福島正則と家康について2つ質問があります。
(1)
福島正則は熱心な豊臣方の武将として知られていますが
彼は何故、大阪夏の陣以降も徳川家康に従おうとしたのでしょうか??
元々、関ヶ原の戦いでは「豊臣の為に」という理由で家康側に
ついた事を考えると大阪の陣では豊臣方に着くのが筋だと思うのですが
彼は何故、両付かずの姿勢をとったのでしょうか??
やはり家康の恩義に心を奪われたのでしょうか??
(2)
家康の謀略といえば例えば
関ヶ原の裏工作や政略結婚、「豊臣の為」と銘打ち福島正則、
加藤清正などを味方につけた謀略などが挙げられますが、これらの
謀略は家康が発案したものなのでしょうか??
あるいは天海などの参謀が発案したものもあるのでしょうか??
色々質問してしまいましたが宜しくお願い致します。
No.4ベストアンサー
- 回答日時:
最近の学説では、関ヶ原のあと、あるいは1603年の家康の将軍任官によって直ちに豊臣家が65万石の地方大名に転落したのではなく、それなりの西日本政権としての地位を保っていたというものがあります。
伊勢など、豊臣直轄領ではないところへの給付状などが発見されています。
素人の単純な割り切りで言えば
承久の変の前に置ける、鎌倉と京都の関係に近いのかも知れません。
熱心な豊臣シンパ
青年期に、主君である秀吉がどのようにして織田家の力を削いでいったかをみているのですから、豊臣家がそれなりの力を持っているを持ってヨシとしたのではないでしょうか。
織田秀信は岐阜13万石ですので。
家康やその側近のみが主体であったかというと、そうでもない。みなさん生き残りに必死なわけで、黒田長政や藤堂高虎などけっこう 動いていますね。
ありがとうございます。
勉強になりました。
でも、そう考えると家康の心境が分からなくなりますね。
元々、天下統一が目的ではなかったんですかね・・・??
でも国づくりの力の入れ方や5大老時代の政略結婚などを
見ていると野心に燃えていたように思うのですが・・・
No.5
- 回答日時:
福島正則は元々秀吉一家にそれこそ子供の頃から出入りして可愛がられてきた叩き上げの武将です。
文字が読めなかった、あるいは苦手だったという話もあります。現代ならさしずめ暴走族の不良少年から会社社長に登りつめたようなものです。それだけに、いわゆる政治的な駆け引きは苦手だったようです。関ヶ原では三成憎しのあまり老獪な政治家であった家康にまんまと利用されてしまいました。関ヶ原で家康側についた理由も「家康にこれだけ大恩を売っておけば秀頼に手を出そうとは思わなくなるだろう」と語ったとのことで、ま、純粋というか甘いというか。
関ヶ原が終わってしばらくたって、実は自分たちが家康の天下取りにまんまと利用されたことに気づいたと思います。しかしそういったときにはもう自分ひとりがじたばたしてもどうにもならないことにも気づいていたと思います。残念ながら、彼は裏で謀略をめぐらすことは全く不可能だったと思います。根っからの武将だったんですね。
ではなぜ大阪の陣で秀頼を「捨てた」のかですが、正則は非常に部下思いだったというエピソードがたくさん残っています。学も家柄もないなか苦労して叩き上げてきたので思いやりのある人だったようです。大阪の陣ともなると、勝敗の帰趨は明らかです。彼は、今まで苦楽を共にしてきた部下たちとその家族一族をほぼ戦さがなくなってきた世の中で今さら無駄に失うつもりはさらさらなかったのだと思います。秀吉に対する恩義はあくまで正則個人のもの。自分ひとりの感情で部下たち全員を殺すには忍びなかったのでしょう。
また、
>家康は(中略)国作り以外の事は目立った活躍ぶりはしてないようですね。
とありますが、家康は「野戦の鬼」です。小牧・長久手合戦ではロンメル将軍ばりの神出鬼没の機動戦を展開し数に勝る秀吉軍を翻弄しましたし、敗戦として名高い三方ヶ原合戦でも、「あの」信玄に散々に打ち破られていながら主だった武将を全く失っていません。
関ヶ原では、岐阜近辺で東軍と西軍はにらみ合いの状況になりました。西軍は名将立花宗茂が関ヶ原に向かっていましたし、毛利軍主力も大阪城にありました。お互いが城に籠もってのにらみ合いは家康の望むところではなかったのですが、三成本城を狙うと見せかけて西軍主力を誘き出すことに成功し、結局たった一日で西軍を打ち破っています。
No.3
- 回答日時:
(1) 質問者さんの疑問を解いてくれる本として
福島正則―最後の戦国武将 (中公新書)
http://www.amazon.co.jp/%E7%A6%8F%E5%B3%B6%E6%AD …
を推薦します。絶版ですが、アマゾンマーケットプレイスで安価に買えます。数少ない、歴史家が確実な史料に基づいて書いた「福島正則の伝記」です。現在入手できる福島正則に関する本は、いずれも「小説」です。
正則は、大坂方から「太閤殿下の恩義を受けた貴殿に大坂に参じて頂きたい」という使者を迎えた時にその依頼に応えておりません。ただし、大坂の蔵屋敷に貯蔵されていた自藩の年貢米(数万石)を大坂方が接収する際は「抵抗せずに引き渡せ」と指図したと伝えられています。
なお、正則は江戸に留め置かれましたが、嗣子である忠勝は大坂の陣に従軍しております。ですので「両つかず」の立場を取ったのではなく、他の大名と同様に「徳川将軍家に従う」立場を取ったと言えます。この点を質問者さんは誤解しておられるのではないでしょうか。
「家康の恩義に心を奪われた」と言うより「安芸・備後の50万石の領地と家臣団をなげうち、大坂城に馳せ参じる覚悟はなかった」ということでしょう。これは多数の家臣を持つ大名として当然のことで、私が正則の立場でもそうするでしょう。
(2) 謀略を家康が自ら発案したのか、家康の参謀(井伊直政、本多正信など)が発案したのかは知りようがありません。なお、関ヶ原の段階では、家康の参謀の筆頭は井伊直政であり、次いで外様大名ながら黒田長政が家康の意を受けて諸大名の調略に動いていたようです。
天海や金地院崇伝のような僧侶が「家康の参謀」と言うような地位を占めるようになったのは、江戸幕府が成立した後と思われます。なお、家康の信頼を一身に集め、譜代大名としては新参にも係わらず「譜代筆頭」の地位を江戸時代を通じて確立した井伊直政が1602年に没していることも、天海や崇伝が家康の参謀の地位を高めたことと影響しているでしょう。
関ヶ原の合戦の前の井伊直政の調略活動は実に目覚しいものがあり、「家康の分身」として活動していたことが分かります。この分野の研究の第一人者である笠谷和比古氏の
関ケ原合戦と大坂の陣
http://www.7andy.jp/books/detail/-/accd/31967389
を読んでください。
ありがとうございます。
井伊直正の本など読んでみたいと思います。
参考になりました。
それにしても家康は謀略が優れてるイメージがあったのですが
国作り以外の事は目立った活躍ぶりはしてないようですね。
少し残念です
No.2
- 回答日時:
福島正則も世相を見る目があった、ということです。
関が原で、既に次代の権力者が誰であるかは確定しました。
その権力者にたてつくことは自滅することです。
正則は自滅の道を選ばなかった、ということです。
秀頼は、大阪城を退去(大和へ)するよう求められますが、拒否して自滅の道を進みました。
大和に行くことが豊臣の生きる道だと分からなかったのです。
自身はわかっていたのかもしれませんが、取り巻き連中には分からなかった。
夏・冬の陣でも家康には疑いを持たれていたようで、正則は参加させてもらえませんでした。反乱を起こそうとしても、周囲には見張りが沢山いて立ち上がれませんでした。
家康の謀略とは何のことか分かりませんが、要は当時No.1の実力、しかも他とはかけ離れた実力を持っており謀略など使う必要はありませんし、使っているとも思えません。そんなものを使わなくても勝ち残れる力がありました。
関が原の裏工作(?)・・関が原は西軍の自滅です。
あなたは何か勘違いをしているようですが、関が原では、家康は自分の軍隊を使わず、豊臣尾恩顧の大名を中心にして戦いに臨み、勝利したのです。秀忠は戦いに遅れましたし、家康の寝首を掻こうと思えばいつでも殺害できた・・でも殺害されなかった。
関が原の時点では、家康には豊臣氏滅亡までの思惑はなかったと思われます。池田、清正、正則のように家康配下の一大名として動かす積りだったようです。
いずれにせよ、No1はNo2を叩きつぶすのが世のならいですから、秀頼自身が自らの地位をよく理解していれば、残るだけは残れたですね。
毛利、島津は関が原西軍で負け、領地が激減しましたが、300年後明治天皇を担いで復讐に成功しました。
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