この人頭いいなと思ったエピソード

「正しいことが正しいとされない世の中」といいますが、
されたことって今まで無かったですよね
何千年も変わらないのはなぜですか?

A 回答 (10件)

3番ですけど、あなたの言っていることは当人でもその行為は正しくないという認識があるのに、なぜ人は認識した上で悪意を行うかということですよね。


質問の

>「正しいことが正しいとされない世の中」

ですけど、世間が無知と言うことでは無く、結果的に自分にどう関わるかということであって、要するに正しいことをしても周囲の人間が利益を得なければ周囲の人にとっては正しくないことであり、悪意に満ちたことであっても直接被害がなければどうでも良いことです。
3番で比喩的に歴史を出したのは、将にこの点でイギリスの哲学者ベンサムは「快楽や幸福をもたらす行為が善である」と説いています。
そして良い政策とは個人の快楽の総和、すなわち「最大多数の最大幸福」と言うことになります。
人間が快楽を得ようとする行為、例えば他人を蹴落としてでも出世したい、騙してでも金を得たいなどは、やっている当人は悪の意識はあっても、それを上回る幸福感でやりますから、必ずしも悪ではなく、世間の意識の比率によって善悪が定義されます。
話を戻せば、正しいこととは大多数の人が正しいと認めることですから、自分が正しいと思っても世間が認めなければ正しいとはいえず、悪意でやっていても結果が良く、それを世間が認めてしまえば悪意ではなくなる、相対的なものに絶対的な物差しは無理と言うことと思います。
野放しにすれば「万人による万人に対する闘争」ということになりますから、便宜的にルールはあるものの絶対ではない。
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この回答へのお礼

半分ぐらい来ました
・悪の上につくった幸福で満足(納得)して死んでいけますか?
・心残りの部分を後世に託しませんか?
・託された方はより悪を減らせませんか?
・そのうち悪がなくなりませんか?
・何千年も?
・僕はマイノリティーですか?
ありがとうございました

お礼日時:2008/11/18 22:16

>何千年も変わらないのはなぜですか?



人間は常に必ず自分にとって正しいことをやります。
この正しさはあくまでもその時の自分にとって正しいことであって、
社会的正しさ、正義、道徳、法律等とは直接関係しないからです。

つまり、これらの規範を記憶として保有し、判断材料とはしつつもその時の状況により、どうしても自分にとって正しい行動をとってしまいます。それが犯罪であってもです。
あとは、人間の同じ過ちを繰り返す愚かさを未だに社会のシステムの中に組み込み切れていない結果です。

最近の警視酒酔い運転など良い例でしょうね。もはや、これを前提に再発防止をシステム化しなければ、何千年も変わりませんよね。
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この回答へのお礼

>人間の同じ過ちを繰り返す愚かさを未だに社会のシステムの中に組み込み切れていない結果です。
こんなに時間があったのに、、、
ありがとうございました

お礼日時:2008/11/20 12:28

ふーん・・・何をもって正しいとするのかの是非ではなく


正しくないと分かっていてなぜやるのか・・・って事ですか。

たとえば不倫が悪いことと分かっていてもなぜやるのか・・・とか
そういう類と言うことでいいのでしょうか?

私なら

正しいことは必ずしも欲望を満たすものではないから

って考えます。むしろ欲望とは正反対のことなのかも知れませんね
食欲一つとってもそうでしょう。確かに人間「食べたい」です。
人間じゃなくてもコレは変わらないでしょう。でもいくら食べたいから
って欲望の赴くまま食べていたら、いずれ食いつくし、食べるものが
なくなってしまうのが常です。過去を見ればそんな例は人間のみならず
さまざまな動物でもあったはずです。だからそういうのを防ぐために
「ルール」をつくりそれを「正しい」とするのかも知れません。
でもそれは欲に逆らうと言うことでもありますし、そんなにみんながみんな
欲に逆らえるかと言えばそうではないですから・・・・
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この回答へのお礼

>そんなにみんながみんな欲に逆らえるかと言えばそうではないですから・・・・
そうですね、自制心の強い人もいますが、もう少し自制心の弱い人を導けないものですか?
ありがとうございました。

お礼日時:2008/11/19 14:34

5番ですけど、芝居などの股旅ものを考えてください。


国定忠治とか番場忠太郎とかは、義理人情に厚く強きをくじき弱きを助ける人物として描かれています。
実像はヤクザですから、悪人ですけど、旅役者が地方で公演するときは土地の親分に気に入られないとできませんから、その土地所縁のヤクザを持ち上げることで取り入り、公演をうたせて貰った結果でしょう。
逆に見れば、ヤクザも強請たかりをやる反面、自分の行動に理屈をつけなくてはならず、役人(今の警察)に追われるのは、民百姓の立場に立って年貢を搾り取る悪代官に逆らった結果とか、恩人を裏切ったのは人情より重い渡世の義理を通すためといった具合で、悪逆非道な行いをしていながら、周囲にはよく思われたいという矛盾した考えがあり、それが人間の本音と思います。
清水次郎長のように自分のエゴと時代の流れが合致すれば、周囲によく思われたいという内面が行動になって、結果的に善の行いとなり、盤石の地位を得られず欲望が満たされなければ単なる極悪ヤクザで終わってしまう。
何度も言うように、善悪は相対的なものですし、結果ですから、今は悪く言われるヒトラーやポルポトも、あるいは善の固まりで、ホロコーストを行えば人類は幸せになれると信じていたかも知れない(織田信長は宗教家をなで切りしていますけど、結果的には江戸期以降の日本の宗教は非暴力な精神世界のものになり、イスラム原理主義のようなテロにはなっていないので、信長の大量虐殺は結果論的には善ともいえる)し、かなり迷惑なお隣の国の金さんご一家も、自分がいるからこそ半島が平和なんだと信じているかも知れない。
時代が合っていけば(先ほど言った大衆の支持が得られるかどうか)、彼らの行為は善となるが合わなければ悪となる。
無能な政治家も国民のために働きたいという内心の声はあると思います。
麻生総理のように自分がお金持ちで自腹で高級料亭で飲食できれば賄賂は受け取らないが、どこか庶民離れした発言は庶民の生活の実体験がないためで悪気ではない。
彼が善の政治家かどうかは、将来の日本がどうなるかという結果で出ることで、今は善悪は判りません。
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この回答へのお礼

分かり易いんですけど稀な話ですよね
大多数の普通の人でお願いします
ありがとうございました

お礼日時:2008/11/20 21:46

面白そうなので入ってきました。


あなたにとっての幸せと、他の人にとっての幸せは、同じものですか?
今の幸せと、百年後の幸せは、同じものですか?

あなたの考える正しさが他人にとっての悪となることは?
人は悪意では動きません。人が動くとき、それは何かの尺度でその行為に正当性を持たせて、動くのです。
まるで、悪いことをするのが正しいかのように。
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この回答へのお礼

>あなたにとっての幸せと、他の人にとっての幸せは
この辺はだいたいでお願いします(キリがないので)
ありがとうございました。

お礼日時:2008/11/20 21:43

No,4のお礼まで読みました。


あなたが「正しい」=理想、モラルと考えているとして
「正しい」事は絶対ではなく
「正しい」を目指さなければならない理由も
強制される理由もありません。
正しくなくても儲かるなら、そっちに行く
「正しい」の地位は低いのです。
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この回答へのお礼

>「正しい」を目指さなければならない理由も
>強制される理由もありません。
この方向で少しずつでも進めませんか?
ありがとうございました

お礼日時:2008/11/18 22:19

「正しいことの判定基準」が、立場によって違うためではないでしょうか?



立場で正しいとされることが違うとは、柔道の判定でも言えるかなと思います。 従来の日本での判定で見た時、日本人が仕掛けた投げ技が決まって、その後、相手が転ぶように日本人を返すと返し技として相手に1本と言われた判定がありましたよね。 最近は柔道もレスリング的な見方の判定が国際ルールになっていますから、従来の日本での判定が正しいとはされない状況になった訳です。

自国、自分に有利に判定基準を変えたり、見方を変えて、自分に有利にすることあるため、「正しいことが正しいとされない世の中」だと言われる理由じゃないでしょうか。
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この回答へのお礼

判定の場合、審判に悪意がなくても無知なため「正しく」判定できないこともあると思いますが、質問の「正しくない世の中」は悪意です
ありがとうございました

お礼日時:2008/11/18 21:17

物事、結果で判断され、課程はあまり重要でないことが多いんです。


TVで水戸黄門をやっていますが、あれなどは善悪がはっきりしていますけど、現実には民百姓から年貢を搾り取り、悪徳商人と結託して賄を受け取り、その資金で藩政改革を行って藩財政を立て直した有能な悪家老はいくらでもいますし、品行方正を心がけ、清貧に甘んじ悪を悪と処断した結果、藩財政が破綻して何年も先の年貢を担保に金を借り、さらに苦しくなってしまった迷藩主もいます。
黄門さん自身、大日本史の編纂で、水戸藩はかなり苦しいやりくりをさせられ、結果的に幕末の迷走につながりますから、名君とは言い難いと思う。
つまり、正義を実現するために悪の限りを尽くす人間の正邪、こんなことは棺桶の蓋が閉まるまで分りませんから、世の中に「正しいこと」などないと思います。
絶対善がないからこそ、世の中は微妙なんですよ。
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この回答へのお礼

藩財政はどうでもよく、国も無くてもいいですし、やりかたを間違えた話でもなく、単に正しくならない理由が知りたいです

お礼日時:2008/11/18 21:00

戦争のときは人を殺してもいいように、


正しさには絶対基準はありません。
しかし、戦争中でも、人を殺したくない、
戦争は嫌だという考えの人も当然いました。
「正しいもの」というのはその時々で変わりますが、
そうじゃない正しさをもっている人もいる。

「正しさ」は「そのときの多数派の正しさ」でしかないのです。
ですので、「なんで正しい世の中にならんのだー!!」と声を上げるのは
「少数派の正しさ」を持っている人で、
つねにそういう声は上がり続ける、という結論になりました。

以上、思い付きです。
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この回答へのお礼

そういう話ではなくて、「正しくない」と分かっててやってる人たちがたくさんいるじゃないですか、それはなぜなくならないのですか?
ありがとうございました

お礼日時:2008/11/18 20:51

「何に好感を抱くか」や「何を嫌悪するか」が‘人それぞれ’なように、「何が正しいか」「許容範囲か」を計る尺も‘人それぞれ’だからでしょう。

この回答への補足

ありがとうございました
補足欄とお礼欄を間違えました

補足日時:2008/11/18 20:47
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この回答へのお礼

「分かっているのに」という確信犯をなくせないのはなぜか?
という質問です

お礼日時:2008/11/18 20:47

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