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辞任や切腹は責任をとったという事なのでしょうか?
私は責任とはなんとかする事だと認識しているので、辞めてしまうのは寧ろ責任を取っていない取ることが出来なかったと感じるのですが。
死刑についても被害者の意識や制度としてはともかく、加害者に償いはさせていない気がします。

A 回答 (14件中1~10件)

>辞めてしまうのは寧ろ責任を取っていない


平社員ならそれでいいでしょうけれど、管理職やその上ではそうはいきません。
なぜなら、管理職(および、その上)には、地位に応じた権限があるため。
辞任しない(させない)というのは、その人が権限をもったままということです。
辞任なしで権限剥奪、というのは無い(そんなことをすれば指揮系統が機能しません)ため、
まずは辞任(更迭)が先。責任をどうするか(辞任だけでいいのか、それに加え何かが必要なのか)
は別の話で、分けて考えます。

あと、「責任」が何を意味するか、大きく2つのあるので、話の食い違っている部分があります。

狭義の責任:法的制裁を受けること。 やや広く取っても、その人への制裁のこと。
 この意味では、辞任は制裁に該当するため責任をとったことになります。
広義の責任:損顔賠償のこと。
 こちらの意味では、辞任では責任をとったことになりません。

ですので、「辞任や切腹は責任をとった」というのは、
制裁に関して受けるべきものは全部受けた、という、狭義の意味で使われてるため、別に間違っていません。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

お礼日時:2010/03/21 12:18

そもそも、辞任と切腹をひとくくりにしていることに違和感を覚えます。



諸説はありますが、切腹の場合は「一命をもって詫びる」わけですので
自分の命をもって十分に責任を負っているかと思います。
(責任を負うためだけが切腹ではないですけど)


辞任も、今と昔では大きく扱い方が変わっているかと思います。
今では責任逃れの辞任がどんなに多いことか。退職金まで貰う辞任に
なんの意味はないと思います。

おっしゃるように、責任を果たしてから辞めることもありだとは思いますが、
なんらかしらの失敗を負った人間には信頼性がなくなってしまいますので、
なのとかしようしても、なんともならない状態→他にすることがなくなる→
辞任 のような気がします。

社長を辞任して、相談役に。部長を辞任して、子会社の社長に。など、この
ようなシステムがある以上、しょうがないかなぁとも思います。
一度失敗したら人生終わり(切腹の概念はそうですが)制度を本来とるべき
なんでしょうが(切腹までいかなくとも、「ダメ」レッテルを貼られ、天下りなし、
再就職先困難な世間体を社会が作る)そこまで縛ると、独裁的になりがち
なことと、今の保身のシステム上、誰も責任を負う立場に就かなくなるよう
にも思えます。

死刑に関しては見せしめだと思っています。
悪いことをすれば、最悪死ぬことになる。という恐怖観念をもたせ、抑制に
つなげているように思えます。
罰というなら、楽な死より苦しい生の方が相応しい気がします。
江戸時代ではないですけど、(永)蟄居謹慎(ようは独房生活)などの方が
よっぽど生きてて辛い処罰かと思います。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

お礼日時:2010/03/21 12:25

まず辞任についてですが、私個人としては責任をとって辞めるというのはお門違いと考えています。

特に公人や取締役が自分の身の処し方を自分で決めるというのは責任を吐き違えています。
責任の取り方については選んだ側にその判断を委ねるというのが正しい在り方でしょう。進退伺いという形をとって、任命権者に下駄を預け、その決定に従うというのがあるべき姿です。
責任とはなんとかすることだというご意見ですが、そもそも能力がなくなんとか出来ない人間にやれといっても無理な話です。勝手にやれると思い込み、力のある地位に留まり続けられるのも迷惑な話です。
選んだ人間が「なにか起きてしまったがここを乗り切ってなんとか決着をつけられる」と判断すれば続投となるでしょうし、「いやムリじゃない」と判断すれば更迭となります。結局のところ、辞任とは更迭され能力がなかったと評価されるのを避けるための「極めて卑怯で悪質な行為」と考えて差し支えありません。

実はここで一番言いたいのは、「一番責任があるのは選んだ側の人間」だということです。議員も社長も職務を遂行するために必要な権力を与えられただけの人間ということです。権力者=責任者というのがそもそもの誤解なのです。
株主総会と社長の関係を考えれば分かり易いです。ダメな社長を選んで会社が倒産すれば、証券は紙切れと化し株主は大きな痛手を負います。倒産の責任は社長個人でなく選んだ株主にあり、無限に責任を負います。
その意味で、選挙で選ばれた公人が大きな罪を犯した場合、選ばれた公人は勿論、選んだ選挙民にはそれ以上の罪があるのですが、自覚に乏しいのが実情です。自分にはまるで無関係とでもいうように、街頭インタビューに答える姿をよく目にします。ですが、職責を果たせない人間を選んでしまった罪というのは非常に重いことを自覚すべきでしょう。
これは我が国が議会制民主主義をとる以上、国民すべてが自覚すべきことなのです。もしこの国が再び侵略戦争を犯すことがあれば、その戦争責任は誰あろう我々国民全員にあります。独裁者を生んだならば、その罪は彼を選んだ選挙民すべてにあります。誰に投票したとか、投票しなかったとかではなく、その結果を生み出した事実に責任があります。

次に死刑制度についてですが、そもそも死刑になる場合は「反省の余地がなく、更正の可能性が極めて乏しい」という判断が根底にあります。
死刑執行は「責任を果たした」ことによって処されるものではなく、「責任をとれない」と判断されて処されるものだと考えます。人の命を奪うという行為がどれほど重い罪かと言えば、たとえ自分の命をもってしても、罪を償うことが出来ないほどだということです。
被害者の家族に対する償いは誠意や反省、賠償金で僅かばかりでも贖える可能性はありますが、殺されてしまった被害者本人への償いはどうすることも出来ません。亡くなられた方の偽らざる気持ちは、本当のところ家族にも親友にも分かりません。つまり、被害者本人への償いを棚上げしなければ責任論自体が成立しないのです。
軽々しく死刑廃止を叫ぶ前に、棚上げされた被害者本人への償いをどのような形で果たすべきか、もっとよく考えるべきです。後悔と反省は生きた人間にのみ与えられる特権です。その時間と機会を奪っているのですから、永遠に償えない罪を負って大人しく刑を受けることだけが死刑囚に与えられたただ一つの義務と考えます
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

お礼日時:2010/03/21 12:24

第一次世界大後、戦後処理のベルサイユ条約で敗北側のドイツに多大な責任を取らせようとした



結果、世界最大の被害者総数、死亡者数、被害額を産んだ第二次世界大戦へのシナリオが発動した
第二次世界大戦は人類始まって以来の様々な悲劇の記録を持つ人類最大の悲劇
アメリカも日本に「譲歩」しなかった。それが元で日本も戦争を始めてしまった
この世で最も害のある事象は「責任」と言う概念がもたらせた害悪だった

もう、だ~れも、許さない!

現代社会というものはとにかく責任と言う概念が強すぎて、重過ぎる
社会の不安要素だ。責任なんて考えていたら楽しめないよね?
保険屋が儲かる仕組みだ。個に大きな責任を負わせ、保険屋が変わりに支払う。だから保険に入れ。と。

人の命を握る医師は多大な責任を背負うだろう。彼らは責任と言う概念を忘れて手術に望む
人の命なんて重い責任は個人には耐えられるものではない。そんな事を考えたらメスを体に入れられないだろう
責任の事など考えていたら緊張で手元が狂ってしまう。
だから一時的に責任を忘れ、ミスを減らそうとするわけね。

逆に責任を重く感じるとミスが増える。
責任は人の能力を低下させる事もある。責任が重くて晩婚化したり少子化の要因にもなるし
デフレスパイラルにも責任の害悪は混じっている
重圧に耐えられる精神的な強さと言うより責任を無視する能力
一時的に無責任になることが出来る回路(力)が要求される

責任というものはどこかで線を引かなければならない。悲劇の元にしかならん
無責任すぎる事は良くない事だろうけどね
また責任感が強い人は「立派な社会人」だと認識されるが、どうも最近微妙だねw

確かに人が必死で責任をとろうとする姿は美しく見える。しかしそれは他人に要求するものではない
勝手に誰かが決めるものでもない。トラブルがこじれないようにするために決めているんだろうけど

切腹する事で元に戻る物なら良い、元に戻らないものは何をやっても責任の取りようが無い
また法的責任も責任を取ったことにならない。責任をとったことにするだけ。

そこで寛容の概念が必要になってくる。許すこと。責任よりも今必要なのはこれだね
世間は今、謝罪、反省ブームだw端から見てると狂っているように思える

刑務所は、謝罪する場所でも償う場所でもなく、形式的に償わされる場所だからね
強制的に「償わされる場所」であって「償う」場所ではない。
というか償わされるなんて概念は存在してはならない
償いと言うものは人によって強制的にさせられるものではない。またそうなってはならない
ではなぜ償わさせようとするのか?見ているものが気持ちいいからに過ぎない、変な性癖を持ってしまっている

どのように償う気持ちに持っていくか?そこに導くか?と言う事が重要なんだと思う
それを如何に加害者に認識されるか?精神のコントロール術が使える人ではないと、誘導できる人が使わないと、エゴにしかならない

許されるかどうかは別として。

まぁ、問題を起こしたら辞めるというのは単なる社会の決まりごとだね。
正しいかどうかなどどうでもいい。そのあとうまくやってくれれば責任はどうでもいい。責任の追及なんて最も無益な競争だ

しかし社会ではそう決まっている。伝統、風習だ。伝統の中には無くすべき良くない伝統もある
しかしどういうわけか老人は伝統を愛す。それが愛国心だ。それが日本なのだと言い張って譲らない
老人に権力が握られているからどうにもならない。老害だ

許されないものは許すことを知らない。許すことを覚えない、誰も許さなくなる。誰も許されない世界になっちゃう。だから犯罪がある。人を許せれば犯罪など生まれない。あるいは生まれにくい

悪を倒してスッキリしたい気持ちが人間にはあるってことだね。これを正義感と呼ぶ
正義感の発露は怒りや憎いしみだ。対立や戦い、犯罪要因になる
正義とは悪の属性を備えている。出来るだけ人を許すようにしよう。

でないと君も俺も誰にも許されない世界になっちゃうw
まぁ腰パンや態度ぐらいで大騒ぎする世の中だから既に許されにくい世界になっているんだけどね。ブログもよく炎上してるしね・・・

長文失礼w
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

お礼日時:2010/03/21 12:17

 No.8 and 9のHidocchiです。



 愚生の投稿方法にミスがあったようで、同じ文章を投稿してしまいました。

 まことに申し訳ございません。深くお詫び申し上げます。
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この回答へのお礼

承知しました。

お礼日時:2010/03/21 12:12

> 私は責任とはなんとかする事だと認識しているので、辞めてしまうのは寧ろ責任を取っていない取ることが出来なかったと感じるのですが。



 仰られますように、特に為政者等、事態(事後)の収拾にも注意を払わねばならない人達には、当てはまると考えています。

> 死刑についても被害者の意識や制度としてはともかく、加害者に償いはさせていない気がします。

 例えば、”自分の子供を殺害をした親が、死刑判決を受けた”とします。
 その場合、「誰に対して責任をとる」のかは不明瞭になろうかと考えられます。刑法学的には、法益のため、ということになろうかと思われますが(ありきたりの理論で申し訳ございません)、愚生もこれを支持致します。つまり、被害者なき犯罪にあたっては(共に利益を得られるであろう”売春”とかもこの一例かと考えられます)、かようなルールが存在するから でいいと考えております。
 さらに、もしこの親が自殺したとします。かような状況下では、もう誰も責任はとれないと思うからでもございます。

 ご参考になれば、幸いでございます。
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> 私は責任とはなんとかする事だと認識しているので、辞めてしまうのは寧ろ責任を取っていない取ることが出来なかったと感じるのですが。



 仰られますように、特に為政者等、事態(事後)の収拾にも注意を払わねばならない人には、当てはまると考えております。

> 死刑についても被害者の意識や制度としてはともかく、加害者に償いはさせていない気がします。

 例えば、”自分の子供を殺害をした親が、死刑判決を受けた”とします。

 その場合、「誰に対して責任をとる」のかは不明瞭になろうかと考えられます。刑法学的には、法益のため、ということになろうかと思われますが(ありきたりの理論で申し訳ございません)、愚生もこれを支持致します。つまり、被害者なき犯罪にあたっては(共に利益を得られるであろう”売春”とかもこの一例かと考えられます)、かようなルールが存在するから でいいと考えております。
 さらに、もしこの親が自殺したとします。かような状況下では、もう誰もが責任はとれないと思われます。
 以上から、ありきたりではございますが、死刑しかないと考えております(公僕に尽くす人は例外です)。

 ご参考になれば、幸いでございます。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

お礼日時:2010/03/21 12:12

そのポストに就きたい者がいる。

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この回答へのお礼

ありがとうございます。

お礼日時:2010/03/21 12:10

日本には穢れと清めという概念があります。



何か悪いことをしたら、自分は穢れたことになります。
自らの穢れを滅するには、昔は切腹をした。
穢れているのにのうのうと生き続けるのは見苦しいと考え、切腹することで穢れを断ち切るのが潔いとなるわけです。

償いはまた別にやる。
自らの穢れを断ち切るというのが、辞任なんです。


死刑はまた違うと思います。
存在する価値が無いとされるので、死刑に処せられるんだと思います。
ですが、日本は死刑判決が出ても死刑になる人はそんなにいません。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

お礼日時:2010/03/21 12:11

>辞任や切腹は責任をとったという事なのでしょうか?



理想的に言えば確かにその通りです。本来なら、失敗した者も、その失敗を活かして正常化させた後、去るべきです。

しかし、現実問題、自らの無策で会社を破綻させた社長が、一身して生まれ変わり、業績を改善させる事が出来るでしょうか。

それが出来るなら、すでに破綻する前に改善できているでしょう。
「後始末」をしてから去るのが理想的な責任の取り方ですが、それは極めて困難。そうなれば残る責任の取り方は辞任しかありません。

辞任とは責任を十分に取っているとは言えませんが、それしかないからそうなるのです。



死刑に関しては、共感しかねます。
そもそも償いって、どういう事を言っているのですか?

解釈によっては「償い」とは具体的な行動を指します。

業績不振にいたった会社を正常化させる。それも償いの一つとも解釈できます。しかし殺人犯に、何が出来るでしょうか?被害者を生き返らせる事(被害者の正常化)は不可能。多額の賠償金を支払う事も出来ないでしょう。「償い」って何が出来るのか疑問です。

「贖罪の念」を持ち続けることが、「償い」になるのでしょうか。
もしそれで責任を取ったことになるなら、業績不振に追い込んだ社長が「私はなんて事をしてしまったんだ。私の無能をお許しください」と償いの念を抱けば、責任を取った事になる。と言っているようなものです。

「贖罪の念」を持っていると言いつつ、社長の席に居座る。
もしあなたが、そんな社長の会社員だったら、「さっさと辞任しろ」と思うでしょう。


あなたが、正常化させることが責任のとり方だという倫理をお持ちならば、死刑に関しては考えを改めるべきと思います。

この回答への補足

>そもそも償いって、どういう事を言っているのですか?
確かに命を奪ってしまったら、元に戻すことはできませんね。
これについては、可能な範囲での別の形としての賠償を想定しました。
元に戻らないのなら、他の形になりますね。
他者責任なら他人に、自己責任なら自分にそれが向けられるものだと思いました。
しかし、死刑になるほどの事をする人間が償いをするわけが無いと言う意見も挙がっていますね。

補足日時:2010/03/21 12:30
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

お礼日時:2010/03/21 12:10

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