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勝海舟は、なぜ 戊辰戦争を 戦わなかったのか?
教えてください。よろしくお願いします。

A 回答 (5件)

 勝海舟は比較的早い段階で、徳川幕府体制では日本が持たないことに気付いていたと思われます。

だから徳川幕府側でありながら、薩長側の肩を持つ方に動いたのでしょう。結果的にはそれが大成功だったのはその後の経緯がこれを証明していますよね。争いが長引けば確実に列強のマキャベリズムの餌食になっていた筈で、それは中国、朝鮮を見れば分かります。
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戦争で国内が混沌となって破壊される前に幕府の力を橋渡しする役目を選んだのでは。


実際、幕府の財産の大半は明治に引き継がれ混沌が抑えられました。
多くの明治の人間が幕府の遺産に感嘆して謝意を残しています。
多くの幕臣が新政府で働いています。

幕府の王道を作法も知らぬ明治の卑しい成り上がりどもに身を持って示したのではないでしょうかね。
戦争をして閉店は王の格が崩れるのもあります。
品格を持って幕を閉じたんじゃないでしょうかね。
閉店作業は開店以上にエネルギーを使います。
しかも余力を残しての閉店ですから大変だったでしょう。
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>勝海舟は、なぜ 戊辰戦争を 戦わなかったのか?


教えてください。よろしくお願いします。

(1)幕府は持たないと思っていたのではないでしょうか。今で言う制度疲労の限界を超えていたことを、分かっていたのではないでしょうか。勝の曽祖父は越後から出てきた成功した検校で、子息のために御家人株を買った人物です。当時は御家人、旗本株の売買が横行し、中には幕府への忠誠心などはかけらもない人物もいたようです。この事情は三河以来と家柄を誇っていた幕臣層も変わらない状況でした。平和が長く続き、将軍の直臣として優越的な地位にあり、貨幣経済・消費都市の江戸に住み、経済的困難も進み、尚武の気風も薄れてきています。政治上の三大改革も結局失敗し、改革に成功した雄藩と呼ばれた諸藩と戦っても、最終的な勝利が望めないと思っていただろうと思います。特に第二次長州征伐の失敗は、和平交渉にあたった当事者ですから、幕府の力の限界をわきまえていたと思います。

(2)咸臨丸の船長ですし、蘭学を学び、海軍伝習所にもいましたから、世界情勢も考えたでしょう。幕府と討幕派が国内を二分して争えば、欧米列強が介入し(国内勢力が己の優位のために、欧米勢力を引きずり込むでしょうし)、植民地化されることを恐れていたと思います。

(3)家茂については、後年まで同情と尊敬の念を持っていたようですが、慶喜とは相性が悪かったようです。祖父の代からの幕臣とはいえ、幕府・徳川家には愛着を持っていたでしょうが、人間関係からも、慶喜の人物像からも戦うことの困難さを感じていたのではないでしょうか。
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勝海舟は軍事関係を総括する役目でしたから、幕府の軍事力を熟知していました。


したがって官軍主力の薩長に対抗できないことを誰よりもよく知っていました。
かって旗本八万旗と呼ばれた兵力も後の彰義隊戦争の兵力はせいぜい数千人しか集まらず、しかも旧式装備がほとんどでした。

従って彼の選択肢は戦いになれば江戸市民に耐えがたい損害を生じることを避ける為、無血開城しかなかったのです。
このことを西郷に納得させるため、海軍による官軍の退路を断つ工作、英国などの外国の干渉の可能性などとともにフランスの援助の存在をちらつかせ無血開城に成功したのです。

戦えば必ず負ける戦闘とわかっていて戦うのは無知といえましょう。
彼としては余力を残して徳川幕府を新政府に引き渡したかったのだと思います。
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簡単です。



勝は古い中央政府の最高責任者として、あっさりと江戸城を新政府代表たる西郷に明け渡して無血革命を成功させた本人です。
それに不満で暴発した幕臣たちが上野の森に立てこもり、これ幸いと討幕軍は追撃を始めて戊辰戦争に発展したのです。
規模は大きいものの、あくまで場外乱闘、番外編、地方戦です。そこに勝が加わるはずないじゃないですか!
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