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江戸時代は物を大切にしたと聞きますがこれは江戸時代、貧乏な人が多かったから物を大切にしたのか裕福度とは関係なく生活に余裕があったとしても物を大切にする習慣が人々にあったのかどっちですか?

A 回答 (5件)

こんにちは。


私は、自称「歴史作家」です。

え~、バカバカしいお笑いを一席。

熊さん「大家さん、今日は、皆を集めて何の話があるんですかい」
大家「まあ、日ごろうるさく言って、皆の厄介者扱いされているが、どうだい、ここは景気づけに花見にでも行って一騒ぎしようじゃないかい」
熊さん「でも、お花見と言やあ、酒や弁当を用意しなくちゃあならねえんだが、あっしら店賃(たなちん)さえ払えねえ身でどうやって行くんでいかい」
大家「まあ、全部、俺が用意してやるから、心配しないで付いて来な」
熊さん「へえぇっ、ドケチな大家さんも、たまにゃあいいこともしてくれるもんだ。皆、ありがたくゴチになろうじゃあねえか」
・・・と、言うわけで、いざ大川端の花見に・・・
大家「花(桜)も、実にいい見ごろだ。まあ、それじゃあ、熊さんから一杯どうだい」
熊さん「ほおぉ。ありがてえありがてえ。昼日中から酒が呑めるなんざあ、今までに滅多にねえことだ。へえ、それじゃあ」
・・・と、杯を出すと、大家がさけを注いでくれた・・・
熊さん「大家さん、この酒、やけに薄い緑色をしていやすが、どうかしたんですかい」
大家「まあ、いいから呑んでみな」
熊さん「大家さん、この酒、いやに渋い酒ですねえ。いたんでいるんじゃあありませんか」
大家「いたんでいるわけじゃあねえ。元々、そういう味のするやつだ」
熊さん「でも、これって、もしかしたらお茶じゃあありやっせんか」
大家「バレちゃあ、しょうがねえ。まあ、はっきり言やあ、番茶の出がらしを一晩水に入れて漉したものだ」
熊さん「じゃあ、お酒でもなんでもねえじゃあねえですかい」
大家「ありがたい酒だと思やあ、陽気にもなれる。周りを見てみねえ、皆、陽気に騒いでいるじゃあねえか。酒だと思やあいいんだ。ささ、皆も呑んで景気良くいこうじゃねえか」
熊さん「ところで、大家さん弁当の方は」
大家「しんぺえしねえでいい、ほら、ここに重箱を用意してきた、ささ、皆も食べておくれ」
・・・いざ、弁当を開いて・・・
熊さん「へえぇ、卵焼きにかまぼこにと実に豪勢じゃあねえですかい」
大家「さ、遠慮なく食べとくれ」
・・・熊さん、卵焼きを口に入れて・・・
熊さん「大家さん、この卵焼き、やけにシャリシャリ歯切れがいいですねえ」
大家「バレちゃあしょうがねえ。そりゃあ沢庵だ。だがなあ、沢庵も人から見りゃあ、立派な卵焼きに見えるじゃあねえか」
・・・熊さん、今度は「かまぼこ」に手を伸ばし・・・
熊さん「大家さん、このかまぼこですが割合小ぶりで、それでもって、やけにシャリシャリしますねえ」
大家「なあに、それも大根を縦に半分に切ったものだ、よそから見りゃあ立派なかまぼこに見える。皆、黙って食え」

落語の「長屋の花見」と言うお笑いからです。
「ふざけて」いるのではありませんのでご容赦を・・・。

さて、「本題」・・・。

江戸と呼ばれる範囲内では、農地も多いが、お城の近辺の武家屋敷や町家は「生産」よりも「消費」が専門の都市。衣食住の全てが「銭」での取引であった。そこで、大店(おおだな=大商人)以外の庶民は、色々な「知恵」で「支出」を抑えていた。

(1)長屋には、共同トイレしかなく、排泄物は近在の農家と契約をし、汲み取りをさせました。農家は、江戸の庶民の贅沢な食べ物での排泄物は、上等な下肥であった。そして、農家は、畑で取れた大根や沢庵漬けを年に10樽とかを、大家に納め、大家は長屋の住人にそれを配ったりしました。
(2)子どもでも大人でもそうですが、手習いで練習した半紙は、裏表が全て真っ黒になるまで書いて、その後は、破れた障子紙の替わりに、それを貼って風除けなどにしました。
(3)庶民の子どもの大半は、つぎはぎだらけの着物を着ていました。仕事に出かける父親には、それ相応の着物を着せましたが、子どもたちは、その父親のお古を仕立て直しをしたり、破れた箇所は、当て布をして着ていました。また、「青っパナ(青い鼻水)」で袖は、いつもテカテカとなりゴワゴワに糊付けされたのと同じ状態でした。また、両親でさえ、少々の破れは当て布で縫いつくろっていました。
TVで見るような、何の汚れも無いような着物は、庶民では考えられない「大ウソ」です。
(4)また、庶民は、新しい生地から着物を仕立てることは、全くと言って良いほどありませんでした。その替わりとして「古着屋」が大繁盛しました。
(5)江戸で一旦火事が起きると、粗末な木の家は、たちまち燃えてしまい、大火事になってしまうことから、庶民の家に風呂を造ることは禁止されていました。従って、各町内には「湯屋」があり、そこを利用しました。有名な大店「三井越後屋(現:三越)」の使用人でさえ湯屋に通いました、そして、髪を洗うことは厳禁で、唯一髪?を洗えたのは、坊主頭の「あんま」くらいなものでした。それだけ、水が大切だったからです。
(6)そこで、夏などになると、行水をし、その後、その水で髪を洗い、そして、最後は洗濯に使い回しをしました。
(7)醤油は、(どなたかが言っておられましたが)上方からの「下り物」と言って高価でしたが、後に下総(現:千葉県)で製造が始まると、流通は一気に激しくなりました。そして、一杯飲み屋などでは、空になった醤油樽をひっくり返し板を渡して、飯台の前に並べで座席替わりとしました。
(8)ゴミの処理には、それ程困らなかった。なぜなら、江戸湾が当初はお城の近くまで迫っていましたが、埋め立てをするために、ゴミは一役かいました。現在の「夢の島」だったのです。

結論:
つまり、江戸は、現代よりも、はるかにリサイクルシスタムがうまく循環していたのです。

>>貧乏な人が多かったから物を大切にしたのか裕福度とは関係なく生活に余裕があったとしても物を大切にする習慣が人々にあったのかどっちですか?

これは、儒学の精神の中に「物を大切に扱う」と言う精神があり、江戸時代は、この儒教の教えで裕福であっても貧困層であっても、「物」は大切にされました。

江戸時代以降、日本では「日露戦争」「第二次世界大戦」と大きな戦いがあり、人々は、ここでも「物を大切に」する「知恵」で生き延びてきました。しかし、昭和30年代に入ると「高度成長」と言う名のもとに、人々は「使い捨て」をするのが「当たり前」になりました。
昨今「リサイクル法」なども出来て、物の「再利用」を訴えてはいますが、一度、「楽」に慣れた人々には、正直に言って「ゴミの分別」などは「めんどうくさい」。また、売る方にしても、とにかく「売れれば良い」。ですから、人の「知恵」などは「無用の長物」になってしまったようですね。
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この問題はそう単純に比較できないです。



現代→金持ちも貧乏人も物を大切にしないことに経済的合理性がある。
江戸時代→金持ちも貧乏人も物を大切にすることに経済的合理性がある。

江戸時代は全ての物が手作りでした。

現代は新品は自動機械と低賃金の外国人が作ります。
   一方修理は機械も外国人も使えず日本人の手作業になります。
   また物の進化のスピードが江戸時代の100倍はあります

これにより次の結果になります
・江戸時代は新品の値段が非常に高い(現在の10倍とか)
・江戸時代は修理して使う方が安い
・江戸時代は中古の値段が落ちにくい
・現代は新品の値段が非常に安い
・現代は修理して使うと新品を買うより高くなる
・現代はリサイクルショップに持っていても二束三文

経済性の観点からすれば
・現在は物を大切にすることが贅沢
・江戸時代は物を大切にしないことが贅沢
となります。

よって単純比較はできません。
現代でも新品の値段が非常に高く、修理して使った方が安く、中古でも値がつく
物は大切にされています。車とか住宅とか。

ちなみに江戸時代の人でも金持ちは大変な浪費をしています。
(遊郭で一晩で1000万円を散財するとか)
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 経験です:


 団体の命令で、静岡だったか半僧とかのある、禅宗らしいのですが、方広寺とかいう、古いお寺を訪問して、関係ない人間なのに一晩厄介になってしまいました。
 いやもう、日光であれ、雨一滴、ごみ一片、浴室の水一滴だって、無駄には流さない仕掛けつくりに、感心してしまいました。
 これって日本の国民性かも知れませんね。神道でも同じではないですか?豊かな水の国、作物。米粒一粒も、私たちは怒られましたよ。
 日本の宗教的しつけでしょうか。
 江戸では開府以来、しばらくお醤油は京からの大事なくだりもの(輸入)。そして忙しい職人はうどんの薄味ではなく、多少濃い目のたれに箸て上に上げたしたの方だけ、そばの汁にいれて、すする。魚もさびを利かせて生で。野菜の煮つけという薄い醤油では合わない。
 やがて江戸は江戸の醤油を作り始め、年間何百たるのくだりものから、下らないものがしゅりゅうになった。
 そんな醤油はきちょうですし、なにか血液をれんそうしてのことか、お皿にすこしついている醤油も、流しで洗うことは、怒られました。
 そんな経験を長々。醤油もお米も雨滴も風呂の湯水も豊富なのですが、大事にすることをしつけられてきました。天からの頂き物だということで。おかげさまだから、ということで。
 今もそうしております。形はけちです。でも必要には使います。
 それは身の始末をきちんとすることに繋がっています。
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すでに回答は出ていますが、



物を大切にする習慣は昭和三十年代、東京オリンピックがあった頃くらいまで裕福度に関係なくありました。東京でも環七の外に出れば畑があった時代です。

経済、産業や交通の発達、大量生産、大量消費、情報の発達、グローバル化により、生産者と消費者の距離が遠くなることや商品の価格が抑えられることで、物を大切にする習慣が薄れてきてしまったのだと思います。

豊田佐吉の伝記を読まれると、昔の人は着物一枚作るのにもどんな苦労が要ったのかが分りますよ。
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後者です。

アーネスト・佐藤が書いていることですが、
幕府のかなりの核の家でも、樋の水を幾重にも使い、紙は
大切なので表裏に書き汚した後でさらに水につけて再利用
していたとあります。糞尿もただでは捨てませんでした。
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