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もしこの世に神仏がいるならば、自分を信仰してただ祈っている
だけの人間より、清く生き人助けをしている人間にこそ
祝福を与えるのではと思うのですが、キリスト教、仏教など
ではその点をどう説明しているのでしょうか?

親鸞の「悪人正機説」は存じておりますのそれ以外の
教義をご教授ください。お願いいたします

A 回答 (7件)

ANo2です。



今度は、地上に降りた人間のなすべき事を、簡潔にお話します。
宗教ではなく、万民が知らなければいけない真理についてです。

(1)神の本質は愛であり、私たち人間が神の子であることは、全ての人間の心の中に、愛があることで証明される。
(2)愛の具体的な方法は、まず主なる神を愛し、神の分身である隣人を愛し、最後に、神の下僕である自分を愛するということである。
(3)一日に一回は、ひとりで静かに祈り、自分の守護・指導霊と話しなさい。
(4)人間のえらさは、その人がほどこした愛の量ではなく、愛の質ではかられる。汝の愛の質を高めよ。
以上の4点である。

人間は、心です。魂です。
ですから、死んであの世にもって還れるものは、あなた自身の心以外はないのです。
「心が全てなのです。」
死んであの世にもって還れるものは「心」しかないのだと気がついてはじめて、
人間はひらきなおることができるのです。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。h1r0s13さんが言われているは
一般的な宗教観ですよね。

ただ、宗教の教義は違うようです。
それが何故なのか?それが私の今回の質問の真意であり
疑問です

お礼日時:2008/07/20 11:28

祝福の定義ですが現世利益として経済的繁栄、健康、円満な家庭等が与えられるという捕らえ方でしょうか?



キリスト教の場合、神を信じる信仰のみによって救われる、行いは一切関係ないのです。
救いとは死後、生前に犯した罪の裁きから免れ霊的命が与えられるという事です。(これは抽象概念で論理的に説明できません。)
逆に言うと地獄行きから免れるという事です。(霊的滅び)
この救いを祝福と捕らえる事ができます。
よく恵み、とも表現されます。
アメイジング、グレイスという賛美歌がありますが、驚くばかりの恵み、と訳されています。

聖書には、あなた方(クリスチャン)は世にあっては艱難がある、との言葉があります。
現世利益を保証してはいないのです。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。
現世利益ではなく死後救済のために信仰をしていると
いうことでしょうか?

現世的には大いなる存在に身を任せる事、虚無の心を
持つことにより信仰により心を安らかにできるという
事が宗教が人をひきつける要因なのでしょうか?

お礼日時:2008/07/23 09:43

#2です。


>人間の行い基準と隔離された存在ならよくお参りで病気平癒などの現世利益を祈願しますが、それは意味のない行為なのでしょうか?
例えば真宗では絶対に現世利益を謳いませんから、病気平癒などを期待してお参りするのはお門違いです。お参りしたから治った、治らなかったのはお参りしなかったからだというのは間違いです。ある意味現世利益の象徴ともいえる「医者」にかかったって、治るかどうかは当たるも八卦、の世界ですから。でも、病気平癒に限らず、心身の平穏を求めて=自分の努力、日頃の行いによらず、仏の働きにそれを任せるためにお参りするのは正解です。そして、心身の平穏とは死後の救済を示します。
しかし、果たして死後の世界=浄土など本当にあるのか、自分はちゃんと救われるのか、という類の問いに対して、釈迦は「無記」と答えています。答えがない、答えられない、答える必要がないということです。死後の世界のことなど誰にもわからない。誰にもわからないことを思い悩んで人生を費やすより、目の前の時間を真剣に生きなさいという教えです。
一方で、現世利益をこそ謳う宗教、宗派もあります。そちらにもそれなりの道理があり、信者をひきつける教義があります。

>また神仏を人間が人為的に作ったと仮定するならば何故そのような神仏を設定したのかなとも思います。
その宗教の発祥、布教の経緯の中で、その場その場で万人に受け入れられやすい形態をとらざるを得なかったからでしょう。完全なる現世利益を謳っては、それが実現不可能なだけに、必ずボロが出ますから。
「ダ・ヴィンチ・コード」で日本でも有名になったダン・ブラウンが、「天使と悪魔」の中でこう書いていました。「宗教は人間の作ったものだから間違うこともあるが、神は間違わない(手元に本がないので、正確な記述ではありません)」。まさにそのとおりだと思います。
間違う、という少々言葉が強いですね。どの宗教にもそれぞれの教えがあり、道理があります。でもそれは、所詮道理に過ぎず、真理ではありません。真理というのは、「全ての命に寿命がある」のように自然の摂理に他ならず、それ以外のことは、どれだけ心血を注いで守ろうとしたところで、やはり道理でしかないのです。宗教の中での神仏も例外ではありません。
ただし、日本のようなアニミズムの根深い地域での神仏(特に神)については、宗教における神仏のように人格化されていなので、この限りではありません。例えば「八百万の神々」という考えでは石ころも神でありえますが、石ころは間違ったりしませんよね。その存在そのものが、人知を超えているわけです。が、宗教での神仏は、宗教自体が人造物であるために、間違いを犯さない保障はありません。
そして、その間違いは、時代や地域など、環境によって間違いだったりありがたいことだったりと変化します。なので、宗教は多彩になるのです。

>救いはどこにあるのでしょうか
何をもって「救い」であるのかわかりませんが、結局は自分の心次第なのではないでしょうか。五万とある宗教の中で、自分が何と出会い、どのように信仰にいたるのかはそれこそ「ご縁」によるもので、信仰は個人の自由です。しかし、自分がこれこそよるべきものだと仰いだ宗教さえ、ただひたすらに信じることができなければ、それは不運です。
どのような人生、どのような死後が救いなのでしょうか。特定の状態を「救い」と期待すれば、期待はずれになることもあるでしょう。救いとは、神仏などの他者によって施されるものではなく、神仏など(宗教の教義の上で)人知を超えた存在に頼り、それを信じる心を持てることなのだと思います。まさに、「信じる者は救われる」ですね。

自分が、人が、神様がという概念から離れ、全てを超越した力に身をゆだねることは、どんな状況をも受け入れる強さ=柔軟さをもたらします。それこそが、自らを救うのではないでしょうか。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。穴だらけの質問に完璧なお答えで感謝しております。神仏とは人知を越えた存在で人間が推し量るものではないという事ですね。すべてを超越したものに身をゆだねる=困難に柔軟になる。いままでなかった発想ですべての理解には今は至りませんが一つの心理を教授していただいたように思います。この言葉だけでも今回質問をさせていただいた価値がありました。

お礼日時:2008/07/21 19:48

ごめんなさいね。

割り込んでしまって、これで最後にしますから。
「宗教」というのは、教祖がおられます。「真理」というものは普遍的なものです。
たとえば、親鸞と言うお方は、菩薩界上段階の人です。一方キリストは九次元の方です。同じく、お釈迦様も九次元の方です。
しかし、真理というのは、創造主から来ています。その意識は、30次元をも超えています。
本当はこんなことは言いたく無かったのですが、(頭がおかしいんじゃないかと思われますから)実は幽体離脱をして、数々の霊界を見てまいりまして、天の童子、天女、そしてとうとう、お釈迦様にまでお会い出来ました。
これは、私の守護霊が連れて行って下さったのですが、それはそれはお美しい方でしたよ。
それから、ベートーヴェンが霊界で創った、第十交響曲も聴かして下さいました。これまたオクターブが高くて、気が狂うと思いました。
ある時、神社本庁の神主のお宅にお払いに行った時、高天原で紫色の雲に乗った自分が映って来ました。
そこで神主のお爺さんが、是非、自分が持っている術を私に授け、「免許皆伝」してやろう、いや、する。と言われましたが断りました。
この場合は「神道」主宰神は天御中主神。先の場合は「仏教」教祖は釈迦。またその前は「キリスト教」教祖はキリスト。
くどいようですが、阿弥陀如来はイエス・キリストのことです。このように、人霊が教祖の場合が「宗教」。普遍の法則が真理です。よって、教祖が凡人の場合、「宗教」と言う名の下に、邪教がはびこみやすいのです。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。いえいえあなたの回答も面白いですよ。私もスピリチュアルな事が好きなので。ただ、伝統宗教は自分の宗教を信仰する事に重きをおきます。イスラム教など他宗派は埋葬すらしてもらえません。高次で一つの存在、秩序としてありながら何故そんな教義になるんでしょうね。それと何故あなただけが高次世界を垣間見れる切符が手にはいるんでしょうね。可能なら私も見てみたいのですが(笑)

お礼日時:2008/07/21 09:41

真宗の信徒なので(たぶん、なんとなく)親鸞の教えから遠ざかれないのですが・・・。



神仏がいるならば、という設定自体が無意味なのだと思います。神仏がいるから信じる、救ってくれるから信じるという、根拠のある信心が正しいのではなく、神仏の存在、救済の有無如何にかかわらず、「ただ信じて」生きる姿勢がのみが、宗教の中で求められているのではないでしょうか。
自分は善い行いをしたから救われるはず、自分はこれだけ努力をしたから報われるはずという、自己・自我から離れ、全てをいわゆる神仏の働きに任せることのできる強い心を説いているのだと思います。
清く生き人助けをするのは確かにこの社会において有意義なことですが、それによって神仏の祝福、救済を期待するのは、#1の方のおっしゃるとおり、的外れです。
何の根拠もなく、報酬もなく、ただひたすらに信じることが信心であるというのが教えです。

って、やっぱり親鸞に戻ってしまいますねぇ。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。参考になります。ただただ信じるなんですね。人間の行い基準と隔離された存在ならよくお参りで病気平癒などの現世利益を祈願しますが、それは意味のない行為なのでしょうか?また神仏を人間が人為的に作ったと仮定するならば何故そのような神仏を設定したのかなとも思います。救いはどこにあるのでしょうか

お礼日時:2008/07/21 09:34

分かりました。



この地球系霊団の総霊人口は、440億人の人達がいます。そして、それぞれ自分と同じ波動、考え方を持った人達と暮らしています。
だから「たましい」の成長が非常に遅くなります。それで皆さまは、三次元に降りたがっているのです。

この三次元に降りるには、普通の人で、3、400年位かかります。では何故、この三次元に降りたいのでしょうか。それは多次元世界から、おのおの意識レベルの異なる人達が一同に会するのは、唯一この次元だけだからです。

人霊の次元構造は、四次元から九次元宇宙界まであります。四次元でも、地獄界から、人間に生まれることは、禁止されています。故に、四次元精霊界より、高次な次元から人間に生まれ変わってきます。

この九次元意識の上に、地球系霊団として最高段階になる十次元世界があります。この十次元世界には、もはや地上に肉体をもった人霊はおりません。そこにあるのは、三体の意識だけです。すなわち「大日意識」「月意識」「地球意識」です。

九次元宇宙界には10名、八次元如来界には500名の如来がおられます。八次元如来界最上段階には、20名位の大如来人がおられ、九次元と、八次元の中間で、太陽界と呼ばれています。

この太陽界の大如来の中に、日本神道系では、天御中主神、天常立神、神産巣日神の三神がおられます。回教のマホメットは、太陽界の一つ下の光神霊界におられるようです。

西洋ではイエス・キリストと言われた方が、東洋では、阿弥陀如来と称されています。この事実から、「宗教」と言う枠を放れて「真理」として考えなくてはなりません。

では、九次元宇宙界の悟りとは、何でしょう。
1)どのような人にも対機説法が出来る、縦横無尽な法を悟っていること。
2)創世記についての悟り、すなわち、宇宙の成り立ち、地球の歴史についても悟っていること。
3)四次元以降の、多次元世界の法則について悟っていること。
です。

また、私たちは、マゼラン、オリオン、ペガサスという星座から、地球に移住して、輪廻転生を繰り返し、現在の地球型生物に成長して来ました。また太陽が終焉を迎える時、新たな惑星に旅立つのです。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。この地上界にいる我々はいかにいきるべきでしょうか?ご回答からは人の法、モラルにそって生きることが大切にも思いますがどうでしょうか?

お礼日時:2008/07/19 21:47

・キリスト教の場合


「清く生き人助けをしている人間」といっても、それは人間の尺度であって、本当に何が正しいのかは「神のみぞ知る」ことです。なので、みんながみんな「いいこと」だと思っていることであっても、神の尺度からすれば全然間違っていることかもしれません。

「道徳はあくまで人間の基準で作り出された善悪ですから、それに沿っていれば神の意志を実行していることになる、というものではありません。しかもその論理だと、自分にとっての善悪が神の意志とイコールだということになってしまい、これはたいへん危険な考え方です」
(イエスはなぜわがままなのか 岡野昌雄著 P96)

そもそもキリスト教において罪というのは「正しく神のほうを向いていない状態」であり、ある人が篤志家でどんなに「いい人」であっても、神の目から隠ようとしたアダムとイヴのように「正しく神のほうを向いていない=的外れな状態」は罪深い人、となります。例えば、イスカリオテのユダといえばイエスを裏切った罪深い人という印象がありますが、単なる裏切り者ではなく、「他人のことを考えられる人であり、人の役に立たないイエスではなく、たとえ少量でも人の役に立つ銀貨を選んだのだ(だからこそ罪深い)」、という話もあるほどです(確か、遠藤周作氏の「イエスの生涯」という本にあったような…)。

「キリスト教でいう罪とは、犯罪を犯すことでも、悪行を重ねることでもありません。罪とは「的はずれ」な状態、つまり本来は向いているべき神のほうを向いていないこと」
(イエスはなぜわがままなのか 岡野昌雄著P91)

「祝福」という言葉についても、「神に属するもの」と宣言すること(神による存在の承認)であって、宝くじが当たる!とか海難事故で一人だけ助かる!といったなにやらラッキーなことが起こる、ということではありません。

祝福とは…
「あるものの上に手を置いて「神に属するもの」と宣言すること!」
「人間の場合は、神が人間を全的、根本的に受容し、承認すること。」
「「あなたには生きる意味があるのだ」といった実感を祝祷によって与えられます。」
(おもしろキリスト教Q&A77 山北宣久著 P134-135)

仏教についても同じくらい書きたいのですが、長文になりすぎるのでここまでにさせていただきます。ぜひ「ひろさちや」氏の著作を中心に読んでみてください。
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この回答へのお礼

とても勉強になりました。端的に耳にするキリスト教の教義は愛を語る物が多いですがキリスト教の罪とは人間から離れた場所にあるものなのですね。そうなると神の存在とは?また哲学として宗教を作ったと仮定すると何故そのような神の姿にしたのか。疑問もまた深まりました。お時間があれば仏教についてもご教授いただけたら幸いです

お礼日時:2008/07/19 21:42

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