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 先ほど哲学の本を読んでいてよく分からない事があったので質問します。
 世界中のいろいろな物って、あるから見えたりさわれたりするのかな?それとも見えたりさわれたりするからあるのかな?という問いです。
 僕はもちろん、あるから見えたりさわれたりするのだと思っていました。でも登場人物はあるから見えたりさわれたりするんだってこと自体は、見えたりさわれたりするからこそ言える事なんじゃないかな?見えもさわれもしなかったらあるなんてわかるわけないからね。と言っています。
 みなさんは、この事についてどう思われますか?

A 回答 (16件中1~10件)

NO3のものです。


ちょっと付け足しです。
木星がある、とします。望遠鏡で見た人でもない限り直接見た人はいません。
天文学者でも、目の前に行ってみたわけでもありませんし。
目の前にあっても、その前のものが本当にあると証明するのは無理です。他の人に、「ほらここにあるでしょ?」と言って同意を求めるのが関の山です。
そんな見方をするなら、すべての存在は疑わしいです。
でも同時に、前に書いたように、ある、と認める契約を交わしたのですから、やはり存在します。

この2つはどうなっているのかというと、それはプラス思考とマイナス思考の関係のようなものです。
プラス思考では、すべてある。夢の中のものも、ドラゴンも天使も、何でもある、となりますし、逆にマイナス思考で疑えば、実際にすべてのものは不確かで本当にあるものなど無いことになります。

この2つは、相補的ーお互いに補い合う性質があります。
2つは足して、現実世界を作っています。(と考えてます)

あるかないか、ではなく、全体の仕組み、認識のメカニズムが存在する、といえるんじゃないでしょうか?
ベタな言い方をすれば、あると言えばある、ないといえばない、というので正解だと思います。

この回答への補足

回答ありがとうございます

sheep67の在る無いは、その人の考え方に影響されるというのは、いいえてみょうだと思いました。僕は唯物論者なので、物の存在は観察者の有無に関わらずあると思っていましたが、観察者の視点があって始めて成立する事なのですね。

補足日時:2008/11/17 05:53
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逆説から考えてみたいと思います。


時間も無い。空間も無い。存在も無い。
その世界がありえるのかどうか。
もしありえるのなら、そこからどうして見えたり触ったりすることができる世界が創られるのか。
これがはっきりすれば、唯識論や唯物論や唯心論が解決したい世界がスッキリするはずです。

http://1.peace-production.jp/
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>見えもさわれもしなかったらあるなんてわかるわけないからね



実は直接の観測では無理でも間接的に存在を示唆する現象から存在を確信する事は非常に多くあります。
例えば電子、これは電子顕微鏡でさえ見えませんが様々な観測データから質量や電荷などが矛盾なく説明できます。

地球の核、これも誰も直接見た人はいませんが地震波の伝播を観測する事で密度や硬さなどがわかります。
つまり理論と観測事実を総合して推測する訳ですがあらゆる観測結果が同じ結論を示しているなら直接見た以上に信憑性が有る訳ですね。
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#13で誤植がありました。



それも質問者さんが私の#12で述べた => 私が#12で述べた

と直して下さい。
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#12です。


>アメリカでは見たり触ったりできるのですか?

#12でも述べましたが、「アメリカではキリスト教の神は、見たり感じたりできる現実的な存在であり」と言うことで、「触る」と言う言葉を慎重に避けました。神とイエスと精霊の三位一体を主張するキリスト教では、神も精霊も同じであると考えております。アメリカで精霊を見たと言う方の数を数え上げたら切りがないほど沢山居ります。また、神そのものの存在を感じていることを断言する方は人口の大多数を占めています。

また、質問者さんは

>私は聖書について勉強していますが神を見たり触ったりできません。

と述べておりますが、それも質問者さんが私の#12で述べた「日本では、アメリカ人の言う神は日本の大多数の人には見ることも感じることも出来ないと考えています。」の具体的な例になっていると言うことですね。

この回答への補足

 そうなんですか、アメリカでは聖霊を見たという方がいるのですか。
わたしは、そのようなものは見たことが無いので、すこし面食らってますがそのような証言があるのですね。
 神の存在は私も感じております。その理由はhttp://oshiete.homes.jp/qa4466430.htmlのNo14に書いてありますのでよかったら見てみてください。

補足日時:2008/11/20 23:49
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この世の中には単純な現象と複雑な現象がありますね。

単純な現象とは、大海のなかに島が存在するとか、太陽の周りを地球が回っているとか、ナノデバイスの中を電子が動いているとか、青色ダイオードやカーボンナノチューブが存在している等のことです。一方複雑な現象とは、我々が夢を見るとか、生物が存在しているとか、社会が存在しているとか、文化が存在しているとか、宗教が存在しているとか等のことです。

今まで単純な物に限って研究してきた自然科学では、上の例での島の存在のごとく、その存在は我々が見たり触ったりできるかどうかに関係なく、我々の認識法とは無関係に、すでにそこに在るもに限って分析して来ました。そして、自然科学の発達が我々の生活を途轍もなく便利にして来たと言う有用性を経験した結果、存在とは客観的な物であり、我々が見たり触ったり出来かどうかに無関係な概念であると言う、とても複雑な考え方が定着して来たようです。

ところが、その同じ自然科学の発達の結果、現在では人類は多様性の役割も認識できるるようになりました。文化が違うと価値観も違って来る。そして、その価値観に依存した認識法は、ある文化には決定的に重要な存在と認めれている物が、他の文化では全く意味をなさない概念であったりすることが、まさに多様性の意味であることが分かるようになりました。例えば、アメリカではキリスト教の神は、見たり感じたりできる現実的な存在であり、ダーウインの進化論は全く意味の成さない妄想であると考えられていますが、日本では、その反対に進化論こそ現実的な存在であり、アメリカ人の言う神は日本の大多数の人には見ることも感じることも出来ないと考えています。この文化の多様性が、人間と言う総体を形作っています。このように、複雑な現象では、見たり触ったり感じたりできるから、存在が認識できると言う立場にっています。

結論:単純な現象では、そこに存在しているから、見たり触ったりできますが、複雑な現象では、見たり触ったり感じたりできるから、そこに存在していると言えるのです。自然科学が発達すればするほど、多様性として認識される複雑系を理解できるようになるのですから、自然科学がどんなに発達しても、文化に根ざした複雑な系についての存在の概念を、文化に無関係に認識できる単純な系についての存在の概念に帰着できることはないでしょう。

この回答への補足

 なるほど、単純な現象については私も分かります。しかし複雑な現象たとえばキリスト教の神の存在についてですが、アメリカでは見たり触ったりできるのですか?私は聖書について勉強していますが神を見たり触ったりできません。しかし文化によって存在の有無がちがうというのはなんとなく分かる気がします。

補足日時:2008/11/19 01:26
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物質としてあることと認識としてあることは別の話です。


うまい例えが思いつかないのですが
例えば10時に食べたご飯。10時に食べたご飯って事は変わらないんだけど認識によって遅めの朝食になったり早めの昼食になったりする。
人の捕らえ方で変るんです。

あるから触れるは物理的な話なんでこっちは皆よく理解できてるんでしょう。触れるからあるってのが認識できるからそれが存在するってことじゃないのかな?

みぞれを知らない子供は雪が降ったって言います。この子供の中ではみぞれは存在しないんです。雪が存在するんです。ってことは認識次第でみぞれは存在しないってなるんです。物質的なところは変ってないのに。

影絵で見方によってグラスに見えるか向かい合う人に見えるかって絵がありますよね。あんなのも絵自体は変ってないのに見る人のの認識だけで片方は存在しないことになるんです。

この回答への補足

 なるほど影絵の例えはよく分かりました。同じものを見ても見方が変われば見えるものも変わってくるのですね。

補足日時:2008/11/19 01:31
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 NO2ですが、追記させて頂きます。


 五感で知覚できなくても「有る」事例を挙げます。

●局所麻酔をかけられ、ガーゼで目を覆われて、メスで身体を切られる場合、視覚も触覚も知覚できませんが、メスは「有り」ます。

●NO2記述済ですが、テレビ電源OFFで画面に映像が映らなくても、電波は存続しています。

●NO2記述済ですが、動物で人間の五感を超えた知覚機能を有してしる者は色々存在しますので、人間が知覚できないものでも「存在」することは「有り」ます。

●聴覚障害者にとって音は知覚できませんが、音自体は存在します。

●霊能力者にとって、魂等は見えるわけで、多数の非能力者は魂等が見えないだけで、魂等は存在します。
 この場合、上例の聴覚障害者と健常者との人数比率の多少割合が逆であるだけです。

●「うれしい」という感情や、「こういう家を建てよう」というイメージ等、心は目では見えませんが、「有り」ます。

●夕陽に向かって車を走らせている時に、光線照射の関係等で歩行者の姿が一時期見えないことがあります。が、その直後には見えるわけで、見えない時であっても歩行者は当然存在していたわけです。

●パソコンは物質として単独で置いてあるだけでは自動的に稼動すらしません。
 電気を通しても一定の所までしか起動しません。
 ワードソフトを起動しても一定の所までしか起動しません。
 そこへ文章を入力する内容は、人間の「思い」の具現化です。
 「思い」は目には見えませんが、「有る」わけです。
 脳もタンパク質等でできた物質でしかないのです。
 パソコン同様、大変優秀な働きはしますが、そもそも物質があるだけでは自動的に動き出すわけではないのです。
 パソコンへ電気を通すことによって稼動するように、脳だって肉体だって、そこへ魂が宿って初めて稼動するわけです。
 魂の存在は霊能力者には知覚でき、その様子は色々と本等で語られています。
 目に見える形では天が動いているというのが常識だった時代でも、事実としては地球の方が動いていたわけで、科学技術の方が遅れているわけです。
 しかし、科学技術での知覚を伴う証明以前でも、地動説を確信していた人はいたわけです。
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全ての目に見えるものは、目に見えないもので構成されている



と思います。
つまり私が考える物の本質は心という目には見えないもので感じるものがそれだと考えます。
あなたという本質が体ではなく心がそれであるように・・・。
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僕なりに思ったことを書きますね。



五感とその対象は共に常に変化していますね。変化しているからその両方の刹那の接触によって知ることが出来ますね。

存在が有るというのは「変わらない何かがある」と言うものも含まれた概念に感じます。

一定でなく変化し一度きりの感覚の連続であるから、「ある」と言った瞬間に他のものとなっていますね。

そんな見解を持ってます。

お役に立てば幸いです。
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