習慣というのは、論理的に順を追って理解していくものではなくて、非論理で習得、馴染む、取り込むものです。
言語でも飲食服装、親子兄弟姉妹や他人あるいは店員教師医師老人赤子のような立場理解も、交通機関や情報機器の利用でも同様です。

② 宗派?のあるような多くの宗教信仰には「教義・教条・戒律」のようなものがあり、これを「是・当為」として受容することが大前提です。
どのような意味合いで「パターナリズム」の語をShinya514さんが使用されているのか不明なところがありますが、懇切丁寧とか優しく寄り添うようにとかいう態度はただの進行スタイルにすぎません。コアの部分をそのままに受容して自分の拠り所・基盤とすることで、爾後の理解や判断、方針決定のベースを確定し、併せて心理的あるいは情動面の安定を実現するのが宗教や信仰です。 「教義・教条・戒律」のようなものがはっきりしない自然宗教で森・樹・泉・河・山・岩・鳥獣蛇虫などを拝するものもありますが、こうした自然宗教でもその信仰対象がなにゆえに拝すべきものであるのかを説くことはないでしょう。 馴致・馴化は「次第に」という面に注目した見方です。 偶には「突如・画然・悟り」のようにひらめいてしまう人もいるようですが、多くの人、99%は、宗教を「宗教文化の獲得」という形で進みます。 それは「寄り添ってもらい、手ほどきされて、"明晰な筋を理解"していく」のではなく、「見よう見まねで似たことをして"身体と神経と脳の神経回路を構成"していく」のです。

③ Shinya514さんは「ヒューマニズム」をどのような意味の言葉として使っているのでしょう。15,16世紀の人文主義vs20世紀の人間主義or弱者救済博愛
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> グリーフケアが必要な中にあって、だからこそ キリストに出会い 教会に出会い キリスト教徒になりました
この下のサイトには、嘆きや哀しみ喪失の情をそのままに「是」とする方法を説いています。
https://jodo-shinshu.info/2018/09/10/15213/
ご自身が自死遺族でもある同朋大学特任教授中村薫氏は、このようにおっしゃいます。「泣く」という字は、「さんずい(氵)」に「立つ」と書きます。中村氏は娘さんを亡くされたとき、作家である高史明さんにお電話され、次の言葉をいただいたそうです。「泣いて泣いて泣いて、お譲さんの分まで生きてください」と。泣いてはいけないのではなく、この身を引き受けていく。そのように受け止められたとおっしゃいます。まさにそれこそがグリーフワークなのだと思います。ケアとは、泣くこと悲しむこと怒ることの邪魔をしない・そのままでいいということを保障する・そっと見守る・説得 指示 説教 説明 叱責 非難 比較 評価 議論はしない・正しさは持ち出さない・何かを引き出そう 何かを変化させようという意図を持たないことが大切なのです。一言で言うならば「いらんことはしない」なのです。「役に立たなければならない」という暴力性を帯びた支配的強迫観念を手放し、ただそこに在るという姿勢こそがグリーフケアの中核です。それは「信じて任せる」という姿勢ですが、まるで何もしないでひたすらじっとしている座禅にも似ています。
河合隼雄氏は「中心を外さずただそこに居ること」「傍らに居続けること」の重要性と難しさを説き「何かしないことに全力を注ぐ」と述べていました。
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この河合隼雄はとても有名な心理学者です。 「何かを引き出そう 何かを変化させようという意図を持たない、説得 指示 説教をしない、しないことに全力を注ぐ」というのは、何だと思いますか。 私は、これは「受容の仕組みの一つ」であるだけでなく、"生命体が行動や思考のスタイルを獲得する基本形"だと思っています。 反応や認知、情動、筋骨格、内臓、内分泌、代謝、循環が、一定のやり方を獲得する唯一の方法だろうと思います。 
寄り添ったりもしない、反発もしない、ひたすら状態を維持すれば、それで身につくのですから、他人(親・教師・僧侶神官巫女・医師・官吏・友人・配偶者でも)が、ガイドしたり、説明したり、解説したり、要領よくまとめたりはしなくていいのだし、場合によっては放置し時に任せる、成り行きに委ねるのが良いのです。 そういう手法を理解して、手法として「あえて放置」をとるのも、パターナリズムの一種ともいえるでしょう。 声高に「これを覚えなさい。これは~~ということだ」と強制することだけがパターナリズムではないでしょう。
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キリスト教の本質を知るにはニーチェの著作を読むのが近道です。


原書は敷居が高いので解説書等で学びましょう。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

お礼日時:2023/06/22 19:07

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