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禅の自覚の本質を、難しい仏教用語をなるべく廃し、回答者様の言葉で15行位で書き込んで頂ければ幸いです。

よろしくお願いします。

A 回答 (15件中1~10件)

人生の少しの間、禅寺にいたのですが、


そこで聞いた体験からの言葉は、禅の自覚を本領とする京都学派の哲学よりも面白いものでした。
そして、本質は同じことを言っていました。
座禅や問答をとおして、痛みや苦しみや悩みが、もはやわけがわからなくなり、
自分が痛いのか床が痛いのかがおぼろげになって、認識ではない悟性のようなところが研ぎ澄まされてくると。
強度として在るがままに在るものが、ただ在るだけと。
わたしは、若冲の絵を思い浮かべました。
夥しい集積でひしめきあうように成っている世界が、空漠の世界とも見える。
点ただひとつが、無限の時空間をはらみ、それらの在るか、無しかは、わたしたちの自と他によりかかる浅い認識に触れているのみと。

この回答への補足

amaguappaさんは参禅(修行)されたのですか、ああいう所でも嫉妬、妬み、いじめ(いじめと言ったら大げさですが)、が有るのでしょうね。

補足日時:2008/04/10 12:49
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この回答へのお礼

>若冲の絵を思い浮かべました。

分別加工しないことでしょうね。

私などは大したものではないですが、悟=他力だと小自覚してます、こう自覚しますと「本当の心の自由で有ると察してます」心が不安(苦)で有ろうが安心(楽)で有ろうが、そのままで言い訳ですから、自分の物差し(分別計)を使って安心(幸福)にもっていく必要がないわけです。もちろん身体もですが、不安安心・生死用事なし。無論、自覚者に精神的肉体的苦がない訳ではないわけでが。

自覚の有る良寛の吐露「死ぬ時が来たら死ぬだけの事・災難が来たら災難にあるだけの事」が出るのでと察します。

真宗の妙好人、才市の言葉は自覚者のままの言葉だと思いす、老師にも匹敵する位ではないかっと察します。


当流の安心は
善いのがでても それをよろこぶじゃない
また悪いのがでても それをくやむじゃない
ただ仰いで 頭をさげ 尊むばかり


amaguappaさんの文章を拝見し自覚の有る方だと察しました、いい勉強をさせて頂きました私の自覚も少し深まった気がします。合掌。

お礼日時:2008/04/11 11:43

呼吸

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この回答へのお礼

有り難うございました。

お礼日時:2008/04/28 20:58

『禅』とは、常にこころが(本性に)目覚めていて、(外来的・外祥的なものについても内在的・内祥的なものについても)一切に対してこころが揺らがない様子を指して言う(覚者が問う人に対して敢えて述べる言語表現としての)言葉である。

 つまり、すでに解脱した覚者はつねに禅に住しており、禅に住している人は覚者である。

さて、たとえば知恵の輪が未だ解けない間は、知恵の輪を解こうとして為されるさまざまな操作は苦以外の何ものでもないが、一旦知恵の輪が解けてしまえば、知恵の輪を解いたり戻したり、あるいは勝って・無作為に行なうあらゆる操作が、彼にとっては苦とはならないであろう。 それと同じく、未だ覚りの境地に至っていない人々(=衆生)にとっては苦以外の何ものでもない外来的・外祥的な、あるいは内在的・内祥的な一切のことがらや想念が、すでに解脱した覚者にとっては何ら煩いや苦とはならず、それらによってこころが揺らぐことはあり得ないこととなる。

あるいはまた、たとえば人がまだ子供である間は、子供らしいことがらに一喜一憂し、子供らしい文物を欲しがり、子供らしい遊びに興じるものであるが、人が一度大人になれば、それら子供じみたことがらや文物や遊びに気を留めることは無くなり、それゆえにそれらにまつわって起こる種々さまざまな煩いや苦悩も消失してしまうであろう。(もちろん、大人には大人に相応しいことがらがあり、文物があり、遊興があるのはもちろんである。) それと同じく、未だ覚りの境地に至っていない人々(=衆生)にとっては苦以外の何ものでもない外来的・外祥的な、あるいは内在的・内祥的な一切のことがらや想念が、すでに解脱した覚者にとっては何ら煩いや苦とはならず、それらによってこころが揺らぐことはあり得ないこととなる。

ところで、禅は覚りの結果もたらされるものであり、禅(と世人が名づく何か)が人を覚りに導くものではない。 聡明な人は、(禅という)言葉やかたちにとらわれることなく、物事の真偽を自らの明知によって知り明らめて、他ならぬ自らによって自らを真実の禅の境地へと至らしめよ。 それを為し遂げたとき、「禅とは何か?」ということのすべてを自ら理解することになるからである。

***
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この回答へのお礼

お礼が送れ申し訳ありません、ありがとうございました。

お礼日時:2008/04/26 23:29

教学だけでなく、空を悟れということでしょうか。



第二十九則 非風非幡
六祖、因に風、刹幡をあぐ。二僧あり対論す。一りは云く「幡動く」と、一りは云く「風動く」と。往復してかつて未だ理にかなわず。祖云く、「是れ風動くにあらず、是れ幡の動くにあらず、仁者が心動くなり」。二僧しょうぜんたり。

第三十則 即心即仏
馬祖、因みに大梅問う、「如何なるか是れ仏」。祖云く、「即心即仏」。

第三十三則 非心非仏
馬祖因に僧問う、「如何なるか是れ仏」。祖曰く、「非心非仏」。

第三十四則 智不是道
南泉云く、「心は是れ仏にあらず、智是れ道にあらず」。

第三十五則 倩女離魂
五祖、僧に問うて云く、「倩女離魂、那箇か是れ真底」。
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この回答へのお礼

分別を殺せと言う処でしょうか。分別の大嘘つきという処でしょうか。

有り難うございました。

お礼日時:2008/04/20 06:09

そもそも、禅とは、何かから、入ります。

禅とは「人間の生命力の意識」或いは、自我意識と言うものに対しての、「無意識の意識」或いは
自分の全存在の意思という、言い方をしても、良いと思います。

そして、「禅による生活」とは、自我が、でしゃばらなくて、全存在の意思が、主導権を持った生活と云っても良いかと思います。

禅問答が、難しいのは、秘密があります。それは、脳の機能に隠されています。普通誰でもが、自分は自我、自意識だけで生きている、と思っています。それが、大いなる誤りなのです。

それでは、悩み、苦しみを、分析してみると、判る事が有ります。それは、自分が二人いることになります。そして、聖書に書かれている事。

原罪が、ない、天国に一番近い者は、幼子と言う事で、説明しやすくなります。幼子は、脳の機能が、未発達です。その事で説明できます。

思春期頃、人間の悩みが、始まります。それは「アダムとイブが、智慧のリンゴを食べた」事に相当します。原罪というものが出来た、ということです。

それは、、左脳に自意識、右脳に自分では判り難いものの意識が在ると言う事です。

左脳に自意識が、在ります。その機能は「分別」する事がその専門です。分別できる事は「有限」に属しています。

右脳に、一つの人格が在ります。無意識を司っています。「分別」出来ない事を、扱うのが、専門の脳です。感情とか、直感とか、自分にはわかりにくいですが、プレッシャーの掛かった時に、自我に変わって、体を動かしてくれる。そんな者です。分別出来ないことを、永遠、或いは無限という、呼び方をします。

人間の最大の、悩みとは、「自分の死を意識」した時です。その時に、大いに悩みます。中には悩みの少ない人もいますが。

その、悩みを分析すると、判ります。自我は大変な苦しみを感じます。それは、自我が有限のためです。処が、自分が苦しむと言う事は、あべこべに、自分の中に「永遠」のものが、いると言う証です。というのは、自分の苦しみは、自分がもたらしているからです。

悩みとは自分自身の心の分裂、対立、矛盾と云って良いからです。自分の心が、一つしかないならば、対立も、矛盾も無い訳です。

それは、左脳の自分の意識、に対して、右脳のなかに、仏性というものがいることによります。その意識の矛盾を、自我が「苦しみ」として受け取っています。

それで、禅問答が出てきます。これは、左脳の分別脳では、解く事が不可能です。脳の能力の範囲を超えているからです。それで、禅問答が解けたかどうか?と聞く時に、「生死の問題は解決したかどうか」と言う質問になります。

禅問答が、解けたときは、左脳の自我と右脳の仏性が出会う時です。その事を「見性」(自分の性を見た)と言います。

その時の事を感情面で、言うなら、「自分が死にゆく事は、いやだ、死にたくない」という事だったものが、仏性の永遠性に触れる事によって「自分の肉体としての死は、たいした事ではない、という事が判ります。自分は元々、永遠のものを、持っていて、肉体の死は仕方の無い事、という、「絶対肯定」という足場が出来上がります。この事が「生死の問題が解決した」と言います。

生死の悩みは、有限から無限を眺める事によって、引起こされます。他の言い方をすれば(仏性)から言えば、自我の苦しみ方を見て、その永遠性から、自我に、助けを出そうとして、その手を、遮られる、その矛盾を自我意識が「苦しみとして」受け取っています。

人間苦というものは、脳の機能の無知から、引起こされています。
左脳の専門の問題と右脳の専門の問題を人間が、勘違いして、出来ない問題を、出来ない脳で解決しようとしているのです。その事を「禅」は教えています。

そして、見性出来た自我は、一回死んでいます。二度とでしゃばらなくなります。二つの心の矛盾を「悩み、苦しみ」として感じていました。その矛盾の解消によって、人間の悩み苦しみと言うものの「完全解消」となります。その事を「涅槃」と言います。「絶対の安心」「絶対肯定」という事です。キリスト者なら「神と和解した」とも言えます。
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この回答へのお礼

お礼が遅れ申しありません。長文有り難うございます。

15行位で書き込みを頼んでいたのですが、水の如く通過して頂き。

なるほど、なるほど、って感じですね、言葉を使って説明すると、こういう説明になるのでしょう。

お礼日時:2008/04/20 02:39

禅については触れないつもりでしたが


自分の考えの整理のためにも。

禅が、実は神秘主義の一種である。
ならば禅の自覚の本質は死である。

有と無を大乗仏教的な空の概念によって
同一視する。

生と死は一つになる。

死人に口なし。
言葉にはできない。語れないのだから。

自我をなくし全体性に溶け込む。
それは死ぬこと。

輪廻からの解脱において完全な死を遂げたものは
もはや生まれない。

生きながらに死ぬ。
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この回答へのお礼

お礼が遅れて申し訳ありません。参考に成りました、有り難うございます。。

お礼日時:2008/04/20 02:52

禅の元をたどればお釈迦様まで行き着くのでしょう?


だとしたらお釈迦様のようになることを目的としてるわけですよね。
方法論の一つとして禅があるなら
『禅の』というのは変じゃないですか?
方法論の一つである禅が、『禅の』といってしまったら本末転倒になるのではないかと...
超門外漢でした。
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この回答へのお礼

>方法論の一つである禅が、『禅の』といってしまったら本末転倒になるのではないかと...

理屈はいいんじゃないんでしょうか。禅は仏法・・。。理屈抜きだと私などは察してます。^^。
理屈は哲学にお任せしたいと思います。

>超門外漢でした。

ご謙遜を。

有り難うございました。

お礼日時:2008/04/15 12:42

  《心の起こらないところ》。



  おそわるところによりますと 《禅》では
 
   一切の心の起こらぬところが 禅の出発点となる。 
   心を起こさぬのではない。心がおこらないのである。
   (柳田聖山:禅――上山春平・梶山雄一編著『佛教の思想』1974)

とのことだそうですね。殊勝な心を起こすのではないのだと。その心を起こすというよりは おこらないのだと。起こす必要がないように生まれて来ているのだと。信仰を必要としない信が すでに心に あるのだ。・・・
 門外漢のひと言でした。
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この回答へのお礼

いつもお世話になってます、お礼が遅れ申し訳ありません。

>一切の心の起こらぬところが 禅の出発点となる。

その様ですね、座禅をしますと、色々の囚われからはなれ、無分別に成るようです、思考をしない状態、その状態でも足音は聞えるみたいですね、只聞える、そのまま聞える、たぶん不安・安心のない世界、その時これが仏性かと分別を使うと悩みの世界。 

>信仰を必要としない信が すでに心に あるのだ。・・・

なるほど。

有り難うございました。

お礼日時:2008/04/20 01:32

時間論における前後裁断、一瞬の過去と一瞬の未来の狭間に自身を追い込み、そこで何に気づくかですね。

その気づきは悟りではありません。
悟りへの道、入り口ですね。一瞬の狭間にこの世ならざるものを感じ取る、悟りへの入り口を見出すのが禅の特徴ですね。これを禅の自覚といいますね。自覚の先に小悟りあり。小悟の先に大衆救済あり、と永遠に続きます。これ 利自即利他 ですね。
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この回答へのお礼

なんとなく判りますね貴重なご意見有り難うございした。

お礼日時:2008/04/14 15:12

それは静かです。

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この回答へのお礼

  >「静かです」    

うん~ 有り難うございました。

お礼日時:2008/04/11 09:17

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