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 《罪》とは ここでは そのおこないに対して あとで償わなければならないという性質のことを言います。必ずいわゆる罰とよぶべき悪い結果を伴なうという意図・意欲・おこないのことです。
 《情欲》とは 一般的な意味に解してもらってよいと考えますが 例としてたとえば 次の文章の中に描かれた内容を言っています。

 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ・・・カルタゴでは いたるところで《恥ずべき情事の大釜(サルターゴー)がふつふつと音を立てていた》。アウグスティヌスは〔十六歳のとき〕まだ愛することを知らなかったけれども 《愛することを愛して 愛の対象を求めていた》。《愛し 愛されることが 私には甘美であり 愛する者の身体を享受することは なおさらに甘美であった》(『告白』3・1)。アウグスティヌスはやがてひとりの女性と同棲し 十八歳のときに一児の父となる。《情欲で結ばれた場合 子は親の意に反して生まれるのであるけれども 生まれた以上は愛さずにはいられない》(同上4・2)。男子はアデオダトゥスと名づけられた。・・・
(熊野純彦:『西洋哲学史 古代から中世へ』2006 p.169)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 * アウグスティヌス自身が 《恥ずべき》と言い 悔いて《告白》しているのですが 《罪》と見なすべきなのでしょうか という問いです。
 * 《罪》の定義を改めるというご回答も あるかと考えます。

 * わたし自身の少しく抱く考えは 《規範として罪を想定しその規範を振りかざすことは ありえないのではないか》 / また――いっそのこと極論を出して 話がすすむと言えるとするなら―― 《罪という言葉は それ自体 要らないのではないか》 と思うようになっています。
 * 自由なご見解を述べて お答えを寄せてください。

A 回答 (8件)

罪とは、それを罪だと思う人にとっては罪ですが、それを罪だと思わない人にとっては全く罪ではないものです。


ゆるさない人にとってそれは罪であり、ゆるす人には罪ではないということになります。
(ここで「それ」としている中には何を代入してもよいでしょう。もちろん今回の『情欲』でも)

アウグスティヌスが過去の行為を悔いて恥ずべきと告白しているのなら、(おそらくは)アウグスティヌスは自分のしたことを罪と見なしていたのでしょう。そう推測するのが妥当だと思います。
しかし、本人が罪に感じているからといってそれが罪であるかどうかは全く別の話。
罪と見なす人もいるでしょうし、罪と見なさない人もいるでしょう。
あえてレッテルを自ら貼るなら、相対主義者の私はそう考えます。
では、
「《罪》と見なすべきなのでしょうか」
という、べきかどうかということに対する答はどうなるのか。
「見なすこともできるし見なさないこともできる。そこにべきはない」になります。

ある人にとって罪であることがある人にとって罪でないとするならば、そのような概念は空虚ではないか、ということもまあ考えられなくもないでしょう。
「罪という言葉は それ自体 要らない」は、そこからも行き着きそうに思われます。

罪の定義ですが、罰が付き物というけれども、「罪をなしたのに罰が当たらない」という一見不条理なことは世の中にはありそうなことです。
(逆に「罪なき罰」というのもありましょうが、ここはそういうロジックは求めるテーマとズレてきますので控えておきます)
そうすると、必ず罰を伴うものなのかというところには纔かながら疑問はあります。

この回答への補足

 nabayoshさん ご回答をありがとうございます。
 
 アウグスティヌス自身の言葉を掲げておくのは 無益ではないでしょう。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 肉身の齢(よわい)十六のとき 私はたのしいあなた(=神)の家をはなれて どこにいたことでしょう。何と遠くさまよっていたことでしょう。
 そのとき 汚れた人間の風習によって放任されているが あなたの法によっては許されていない狂暴な情欲が全権をふるい 私は完全に屈服してしまいました。家の者は堕落してゆく私を 正当な婚姻で抑えようとは配慮せずに できるだけうまく弁論をあやつり 舌先で相手を説得する術を習うようにと ただそればかりを気にしていました。
 (告白2・2)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ こういう杓子定規〔に わたしには思えるよう〕なところがあるようです。
 今回 何といっても nabayoshさんからのおおきな収穫(!?)は
 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ある人にとって罪であることがある人にとって罪でないとするならば、そのような概念は空虚ではないか、ということもまあ考えられなくもないでしょう。
 「罪という言葉は それ自体 要らない」は、そこからも行き着きそうに思われます。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ ここでしょう。たぶん 法治社会にとっては 法律違反としての罪つまり犯罪は とうぜん 残るでしょうが もし相対性による捉え方をも脱して 《罪という言葉は不要》だと ひろく受け取られるならば 地球の表面は かなり なめらかな肌を見せてくるかも知れません。

 ★ 罪の定義ですが、罰が付き物というけれども「罪をなしたのに罰が当たらない」という一見不条理なことは世の中にはありそうなことです。・・・
 ☆ いぢわるく言えば nabayoshさん節(ぶし)の発揮されるところですが この質問をめぐって わたしは こう思っていました。(1)キリスト者は 案外 柔軟である。(2)一般の人は 諾否に分かれるだろうが どちらにしても 過激ではない。ですが (3)ブッディストからは 猛烈な批判が来るであろうという予測が 頭の隅に見え隠れしていました。いまんところ おおきくは(1)の系譜ですね。
 議論の行方を見守っていただいて さらに見解を敷衍してくださるようお願いしておきたいと思います。

補足日時:2008/06/11 21:42
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自分の体験がもし役に立てばと思って、そちらの4つの現在進行中の関連質問に時間をとって回答することが出来ない分の穴埋めとしたいです。



書けるかどうかはともかく ともかくじっくり書いてみたい気持ちとなる質問群であると私が感じていることは解っていただけるところと思います。

時間は少なくても、忙しい中でも誠意に対しては筆は尽くしたいです。(とある時間の使い方より(笑))

∞∞∞∞*

書きましたように体験なのですが、

私は高校生ぐらいの時には、セックスについてはこんな印象を持ってる人間でした。

女性の裸の写真を見ると赤面してしまい、それは若い頃よくあることとして、でもその裏に何かそれこそ悪魔でもいるかのような感じで、見てしまっただけでも罪悪感を感じる人間でした。

想像するなんてもってのほかという感じでもあった人間です。

(ただし、その感覚は正直にそういう感覚を自分が持っていると自覚しつつ何か違うのではというという違和感も同時に持っていました。)

ところが 大学時代に あるとても明るい女性に恋をした時から、その感覚自体が一気に180度変化してしまいました(笑)。

これも極端な話なのですが、それ以後何年かの間はセックスの何もかもが美しいイメージになってしまいました。

何もかもです。 (そうそう、この人とこそ赤い糸で結ばれてると思っていたその恋は失恋に終わりましたが)

そのおかげで 私はそれこそ何の罪悪感も恥ずかしいコソコソ感もなく、トルコ(今でいうソープランド)という風俗のお店に通うことになったのです。

最初から、くつろげる場所でしたので、一番最初の時もベテランと間違われています(笑)。 本番というのが いわゆるそこでのセックスですが、その本番にて始めて、始めてだというのが解ったという感じです(笑)。

で、 そこで彼女達も、心待ちにしている5%のお客さんの仲間として私を迎えてくれていたと言うのですが、その他の95%ぐらいのそこに来るお客さんはすべて変態なのだそうです。

でも そこに私が感じた変態というのは、形(テクニックとか)のことではありませんでした。

心の通わないセックスは そんなお店の女性達にとってさへ、無意味な存在であり、時には出来れば避けたいセックスの世界であったわけです。

心の通い合うセックスには、さまざまな価値ある感性の世界ば豊かに息づいています。

しかし、  これは30代 わたしが新宿歌舞伎町にいた頃の話ですが、
ポルノ映写技師の友達がいましたので(子供みたいに純朴でまた親切すぎるぐらい親切な人でした。)、そのおかげで その頃のポルノ映画はたくさん見ることになったのですが、  これにはがっかりしました。

たぶん経緯から解ると思いますが、すこしは期待していたからです。

たった一本を覗いては すべて何の感性の通い合いも無い、時には暴力ドラマを楽しんでいたりする映画ばかりだったのです。 ロマンポルノというのはドラマ性(生活描写)もあるポルノ映画ですが、 私の目にはそれこそ嘘だらけでした。 真実には何の心の通い合いもない映画でした。それならば暴力のほうがまだまし(笑)というものでした。

そのたった一つというのは、けれど、縄縛りのつまり変態を扱った映画、そこで始めて一人の女優が実際にそれなりに感じている学ぶところのある映像を見たのです。(でも それだけのことだったということです)

今のポルノ映画はは、おそらく全く違うことにもなっていると思います。 でも今はセックスをもし表現するならば、 それこそ最高のミュージカルでもあるべきだという考えになっていますので、 まじめな興味もありますが、時間が無いので見てません。

「早く 早く脱ぐの!スボンを!!早く、なにやってるのパンツぬぐの!!! 早くなにやってるの早く!!!! こっちは商売なんだからね。 早く入れるの!!!!! 早く何やってるの出すの はやく!!!!!! n  出たじゃない? 早く抜くの〆!!!!!!!
何やってるのはい3万円」   罪悪感を感じてしまう人すら何も感じないまま終わってしまうセックスもあるというお話(自分だけの体験ではありませんよ)。

セックス感は 成熟と関係あります。 物事をどれだけ本質的に理解してるかという意味では哲学とも関係しています。 あらゆる人間性がその成熟と関係しています。 簡単に言えば前頭葉の働きとその成熟の世界は関係し循環しています。   体の個人差とかはあまり関係ないです。

健康は関係しているとは思っていますが、それよりも いかに五感全部でそしてさらに人間性全部で心が通じ合えるかが 成熟の循環を産むすべててと思います。

ポッ気や精射が絶頂期 そんなのも嘘と言えば嘘です。  

今では、セックスの成熟は 大昔の中国北方に育った仁術の知恵である気脈とこそ関係してると思っています。 あるいは日本人ならば肌感覚。でもセックスにおいては五感全部が たぶん編桃体と海馬を介して、豊かなシナプスの流れを生んでいるという感じで理解されています。

アウグスティヌスがどういう人かは知りませんが 哲学者であったからといって必ずしもそのへんが成熟していたかどうかはいえないところと思います。

家族の経験 これはすばらしい成熟の機会でしょう。 しかし やっぱり心の深い通い合いの循環がそこに通わないと 悪循環さへそこに起こってしまう可能性も多々推理されてしまいます。  現代の家族病理は時として深刻だったりします。(つかみがたいからなおさらです。)

>《愛し 愛されることが、私には甘美であり 愛する者の身体を享受することは なおさら甘美であった》< とありますが、 この「告白?」だけでは その「甘美」さの程度もわかりませんし、そして成熟の度合いとかもよく解らないのですが、  たぶん、いかに西洋全体が性を罪悪視している時代であったとしても、 成熟した甘美さを感じれば  そこに神の偉大さを感じ入るのみであったと思います。   >悔いて《告白》<するような哲学自体を たぶん忘れてしまったでしょう。

罪という言葉は、 わたしには 忌み嫌うべきは苦しみがなくならない方向とか 成熟が起こらない方向とかとかと 闘わない姿の全てを 意味します。

簡単に書いてはおかしな文になりますが、それ自体が罰という感じもあると思います。  

セックスの不成熟も、その意味ではまた罪です。 

神様のこと、また持ち出しますが 神様の作られた“『性の世界自体』
が罪だとか あるいは不純” な世界であるとは考えられないところです。

ほんとうは その逆だと思う。

何かの参考になればな と思う気持ちで書いてみました。

この回答への補足

 arayata333さん ご回答をありがとうございます。

 まぁ そこまで わたしは 体験を書く気持ちにはならないのですが そんなものかなとも思います。

 ここでは あえて――対抗するのではありませんが―― 対照させるのも いいかと考えました。古代人 キリスト者――ただし 最古の近代人とも言われている人ですが――のアウグスティヌスの語るところを 引用しておきましょう。けっこう おもしろいと思います。 

 ▲ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 さて 生殖器に内在する肉の欲望を婚姻の純潔は善く用いるのであるが しかもその欲望は意のままにならない運動を持っている。その運動は 堕罪(* つまり アダムとエワの原罪と言われるそれ)以前の楽園においては欲望が皆無であり得たか あるいはたとい存在していても 時には意志に抵抗することがないように存在していたことを私たちに示す。しかし 堕罪後の今は 欲望は精神の法に反しつつ 生むべき原因が全くないときにも 性交すべき刺激を与えるようなものであると私たちは考える。もしそれに人が屈服するなら罪を犯しつつ満たされる。

 * ただし 《あやまつならば 我れ有り》。

 もし屈服しないなら 同意しないで 制御される。この二つのことは堕罪以前の楽園においては無縁なものであったことを誰が疑い得ようか。なぜなら あの貞潔は恥ずべきことをなさず あの祝福はいかなる不安も覚えなかったからである。
 したがって 処女の子が懐胎されたとき そこにはこの肉的な欲望は全く存在する筈がなかったのである。処女の子において死の制作者(* つまり悪魔)は死に値する何ものも見出さなかったにも拘らず 生命の制作者(* つまり キリスト・イエス)の死によって征服されるためにかれを殺すようになったのである。最初のアダムの勝利者(* アダムらを誘惑し得た死の制作者=悪魔)は人類を拘束していたのであるが 第二のアダム(* キリスト・イエス)によって征服されて キリストに属(つ)ける者たちを放免する。

 このキリストに属ける者たちは 人間の輩(ともがら)であるが 咎の中に居られなかったお方(* キリスト)をとおして 人間の咎から解放された人間の輩である。したがって あの欺瞞者(* 悪魔)は自分が咎によって征服した人間の輩に征服されたのである。このことは 人間が高められることなく 《誇る者は主において誇る》(コリント後書10:17)ためになされたのである。

 征服されたのはただ人間だけであった。人間(* アダムら)は 傲慢によって神であろうとしたゆえにこそ征服されたのだ。しかし征服したまうお方(* キリスト・イエス)は人間にして神であった。

 誰もが このお方に似るであろうと言われ得る。神(* キリスト)は謙虚に 他の聖徒らの中になされたのとは異なって 人間を支配されず むしろ人間を担いたまうたゆえに 処女から生まれて征服されたのである。かくも大いなる神の賜物も またそれについて今 問い求め論議することは私たちにとって長すぎる別の事柄も もし御言(* キリストなる神)が肉(* イエス)に成らなかったなら存在しないであろう。
(アウグスティヌス:三位一体論 13・18)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ こういうふうに捉えて ここまで考えていた人がいたということのようです。 
 わたしが ええかっこをしたのではありません。アウグスティヌスにしたところで このように考えていたからと言って 必ずしも カッコイイとも言えないでしょう。

補足日時:2008/06/20 20:56
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NO5です



>《情欲で結ばれた場合 子は親の意に反して生まれるのであるけれども うんぬん》

此の文章はおかしいですね、情欲は人間に備わった事実です、つまり男子が女子をみて情欲しないと子供は生まれません、勃起しません。質問が成り立ってないと思います。 手を抓れば痛い事実は変えれません

矛盾

聖書に「敵をも愛せよ」とありましが、生身(分別)の人間が敵なの愛せる訳がないのですよね、無分別智を体験しても敵は愛せないと思います、只、無分別智を体験すると「敵をを愛せる「行動」は素直に出来る」と思います。そこが分別の海でおぼれている人の違いだと思います。



分別の世界は憎しみ不安の(悩みの世界)を否定しますが、無分別智体験は悩みの有る世界をを肯定します。ですから「敵をを愛せる「行動」は素直に出来る」と思われます。     聖人と言う人に不安、憎しみ、情欲が無いとは思わないですね。


>《宗教的には》という見方を 一般的な見方にしたいのかどうか / したいとすれば どうするのか ここをお訊きしたいと存じます。


どうするのかですか、キリスト教なら聖書を一生懸命勉強する、出来れば、色々な哲学、宗教も、これだけでは駄目で如何しても、考えられないような苦痛、絶望を通過しなければ駄目だと思われます。   
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この回答へのお礼

 ri-zyuさんは 人の話をきちんと聞いていないのですね。

 (1)アウグスティヌスは かれ自身の物指しで 情欲について よくないことだと言っているという問題です。
 ▲~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ・・・汚れた人間の風習によって放任されているが あなた(=神)の法によっては許されていない狂暴な情欲が全権をふるい 私は完全に屈服してしまいました。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 そして これでは 杓子定規に思えるのだが・・・とこの質問の筋としては 触れているではありませんか。
 
 ですから
 (2) 《Q:情欲は 罪ですか》に対して 《罪ではない。理由は これこれだ》と答えてくだされば ありがたいわけです。

 (3) それが 単に 中立の生理的欲求であるという理由づけであるのなら
 ☆☆ あるいはまた ブッディスムでは 五戒のうちに 不邪淫戒というのもあるようです。
 ☆ というように それだけの理由の例示では 納得のいく答えとして受け取れませんと言っているではないですか。つまり 親鸞の例示からの類推になりますが 仏教でも 同じように《〈杓子定規〉による判断もあるのではないですか》という補足要求です。

 (4)★ どうするのかですか、キリスト教なら聖書を一生懸命勉強する、出来れば、色々な哲学、宗教も、これだけでは駄目で如何しても、考えられないような苦痛、絶望を通過しなければ駄目だと思われます。   
 ☆ これだけでは 答えになりません。

 ☆☆ 《無分別智》が 通念を超えて あるいは すでに通念を振り払って 一般的であるというご見解になるでしょうか。細かいですが ここが おしえていただきたい急所です。 / つまりは 無分別智の普及は どうなっているのでしょう?という問いにもなります。
 ☆ と問うているではないですか。《キリスト教なら うんぬん》は ただ はぐらかそうとしているとしか思えません。

 ★ 無分別智を体験すると「敵をを愛せる「行動」は素直に出来る」と思います。そこが分別の海でおぼれている人の違いだと思います。
 ☆ 急所をはずしてばかりいることが うまくなる(うまいわけではないのですが そういう傾向を強く持つことになる)のが 《無分別智》の功徳なのですか。それが 《敵を愛する〈行動〉》なのですか。

お礼日時:2008/06/14 01:28

素朴に考えれば虫などは情欲なしに子孫を増やしています。

四足の動物でも基本的には同じでしょうあ。人間は空腹感に対するグルメ嗜好のごとく、いわゆる性欲が子孫を残すことから遊離して独り歩きをやっています。遊離した性欲は過剰な食欲が糖尿病を引き起こすと同じように歯止めがかからないままにいろいろな問題を起こします。美味なものをたくさん食べられたので糖尿病になったことを後悔しない人には過食は罪にならないと思います。
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この回答へのお礼

 kaitara1さん ご回答をありがとうございます。

 人それぞれである。――わかりやすいご見解です。

 たぶん――たぶん ですが―― 通念がどうかという問題にまで わたしは 入り込んでいたと考えます。また もしこの通念を俎上にあげるならば 一般に 物議をかもしだすような 情欲がらみの事態については 男の側が よくとがめられることがあるようです。これなども 女の側に対しても ともに 引き合いに出して発言しなければおかしいと考えます。――と言っても この通念が なくなれば 話は別になるわけです。
 (裏切り行為が このとき 情欲がらみの事態として 発生します。これは 情欲をめぐる通念の問題とは別に とがめられてよいと わたしは考えますが)。 
 ありがとうございました。

お礼日時:2008/06/12 11:09

情欲は人間に備わった「事実」ですから良いも悪いもないと思います。

罪が有る無い以前の事実だと。

親鸞は女性を見、情欲しました、そして妻帯しました。それまでは情欲は良くないとされてたのでしょうが、情欲(煩悩と置き換えても言いのではなでしょうか)など断つ事は出来ない、事実。
良い悪い・善悪・罪で有る罪で無いは分別の上には有りますが無分別智では無いのですよ。ここが解って貰えないのは残念です。

ですから宗教的には悪人も善人もないから悪人が赦せるわけですよ。

悪人を肯定している訳では100%ありません。




幾日でしたか、質問回答の時に ですが こんな設問などやめとけというのは どこから来るのでしょう。《失
礼》をとおり超えています。今度同じ調子であれば 応答致しません。

と有りましたが私は設問を止めとけとは一度も言ってませんよ。まあ~どうでも言いですが。
 
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この回答へのお礼

 ri-zyuさん ご回答をありがとうございます。
 質問は成立ということだそうですので お礼とご返事をしたためます。

 アウグスティヌス自身が ひとつの別の見方としては 《情欲じたいの問題ではなく 安穏な道を行くのに抵抗があったという問題だった》だの 《やはり情欲じたいの問題ではなく それをめぐるみづからの意志のあり方が問われる》だのという捉え方をもしているのですが そうなのですが
 基本的には 規範ということが幅を利かせているようです。No.4のお礼欄などに引用しているとおりです。
 それに あるいはまた ブッディスムでは 五戒のうちに 不邪淫戒というのもあるようです。あたかも これとかかわってのように
 ▲ 《情欲で結ばれた場合 子は親の意に反して生まれるのであるけれども うんぬん》
 ☆ といった反省口調が出てくるかと思われます。
 
 そうしますと 親鸞を引き合いに出しておられるので もしブッディスムに立つとしますと この戒律の問題を 素通りしていいのだというご見解でしょうか。つまりは 情欲をめぐる罪の定義を改めるといったご回答になるでしょうか。
 繰り返しますと
 ★ 〔親鸞の妻帯の事例が出た時点で〕それまでは情欲は良くないとされてたのでしょうが、
 ☆ という通念のことを含めて どうなのだろうという質問です。
 ★ 罪で有る罪で無いは分別の上には有りますが無分別智では無いのですよ
 ☆ という《無分別智》が 通念を超えて あるいは すでに通念を振り払って 一般的であるというご見解になるでしょうか。細かいですが ここが おしえていただきたい急所です。

 つまりは 無分別智の普及は どうなっているのでしょう?という問いにもなります。
 ★ ですから宗教的には悪人も善人もないから悪人が赦せるわけですよ。
 ☆ 《宗教的には》という見方を 一般的な見方にしたいのかどうか / したいとすれば どうするのか ここをお訊きしたいと存じます。

 * 《妻帯》となれば 不邪淫戒を犯してはいないと思います。僧侶では 問題なのでしょうが。これも 日本の仏教では 問題でなくなったようです。

お礼日時:2008/06/12 10:57

罪を考察する場合の補助となる軸として、罪の反対語を検討してみたいと思います。



罪の反対語は、無罪とは思っていません。
罪がマイナスならば、無罪はゼロです。プラスの方向の語が対応できていません。

罪=タブー破りならば、反対語はタブー遵守です。
罪=法律違反ならば、反対語は法律遵守です。
遵守だと、プラスイメージですから、この遵守からさらに連想する語を検討すると、倫(人の行うべきみち)とか徳(人道を悟り心を養い身に得た状態)とかになりそうです。

そこで、罪と倫・徳の軸の上で、情欲を考察すると
情欲は、罰せられるのか、賞賛されるのか、という他者の目線とは無関係なようです。自ら罰するのか、自ら賞賛しうるのか、という自己の目線を重視しています。そのとき、心の重圧を感じるのか、その反対なのか、という観点から、罪(-側)から倫・徳(+側)の位置をみると、

>アウグスティヌス自身が 《恥ずべき》と言い 悔いて《告白》しているのです

とあるので、この場合は罪(-側)に大きく振れています。おそらく、情欲の暴走を恥じて悔いていると推察します。その点から、心の重圧(罪悪感)が生じているのでしょう。キリスト教の背景においては、これでいいのでしょうが、現代日本の私の感覚では、「情欲の暴走」というのは考えすぎで、それでは「生」を否定していて不幸を自ら作り出している(自作自演)と思ってしまいます。

「生」=「動」ですから、暴走ではなく、小走りくらいの認識で肯定してみるくらいの心の余裕があればよかったのにと思ってしまいます。ですから、微罪にもならないと思いますよ。小走りでは罰せられませんから。結局は、情欲の内容次第でしょう。ちょっと、推察し切れないので、これ以上は展開できません。失礼します。
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この回答へのお礼

 qsxdrfvgyhさん ご回答をありがとうございます。

 No.1そしてNo.2と見て来まして みなさん 《情欲じたいは 罪ではない》のほうへ考えを寄せておられるようです。
 
 ★ 罪(-側)から倫・徳 *(+側)
 ★ * 倫(人の行うべきみち)とか徳(人道を悟り心を養い身に得た状態)
 ☆ という正負の捉え方を基準とするなら やはり 《意志の方向性 その方向へと転ずること自体》が問題となるというNo.1での受け取りが なお効いているようです。
 ★ 情欲は、罰せられるのか、賞賛されるのか、という他者の目線とは無関係なようです。自ら罰するのか、自ら賞賛しうるのか、という自己の目線を重視しています。
 ☆ という見方も 《周りの見方》を退けているようでいながら その《周りの目線》をも 《自己の目線》に合わせるとすれば 筋が貫かれるように受け取りました。
 ★ 心の重圧を感じるのか、その反対なのか、という観点
 ☆ これは どうでしょう。これも アウグスティヌス自身が
 ▲  私は恋(または 愛)に恋しながら 何を恋したらよいかをさがし
 まわり 安穏で罠のない道を嫌っていました。(告白3・1)
        (No.1お礼欄)
 ☆ というように 微妙にその《心の重圧》のありかが それているようでもあるので みなさんの見解の指向性は いまのところ 共通する部分が大きいのではないでしょうか。それこそ
 ★ 「生」=「動」ですから、暴走ではなく、小走りくらいの認識で肯定してみるくらいの心の余裕があればよかったのにと思ってしまいます。ですから、微罪にもならないと思いますよ。
 ☆ という捉え方なのですね。わたくしも たしかに そちらの方向を向いていました。さらに 幅広く見解を見ることができればよいと思います。

お礼日時:2008/06/11 21:19

結論から申しますと、


ある一面から見れば「悪」であり
また、ある一面から見れば「善」である。
さいころをイメージしていただければ判り易いと思いますが、
さいころは、立方体であり、見る角度によってそれぞれ違う図柄を見せます。
情欲も同じように、見る角度によってよくもあり悪くもあります。
しかし、これは、一個人の判断で良し悪しを決めるものではなく、
周りが決めるものである。判り易く言いますと、人に迷惑をかけるような行動は「悪」しかし、人を愛し子孫繁栄、未来的、建設的な情欲は、「愛」情欲となり「善」となるのではないでしょうか?心の中で思う、行動をおこすは関係なく、破壊的、後退的な思想、行動が「罪」になるのではないでしょうか?
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この回答へのお礼

 big-threeさん ご回答をありがとうございます。

 ★ 一個人の判断で良し悪しを決めるものではなく、周りが決めるものである。判り易く言いますと、人に迷惑をかけるような行動は「悪」しかし、人を愛し子孫繁栄、未来的、建設的な情欲は、「愛」情欲となり「善」となるのではないでしょうか?
 ☆ 意志が そのとき そもそも どちらのほうを向いて どうしようと欲しているのか そうして そちらへ意志を転ずる このときの意志のあり方が 悪になるか否かを決するというのが No.1での受け取りだったのですが
 ここでは 《周りの見方》如何であるという見解を合わせて 出していただいたかたちでしょうか。
 あるいは その情欲の相手の合意の問題もあるでしょうし。
 ★ 心の中で思う、行動をおこすは関係なく、破壊的、後退的な思想、行動が「罪」になるのではないでしょうか?
 ☆ こちらは さらに一歩踏み込んだ恰好でしょうか。
 ★ 心の中で思う、行動をおこすは関係なく
 ☆ は たしかに その方向如何を問題にしておられると見ます。後半の表現によることができます。
 ★ 情欲も同じように、見る角度によってよくもあり悪くもあります。
 ☆ これについても そうしますと 情欲じたいは 中立・中性として いいでしょうか。《見る角度》あるいは見る者のほうの意志のあり方 ということに帰着するのでしょうか。
 さらに慎重にまいりたいとは思います。

お礼日時:2008/06/11 20:59

情欲自体は誰しもが持っている自然な感情でしょう。


そのため情欲が罪ならば、人間全てが罪人です。

情欲が罪なのではなく、内に秘めておくべき情欲を行動に移してしまう事が罪なのではないでしょうか。
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この回答へのお礼

 maxmixmaxさん ご回答をありがとうございます。

 ★ 情欲が罪なのではなく、内に秘めておくべき情欲を行動に移してしまう事が罪なのではないでしょうか。
 ☆ そうですね。たしかに アウグスティヌスも やはり自身の言葉で 悔いることの内容を 微妙に 情欲のことから離しているところも見受けられます。

  私は恋(または 愛)に恋しながら 何を恋したらよいかをさがし
 まわり 安穏で罠のない道を嫌っていました。
  (告白3・1)

というような方向での見方です。ちょうどまた――これは 《悪》という問題のほうですが―― 次のように《悪を存在の問題から引き離した》という解説を見かけました。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

   意志がすぐれたものを見捨ててより劣ったものへ向かってみずか
  らを転ずるとき そのものが悪しくなるのは それへ向かってみず
  からを転ずるところのものが悪しきものであるがゆえではなく そ
  の転回そのものが転倒したものであるがゆえである。それゆえ よ
  り劣ったものが悪しき意志を生ぜしめたのではなく 意志がみずか
  ら悪しくしたがゆえに よこしまで無秩序な仕方でより劣ったもの
  を熱望したのである。(神の国 12)

 つまり悪は 決して物体(* あるいは 肉体)によるものではなく 神という精神的な存在の方向に在るものに本来向いているはずの意志が 自らを反対の方向に向けること自体なのだと アウグスティヌスはいうのである。
 (八木雄二:古代哲学への招待 p.242)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ こういうことなのでしょうか。
 少し 拍子抜けなのですが どうなのでしょう。

お礼日時:2008/06/11 20:45

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