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 最近、自分が読んでいる作家(夏目漱石・芥川龍之介・安部公房)の文章力(表現力)についての質問です(三問)。

1・夏目漱石の文章は芥川龍之介の文章と比較すると、軽い文体(今でいう村上春樹の文体)な気がします。
 何故、夏目漱石の文章は良い評価を得ているのでしょうか?(夏目漱石の文章の魅力とは?)

2・大江健三郎が、安部公房が生きていたらノーベル文学賞を受賞出来たと言った様ですが、(安部公房の文章も)芥川龍之介と比較しても、軽い気がしますが、安部公房の文壇での評価は如何なのでしょうか?

3・現代の文学は文学ではないと評する友人がいますが、実際は如何でしょうか?(文壇での評価でなく、回答者の方の意見としては)

A 回答 (5件)

 私は芥川読まないし、ノーベル文学賞は信じてないし、小林秀夫も読まない人なので、あまり参考にはならないと思いますが。



3.に関して

 現代の文学は大衆文学と純文学の差がなくなりつつあるといわれています。ですからもし純文学こそが文学だ、というお考えをお持ちなら現代文学は文学ではないといえるかもしれません。

 私も現代の文学より古典を読むことが多いのですが、現代の文学も別の種類としてというか、テレビのような感覚で読みます。さーっと読めておもしろいものもありますよ。人々にゆっくり本を読む時間がなくなって、出版会も経済的にこまっている現在では文学の形もおのずと変わってくるのかもしれませんね。
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この回答へのお礼

>出版会も経済的にこまっている現在では文学の形もおのずと変わってくるのかもしれませんね。

 それは、凄く大きい問題だと思いますね(個人的には)。

お礼日時:2008/06/11 04:52

つづきです。



「夏目漱石の小説は、何故高い評価を受けているのか?ということを聞きたかった」
その質問が成り立つためには〔評価が不当に高い〕が条件ですが、
満たされていません。あなた自身が高く評価するなら疑問は
ないからです。

「>最高に高いと言えるでしょう。
 具体的に、誰がそう評価しているか分かると有難いです。」
どの評者も絶賛していますよ。具体的に示せというためには
あなたが〔そんな事実は無い〕と積極的に言えなければならない。
独自に調べずにこのサイトで質問しているのだから、
積極的に疑う根拠が無ければ信頼しなければおかしいでしょう。

「日本語文法的に間違っていますか?」
間違っています。
〔現代の文学は文学ではない〕は〔黒い猫は猫ではない〕と同じです。
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この回答へのお礼

 質問の仕方が悪かったでした。

 自分は否定をしていませんし、具体的に分かれば、挙げて下さいと言ったまでです。
 自分が知っている以外でも、いるのかなぁと。

>〔現代の文学は文学ではない〕は〔黒い猫は猫ではない〕と同じです。

 そういう意味ならば、その言い回しで、個人的には良いと思います(文法的には間違っている様ですが)。

お礼日時:2008/06/11 04:55

シロウト考えを述べてみます。



1・漱石の文章は芥川より軽いか?
実際に文章を並べて比較してみましょう。引きあいに出す例文が適切かどうかという問題はありますが。

●うとうととして目がさめると女はいつのまにか、隣のじいさんと話を始めている。このじいさんはたしかに前の前の駅から乗ったいなか者である。発車まぎわに頓狂(とんきょう)な声を出して駆け込んで来て、いきなり肌(はだ)をぬいだと思ったら背中にお灸(きゅう)のあとがいっぱいあったので、三四郎(さんしろう)の記憶に残っている。じいさんが汗をふいて、肌を入れて、女の隣に腰をかけたまでよく注意して見ていたくらいである。
 女とは京都からの相乗りである。乗った時から三四郎の目についた。第一色が黒い。三四郎は九州から山陽線に移って、だんだん京大阪へ近づいて来るうちに、女の色が次第に白くなるのでいつのまにか故郷を遠のくような哀れを感じていた。それでこの女が車室にはいって来た時は、なんとなく異性の味方を得た心持ちがした。この女の色はじっさい九州色(きゅうしゅういろ)であった。
〔夏目漱石『三四郎』〕http://www.aozora.gr.jp/cards/000148/files/794_1 …

●私は漸(ようや)くほっとした心もちになって、巻煙草(まきたばこ)に火をつけながら、始めて懶(ものう)い睚(まぶた)をあげて、前の席に腰を下していた小娘の顔を一瞥(べつ)した。
 それは油気のない髪をひっつめの銀杏返(いちょうがえ)しに結って、横なでの痕(あと)のある皸(ひび)だらけの両頬(ほお)を気持の悪い程赤く火照(ほて)らせた、如何(いか)にも田舎者(いなかもの)らしい娘だった。しかも垢(あか)じみた萌黄色(もえぎいろ)の毛糸の襟巻(えりまき)がだらりと垂れ下った膝(ひざ)の上には、大きな風呂敷包みがあった。その又包みを抱いた霜焼けの手の中には、三等の赤切符が大事そうにしっかり握られていた。
〔芥川龍之介『蜜柑』〕http://www.aozora.gr.jp/cards/000879/files/43017 …

いずれも汽車での相乗り客の描写のところを選んでみました。
漱石の外面的で客観的な描写にひきかえ、芥川のほうは語り手の内面的で主観的な描写ということが言えるかと思います。もっともこれはそれぞれの小説のテーマの違いによるところ大であるので即断することはもちろん出来ません。
ただ、漱石のほうが今のわれわれの口語により近い文章だということは言えるかと思います。一方、芥川のほうは、この成果を踏まえたうえで、口語そのままでない文章語の独自性を打ち出している、とは見なせるのではないか。だから漱石の文章より込み入っています。

漱石の文章の近くでわれわれはしゃべっています。しかし、芥川の文章のようにはわれわれはしゃべらない。
これが質問者さんのおっしゃる「軽さ」でしょう。

こうしてみると、漱石は確かに、現代口語文の完成者だったと称揚した司馬遼太郎のことばがよみがえってきます(司馬は同じ理由で正岡子規の文も称揚してました)。井上ひさしが『坊っちゃん』を賛美する理由の一つもこれでしょう。文章が自然で、そして生き生きしている、ということでしょうか。

芥川はこれをいっそう工夫していった。そのための難解さもある、ということではないかと思います。

漱石の文章の魅力についてですが、これはとても一言ではいえないんじゃないでしょうか。
あまたあるところ、たとえばユニークなところでは、
 ・佐藤信夫『わざとらしさのレトリック』講談社学術文庫
は、レトリック(修辞法)という観点から、漱石の表現力の魅力について適切な箇所を引きつつ、なるほどなあということが一杯書いてあったと記憶しています。
もしよければそうしたものに当たってください。

蛇足というか、参考までに。
●十日ほど前、親友の加藤郁治(かとういくじ)と熊谷から歩いて帰ってくる途中で、文学のことやら将来のことやら恋のことやらを話した。二人は一少女に対するある友人の関係についてまず語った。
「そうしてみると、先生なかなかご執心(しゅうしん)なんだねえ」
「ご執心以上さ!」と郁治は笑った。
「この間まではそんな様子が少しもなかったから、なんでもないと思っていたのさ、現にこの間も、『おおいに悟った』ッて言うから、ラヴのために一身上の希望を捨ててはつまらないと思って、それであきらめたのかと思ったら、正反対(せいはんたい)だッたんだね」
「そうさ」
「不思議だねえ」
「この間、手紙をよこして、『余も卿等(けいら)の余のラヴのために力を貸せしを謝す。余は初めて恋の物うきを知れり。しかして今はこのラヴの進み進まんを願へり、Physical なしに……』なんて言ってきたよ」
〔田山花袋『田舎教師』〕http://www.aozora.gr.jp/cards/000214/files/1668_ …

明治の後期にあって、しかも書生の仲間内でも、少なくとも男の手紙の文章はこんなに固かったんですね。それでいて花袋の文章そのものはすぐれて口語的です。これは当時、すこぶる新しい文章だったと思います。
そうした多くの先人たちの努力と、試行錯誤の末に、今われわれは現代日本語の文章を綴っているのでしょう。

  ※

2・安部公房の評価
あまり多くを知りませんが、これについては丸谷才一、鹿島茂、三浦雅士という、文学に関する該博な知識と教養を持つ、個性的で手だれの本読ミストたちの鼎談、『文学全集を立ち上げる』での安部公房評をご紹介しましょう。(2006年、文芸春秋社刊 P.294~P.297)

「近代文学の流れで言えば、安部公房さんをどうしますか?」という司会者の問いに、
鹿島氏は「安部公房は生前は評価が高かったけど、その後、どんどん落っこちて、また最近上がってきてますね」と概説し、「とにかく、読んでも感じるものがない」
丸谷氏も「僕はよくわからないんだよ。棄権に近いな」とこのお二人はにべもありません。

ひとり評価するのは三浦氏ですが、それも『終わりし道の標べに』『砂の女』、特に『榎本武揚』です。
あとはせいぜい『他人の顔』『第四間氷期』『飢餓同盟』『燃えつきた地図』あたりまで。
『箱男』『密会』『方舟さくら丸』などは題名さえあがっていません(あとの二つは私もがっかりでしたが)。
私は高校生のとき『壁』を読んでビックリ仰天、おもしろーっと思ったクチなんですが、これもあがっていません。『人魚伝』も『人間そっくり』も戯曲『奴隷狩り』も。最先端と思われていたものはたちまち古びるもののようです。

人によってまたまったく違う評価もあるでしょう。ご参考まで。

  ※

3・現代の文学は文学ではないか?
まあ、文学以前の段階であるというご友人の意見でしょう。

現代の作家はどうも驚くほど他人のテキストを読んでいないみたいです。
自分の感性にまかせきってばりばり書く。そして中にはそれなりに面白いものが書ける人も結構あるみたいです。けれどもある段階で行き詰ると、それ以上の展開ができなくてポシャる。(私があまり多くを読んでいないのでこのあたり憶測です)

自己の表現上の困難にぶち当たったとき、どのように切り抜けるか。
その答えの一つは他者の文章を読む、ということだと思います。なぜなら他者もその課題にどこかで直面しどこかで切り抜けているからです。それぞれの解答もヒントも新たな課題も、他者の文章の中にすべて書き込まれている、と考えることが出来るからです。

多くを読む人が必ずしも多くを書く人ではないけれども、かつては多くを書く人は必ず多くを読んでいる人でした。
永井荷風が亡くなった報に接したとき石川淳は「それは一老人が死んだということにすぎない」という意味のことを言いました。これは文学者が文学者を糾弾する仮借ない一文で、戦後の荷風は文学者としてはとっくの昔に死んでいた、書くものはどれも愚痴で文学の魅力はどこにもなかった、この要因は荷風がもはや新しい読書をしなくなっていたからだと喝破しました。(石川淳『敗荷落日』)

この伝でいくと、現代の作家の多くは、恐ろしく表層の薄い土壌の上でものを書いている、と言えなくはないと思います。
前掲の『文学全集を立ち上げる』の初めのほうで丸谷氏が文学的キャノン(正典)ということに触れ、
「人間の文化は言葉が基本になって形成されていますが、その言葉の高度なものの核心部にあるのが古典なんです。その古典を精選したリストがキャノンでしょう」と規定し、「そういうものがないと文明の拠り所がない。文明がグラグラ、グズグズになって、社会がうまくまともに機能しない」と言っています。(同書P.9)

同意するしないは別にして、示唆に富む言説と私などには思えます。
これは古いものの遵奉というスタンスでは決してなく、
真に新しいものは古いものの上にしか花開かないという真理が述べてあるのだと思います。
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この回答へのお礼

 夏目漱石の『硝子戸の(題名忘れましたが)』を読んでいて思ったのですが、夏目漱石は第三者の目線から書いている感じがします。
第三者の目線の意味として、映像を見ている感じですね。
 その物語の人物の性格を(芥川龍之介と比較しても)、書いていない気がします(内向的でないと言いますか)。
夏目漱石の書籍は、自分は好きではないので、全くと言って良いほど、読んでいませんので、夏目漱石の小説はどういうものかは分からないと言えます。
 ただ、自分が読んできた夏目漱石の小説は、どれも軽い。
軽いというのは、「人物の性格判断をすること」を読者に委〔ゆだ〕ね過ぎている気がします。

 確かに、今の作家は他人の小説を読むという基礎的な行為を怠っている気がします(村上春樹は違うみたいですが)。
 その基礎を怠ると、ある時点から、才能任せに書いているので、其処で停止してしまうと思います(自分の価値観が増えないから)。
 他者のものを観ることによって、自分の価値と照らし合わせ、何かしらの価値観を得るという気がします(それを怠れば、当然の結果だと思いますね)。

 安部公房とは、もう少し付き合っていこうと思います、苦笑。

お礼日時:2008/06/11 05:07

文章の軽重は特徴であって評価とは無関係です。

何か誤解をしているのではないでしょうか?

文体論については門外漢なので3についてのみ答えます。

おそらく、「現代の文学は文学ではない」という意見は、古典的な文学を基準にしたものだと思います。新しい文学とは既存の文学を壊し、その上に構築していくものなので、文学もまた絶えず変化していきます。現代の文学が古典的な文学と違っているのは当然のことです。変化を止めてしまったら、それは文学の衰退を意味します。時代の変化を受け入れられない、保守的な人が現代の文学を否定し、「古典的な文学だけが文学である」と考えることで、自分を納得させているのではないでしょうか。こういう人は、どのような分野にもいます。
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この回答へのお礼

>文章の軽重は特徴であって評価とは無関係です。
何か誤解をしているのではないでしょうか?

 語彙力の問題などを意味しています。
又、特徴も評価に含まれていると考えます(小林秀雄の評論などを読んでいると)。

>古典的な文学を基準にしたものだと思います。

 友人も、自分も保守的な立場ですね。
其処には気が付きませんでした。
 しかし、保守的な立場であろうと、現代文学には本質が描けていないと考えます。
現代文学は、破壊、破壊の連続で、最終的には「無」に到達して、結局は保守的な立場から書いた様な文章が生き残ると思います。
 回答有難う御座います。

お礼日時:2008/06/08 09:40

1・夏目漱石の文章は芥川龍之介の文章と比較すると、軽い文体(今でいう村上春樹の文体)な気がします。


★龍之介の方が軽快ですよ。漱石の方がリズムに欠ける。

何故、夏目漱石の文章は良い評価を得ているのでしょうか
★漱石と同格の評価を得ている小説家はたくさんいますよ。

2・大江健三郎が、安部公房が生きていたらノーベル文学賞を受賞出来たと言った様ですが、(安部公房の文章も)芥川龍之介と比較しても、軽い気がします
★そんなことありません。安部の文章はグダグダしたものもかなりあります。もちろん効果を狙って計算してのことですが。

安部公房の文壇での評価は如何なのでしょうか?
★最高に高いと言えるでしょう。

3・現代の文学は文学ではないと
★そんな日本語はありません。
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この回答へのお礼

 質問の仕方が悪かったですね。
「軽さ」の意味を明確に書くべきでした。

>龍之介の方が軽快ですよ。
漱石の方がリズムに欠ける。

 分かります。

>漱石と同格の評価を得ている小説家はたくさんいますよ。

 夏目漱石の小説は、何故高い評価を受けているのか?ということを聞きたかったです。

>最高に高いと言えるでしょう。

 具体的に、誰がそう評価しているか分かると有難いです。

>そんな日本語はありません。

 日本語文法的に間違っていますか?

お礼日時:2008/06/08 09:34

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